第3話中国 北京
ウェンがそっとドアを開けて、中を覗き込むと、父親と男の人が立ち上がったところだった。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
彼らが握手をしてお辞儀を交わすのを見て、慌ててドアから離れて自室へ駆け込んだ。信じられない。十八になったばかりの娘を簡単に売るなんて。震える手でスマホを取り出して、チャットアプリの微信でリンシンにメッセージを送る。
「婚約が決まった」
短い文章だったけれど、リンシンにはこの方が良い。無駄な文章を読むのを嫌う性格なのだ。返信はすぐにあった。
「20分後にいつものカフェで」
その返事を見て、ウェンは着替えようとクローゼットを開けた。このクローゼットを見るたびに重たい気分になる。ごちゃごちゃに詰め込まれた洋服。そのうち整理をしなければと思いつつ、億劫で手を出せていない。
なんとか来ていくワンピースを選ぶと鞄を手に取り、父親に見つかる前に外へと出た。ウェンの家は大きな一軒家だった。政治家の家というのは無駄もルールも多い。門限は六時。まだ三時を回ったところだが、リンシンとの話に夢中にならないように気をつけないといけない。
リンシンとの待ち合わせのカフェは、ニューヨークから上陸した、ブルックリンスタイルの洒落たカフェだ。二人ともここが気に入っていて、いつも会うときはこの店で会っていた。
カフェの入口で待っていると、リンシンが来た。青い帽子を目深に被って、黒いパーカー。下は男の子みたいなジーンズ。これでウェンよりも六つも年上だなんて思えない。
「ウェン。大変だね」
そう言うリンシンはのん気そうだ。ウェンはいつものことだったので、怒らずに彼女の手を取って、お店に入った。入口近くにあるレジには右手を上げた招き猫が置いてあった。その効果なのか、なかなかの繁盛ぶりだ。
店員に案内されて、奥にある席についた。
「アイスコーヒー」
ウェンがそう言うと、リンシンはメニューをちらっと見てカフェオレとチョコレートケーキを注文した。それから彼女はイスの背もたれにだらしなく寄りかかり、ウェンを見た。
「それで?」
「それで、じゃないわよ。最悪よ、勝手に婚約されたのよ!」
ウェンが憤ると、リンシンは冷静な声で、
「いいじゃない、相手ってあれでしょ? こないだ私の招き猫買ってくれた人。アメリカで医者やってるっていう、超エリートじゃない。招き猫も大きいやつ作ったんだけど、結構いい値段で買ってくれたよ。私、何も言ってないのに」
リンシンは、アーティストだ。もともとは絵を中心に制作をしているが、半年くらい前からハートをモチーフにした木彫りの招き猫も作っている。これが最近SNSを中心に話題になっているのだという。ウェンの婚約者もひとつ買った話は先週聞いた。てっきり自分へのプレゼントなのかと警戒していたが、彼から連絡は来ていないので勘違いだったらしい。
「確かに、悪い人じゃないわよ。フェイスブックで友達だし……でも、それと恋愛は別でしょう?」
「それはそうだけど。じゃ、断ればいいじゃない」
「無理よ、父は自分のやりたいことを全部やる人なの。だからあんな家に住めているんだもの。それに、相手の方が格式が高いんだもの。断れるわけないわ」
「そりゃそうか」
ははは、とリンシンが笑った。店員が頼んだコーヒーとケーキを持ってきた。リンシンがチョコレートケーキを一口食べるか聞いてきたが、断った。
彼女と友達になったのは父親がリンシンの描く絵に目をつけたからだった。投資として何枚か買いたい、とリンシンに申し出て家に招いたのだ。その時にウェンとリンシンは出会った。
最初は笑顔もなく、どうも、と一度軽い会釈をされただけだった。ずいぶんぶっきらぼうな人だと驚いた。けれど父親とのやり取りを聞いているうちに、正直な人なのだと気づいた。彼女はお世辞を言わなかった。高く買ってもらおうともしない。商売として成り立つのだろうかとこちらが心配になるくらいだった。
ウェンの周りは嘘にまみれていたから、物怖じせずに自分の思ったことを正直に話す彼女が新鮮に見えて、そして正しい人だと好感を持つようになった。
何よりも、自分の意思で選択をしていく彼女に惹かれた。父親から言われるがままだった自分とは違い、彼女は絵を描くことを選択して生きていた。その強い眼差しが好きだった。
「ウェンって好きな人いないの?」
いきなりそう聞かれて、ウェンは飲んでいたコーヒーを味わう暇もなく、ごくりと飲み込んだ。
「い、いないわよ、そんなの」
それは嘘じゃない。けれど、本当でもない。
「そっか。駆け落ちでも勧めてみようかと思ったけど、ダメそうね」
「家出したところで、父に連れ戻されるのがオチだわ。国外逃亡でもしないかぎり」
現実的でない話だった。つまるところ、この話の先は決まっている。父親の言い分を飲んで、結婚するのだ。だからこれは、単なる愚痴だ。あるいはほんの少し期待したのかもしれない。リンシンが何か考えてくれるかも、と。
「リンシンこそ、好きな人いないの?」
「私? いるわよ」
「えっ」
さらっと言われて、ウェンは思わず固まった。そんな風に見えたことが一度もなかった。けれど彼女も考えてみれば、二十四なのだ。結婚しててもおかしくないし、好きな人くらいいる年齢だ。
「へ、へえー? 知らなかった。誰? どんな人?」
動揺を押し隠して尋ねると、彼女はチョコレートケーキをつついていたフォークを咥えた。
「一年くらい前に会った人。日本人なんだけど……。バーで知り合って、意気投合したけどそれきりね」
「へえ……」
アイスコーヒーのストローをぐるぐる回しながら、一緒に回っている氷を見つめた。ショックを受けている、自分にショックだった。諦めていたはずなのに、今更ショックを受けるだなんて。
「私の話はいいよ。ウェンの話じゃない」
「うん……でも……どうしようもないもの」
急に父親への反抗心が萎んでいった。諦めるのには慣れていた。肩を落としたウェンを見てか、リンシンはため息を付いて、テーブルの上に小さな招き猫を置いた。その頭には小さな紐がついていて、ストラップになっているようだった。
「ねえ、これあげる。試しに作ってみたんだけどさ。お店に置いてもらおうと思って」
彼女なりの優しさなのだろう。ウェンはちょっと微笑んでそれを受け取った。招き猫をまじまじと見てみると、その肉球はハート型だった。
「ありがとう。かわいいね。売れてるんだ?」
リンシンが作る招き猫は、若手作家の雑貨屋に置いて貰っていると聞いていた。
「うーん、すごくってわけじゃないよ。インスタとかツイッターでは、いいねしてくれる人多いけどね、実際に買ってくれるのはその三分の一くらい。置いている店も限られてるしさ」
「あー、なるほど。じゃあ私も宣伝してあげようか?」
スマホを取り出してみると、父から電話の履歴があった。けれどそれを無視して、ツイッターを立ち上げる。
「リンシンのツイッターの宣伝用のアカウントなんだっけ。インスタでは見てるけど、私、ツイッター最近やってないから忘れちゃった」
「@LuckyCat88888。ツイッターもインスタも一緒」
彼女のツイッターアカウントを見てみると、フォロワーはもうすぐ五千を超えそうだ。ウェンのフォロワー数が百五十なのを考えると、とんでもない数字に思えた。
「すごいフォロワー数だね」
「ここ一ヶ月くらいで急に増えたんだよね。海外の人からもフォローされるようになったからかな」
「通販とかしたら? 欲しがってる人もいるんでしょ」
「海外発送とか、一人でやってたら大変だって」
「まあそっか。絵の方はどうなの?」
そう聞きながら、招き猫のストラップの写真を撮って、ツイッターとインスタにアップした。もちろんリンシンのアカウントを一緒に載せるのも忘れていない。
「そっちはもっと売れないでしょ。いいのよ、絵は別に売るのが目的ってわけじゃないし」
「ふうん。でも招き猫はちゃんとSNSにアップしたりして宣伝してるじゃない? そのおかげで最近ちょっとずつ流行ってきてるんだし。絵はそういうことやらないのって勿体無いと思うけど」
リンシンは飲んでいたコーヒーをテーブルに置くと、考えるように天井を見上げた。
「うーん。売りたいというか……届いたらいいなあ、と思って」
その言い回しにピンと来て、ウェンは苦笑いする。ハート型の肉球を持つ招き猫を見る。
「さっき言ってた日本人に?」
「……うん、まあ」
「連絡先とか知らないの?」
嫉妬か、好奇心か。それとも会話の流れか。聞きたくないはずなのに、するりと疑問が口に出てしまい、ちょっと後悔した。
「いや……ちょっと一緒に飲んだだけだし」
「……え? もしかして行きずり?」
恐る恐る尋ねると、彼女にしては珍しく慌てた様子で、
「ち、違うよ。そういうんじゃなくて。私がいいなって思っただけ。こっちの連絡先渡したんだけど……まあ、一年たっても連絡ないんだから、脈はないってことだよね」
「でももっと会ってみればわかるかもしれないじゃない。探してみたの?」
「名前しかわからないし……」
自分のこととなると急に弱気になるリンシンに、ウェンは呆れてしまった。思わずもやもやしていた気持ちも忘れて尋ねる。
「その会ったっていうバーに通ってみたら。その人だってまた来るかもしれないんだから、いつか偶然会うでしょ。あ、お店の人は? 覚えてなかった?」
「…………」
嫌な沈黙にウェンはまさかと思い、確認する。
「もしかして、一度も行ってないの?」
「いや、だって……会ったら会ったで気まずいし」
「だからってずっと猫作ってるつもりなの? その人がこれ見てもリンシンのことだってわからないかもしれないじゃない」
「……その人にも、招き猫渡してるから。わからなかったなら、それまでってことでしょ」
連絡先を渡しているのに、何もなかったことが堪えているのか。彼女が忍耐強くこんな遠回しなことをしていることに驚いた。自由な人だと思っていたのに。ウェンは唇を軽く噛んだ。
「行きましょう」
「は?」
「そのお店。今から行こうよ」
「いや、もう夕方だし、ウェンは門限あるでしょ」
「そんなことよりこっちのが大事」
リンシンの腕を取って、ウェンは立ち上がった。その手に招き猫を握りしめて。
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