変化

第19話 雨宮side 「雨宮先生、ちょっとよろしいですか?」

「雨宮先生、ちょっとよろしいですか?」


 高総体から二週間が経った頃、職員室で突然教頭から呼ばれた。

 いつもは世間話から始まり、やがて回りくどく要件を伝えるのがこのおばちゃんのやり方なのだが、今日はストレートにやってきた。重要な話だと察する。


 何かやらかした? もしかして錦戸くんとのことがバレた?


 彼とはこの二週間ろくに話していない。以前頼んだ、綾野さんに勉強を教える件は覚えていたらしく、放課後二人で自習室へ向かう姿を目撃している。火曜と木曜。おそらく、綾野さんの予備校の日を避けてのスケジュールだろう。


 今日は木曜日。二人が出ていくのを見て、私の推測は確定した。


 教頭の前に立つ。細枠の丸メガネから鋭い眼光がのぞく。私のお母さんくらいの歳。いい歳して髪を綺麗に黒く染めている。私はこの教頭から理不尽に嫌われている。


「なんでしょうか?」

「雨宮先生のとこの錦戸奏くんなんですけどね」


 きた。喉がカラカラになって唾を飲み込む。


 彼に告白したことがバレる。もしそうなったら、教師を辞めてもいいと思った。

 どうせやるなら、楽しい仕事がいい。ビール工場見学のアテンダントとかいいな。そんなの狙ってなれるのかな、なんて。バカだ。


「あなた、彼とちゃんと信頼関係は取れてますか?」

「へ?」


 間の抜けた声がもれた。教頭は呆れた顔をする。


「しっかりしてください。その様子だと、やはり知らないみたいですね」

「は、はあ。錦戸くんのことで何か?」

「彼はあなた抜きで、私のところへ直談判しにきたのです。この間提出した志望校調査記録を書き直したいと。当然、担任を通すようにと突っぱねましたが」


 以前錦戸くんを説得して、T大工学部の機械系を第一志望として調査記録に書いてもらったのだった。

 書き直す? もともと志望してたY大? 私を抜きにとは? 反抗してる?


「錦戸くんはどこを志望すると言っていましたか?」


 教頭は仕方ないと言いたげな顔で、


「M教育大です。教師になりたいそうです。全く、国立だから大目には見ますが、あの成績で旧帝大を目指さないのはもったいない。教職はどこでも取れるというのに」


 教頭は続けて、うちの息子と同じく反抗的だ、とか、彼に影響される生徒が出てくるのを防がないといけない、など、ぶつぶつ愚痴をつぶやき出した。


 もう私に用はないらしい。お前でなんとかしろということなのだろうか。

 と思いきや、突然教頭は私に向かって目を見開いた。


「雨宮先生! 錦戸くんを必ずT大のオープンキャンパスに行かせなさい。M教育大の方もいいですが、T大は絶対です。いいですか⁉︎ 説得させるんですよ!」

「は、はい!」

「要件は以上です」


 私は失礼して職員室を出た。部屋を出る道中、近くにいた先生方が哀れみの目で私を見ていた。


 廊下に出て一息つく。


 錦戸くんが私の母校を志望している?

 私と関係があるんじゃないか?


 自惚れかもしれないけど、そう信じて自信をつけなければ、これから錦戸くんと話ができそうになかった。


 幸い、綾野さんと自習しているおかげで、錦戸くんはまだ学校に残っている。帰りを待ち伏せして、話をしないといけない。


 一度偵察の意味で自習室の前を通った。自習室は基本会話禁止。しかし、相談スペースが別に設けられている。梅雨時期で蒸し暑く、扉は開け放っていた。


 錦戸くんと綾野さんは、相談スペースで隣り合わせに勉強していた。扉から真っ直ぐの位置に机があり、二人の姿が外から見える。


 衝立一つ隔てているだけなので、騒いではだめ。そのルールを守るため、綾野さんですら声を低くして錦戸くんに話しかけていた。


「奏、このタンジェントの積分の問題、答え見てもわかんないんだよね」

「ああ、ここ省略してるな。不親切な解答。分解して考えないと」


 錦戸くんは解法を解説する。綾野さんはふんふんとうなずく。


「すごい。天才だ」

「前に似たような問題を雨宮先生から教わったんだよ」

「雨宮先生か。あの件、いつまで黙ってるつもり?」


 綾野さんは周辺を見渡す。じっと二人の様子を眺めていた私に気づいた。彼女は、奏、とつぶやいて彼の肩を叩く。


 ついに彼に気づかれた。


「錦戸くん、勉強が終わったら職員室まで来てください。将来について大事な話があります」





 錦戸くんは午後六時半頃に職員室にやってきた。私と同じように周りの教員も一斉に彼に視線を向ける。


「錦戸くん、ちょっと廊下へ」


 私は職員室を出て扉を閉め、


「牧田先生に理科準備室を開けてもらったから、そこに行こう」


 理科準備室は隣の理科実験室で使用するフラスコやビーカー類の予備、そして薬品が所狭しと棚に並んである。まさしく楽屋裏だ。劇物・毒物は鍵付きの棚に収納されているものの、教員だけしか入れない部屋だ。


「雨宮先生、なぜこんなところへ? 生徒指導室があるじゃないですか?」

「人の目が気になるし、綾野さんを巻いておかないといけないでしょ。あの子がいると、変な展開になりそうだし。絶対予測されないところを選んだの」


 彼女は先に帰ったというが、まだ校内にいて盗み聞きされる心配もある。


「僕には、雨宮先生と二人きりの方が変な展開になりそうに思えます」


 思わず乾いた笑いがもれた。


「今日は真面目な話! 色々聞きたいことがあるんだよ! なんで私をすっ飛ばして教頭のところへ行ったの?」


 錦戸くんは私から視線をそらし、


「だって、雨宮先生に話したら、ついには親のところまで話が飛んでいきそうだったし。でも、無駄でした」

「そりゃそうだ」


 志望校の変更なんて、ずっと黙っていればそれで済む。簡単なことだ。彼だってわかってるはず。

 今回の出来事は、わざとばれるように仕向けたに違いない。


「工学部志望と教育学部志望ではちょっと意味合いが違うんだよ。最終的には本人の希望が通るのは当たり前なんだけど、君の場合は唐突すぎてさ。ちゃんと説明する義務があります」

「……」

「ここで言えないなら、ちょうど今月末に三者面談があるから、そこでご両親含めて話を聞きます」


 錦戸くんは観念した顔で、


「僕が教師を目指すようになったのは、あなたがいるからです。雨宮先生と同じ数学教師になりたい……でも、ただの担任に憧れたと言うだけで、急に進路を変えるのを説得できるかどうか、わからなくて不安なんです」


 薄々感づいていた事態が表に現れた。


「前も言いましたが、工学部でも教員免許は取れるんです。今選択肢を狭める必要はない。君には色々迷惑かけちゃったけど、可能性を捨ててまで将来を決めてほしくなかった」


 錦戸くんは必死になって否定した。


「僕はエンジニアにこだわりはないんです。理系だから漠然と志望してただけで。でも教師は違う。目標があれば頑張れると思うんです」


 呆然とした。

 じわじわとポジティブな感情が湧いてくる。

 嬉しい……涙が目からあふれた。


 この子は何度泣かせてくるんだろう?

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