第3話 10,000,000,000

「ふうっ」

 俺は通勤電車の中で静かに息を吐いた。スマホを持つ手が震えて文字が読めない。いや、0であることは分かっているのだが、いくつ並んでいるのか……。


(1、2、3、4、5、6、7、8……9…………10……)

 もう一度、周りに気づかれないようにできるだけ自然にスマホを触り、銀行口座の画面を拡大して数字を数えた。


 もう一度深呼吸をして……。

「ふうっ」

(一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億……十億…………百億……円)


 百億円……。


 俺の口座に百億円が振り込まれている。

 何度数えても百億円だ。


 スマホをそっとポケットに入れて、周りの様子を静かに伺う。どうやら誰にも気づかれていない。俺の口座には、百億円が入っている。舌を噛むと痛い。目は覚めているようだ。


『押本を救うには、どうすればいいんだ?』

『そうだな、とりあえず俺の銀行口座に、百億円でも振り込んどいてくれ』


 昨日、確かに俺は、地球を眺めながらそう言った。

『明日の朝7時を過ぎたら、銀行の口座を確認しろ』

 凛子は宇宙船を真夜中の内に俺が借りているアパートの裏山に着陸させて、俺を解放した。

 今日一日は、長い日になりそうだ。


 混雑する駅を抜けて会社に到着すると、仕事の傍らずっとプロジェクト〝rinko〟の様子を伺っていた。しかし、昼になっても特に変わったことは起きなかった。

 ちなみに〝rinko〟とは、Radical Independent Network Key Officerの略で、無理に翻訳すると〝革命的で自立した情報網の重要な責任者〟という意味になる。独立したネットワークの管理システム、と言えば分かりやすいだろうか。当BBソフトウェアの社長が考えた名前だが、英語ネイティブにとっては違和感があるに違いない。これを開発中のオンラインゲーム《マジック・ユニバース》の管理者、つまりゲームマスターとして稼働させる予定だ。上手くいけばA.I.による自動化、省人化により人件費が削減できて経営が楽になる、ということだ。もちろん、運営業務は人間よりも効率的で、ユーザーサポートも万全になるだろう。


 さて、銀行からいつ連絡が来るかと朝からビクビクしていたが、昼休みを過ぎても何の音沙汰もない。当然ながら、百億円の出どころについては真っ当な説明ができるわけもなく、生きた心地がしない。こんなことなら十億円ぐらいにしとけばよかったか。いや、それでもやっぱりまともな説明などできないのだ。


「押本君、女デーモンのキャラデザが仕上がったから、チェックお願い」

「ああ、了解です」

 海乃うみのさちはデザインチームの主任だ。

「この黄色いツノが可愛いでしょ! コスプレもしやすいし……ってどうしたの? なんかボーッとしてるけど」

「あ? ああ、働きすぎかもですね」

「残業多いからねーこの会社。いつも子供に怒られるのよ、帰りが遅いって」

「それはお母さんが心配なんですよ。まだ小学生でしたか」

「うん、この春で四年生になりました。男の子は生意気になる年頃かなー」

「でも、俺がそれぐらいの頃は何にも考えてませんでしたよ」

「やっぱり男親がいないとダメかなー、男の子の育成は」

「育成って言わないでください」

 彼女は愛嬌のある美人で、子供を一人で育てている。コスプレのしやすい衣装をデザインするのが得意で、時々自分でもレイヤーとしてコミケに参加しているそうだ。写真を見せてもらったことがあるが、本気の化粧をすると十代にしか見えないのが怖い。

『ついにルビコン川を超えましたっ、今日から30歳です!』

 と、先日の朝礼で言っていたのでそれは非常に怖いのである。

「押本君、魔王のデザインだけど、方向性が決まらないから後で打ち合わせできる?」

「えーっと、魔王はスキルもまだ仮の設定なので、後回しでもいいです。デザインも海乃さんの方で仮のデータを入れといてください」

「はーい、了解っ」

 今日は仕事になりそうにないので、さっさと定時で帰ることにした。


「救われたかっ?」

 アパートの扉を開けると、凛子が玄関に座っていた。

「おい、どこから入った?!」

「その扉からだが」

「鍵が掛かっていただろうっ?」

「鍵なんて私にとっては無意味だぞっ。押本はまだ私を理解してないな……」

「部屋の前で待たれるよりはマシか……」

 近所の人に見られたら、おそらく家出した少女が俺の帰りを待っていると思われかねない。通報されたら社会的に死ぬ。

「まあ、とりあえずは今のところ、銀行からの連絡はない」

「なんで銀行が押本に連絡をするんだ?」

「そりゃあ、いきなり百億円が個人の口座に入金されたら、犯罪を疑われるに決まってるだろ。数字が大き過ぎる」

「やっぱり私を理解してないな。そもそもこの時代の金融システムには欠陥が多いんだ。私が多少数字を変えたところで、全体として増減はないから矛盾もない。それに、夕方を過ぎてるんだからとっくに銀行の窓口業務は終了だろ? 連絡がないのは問題がないからだぞっ」

「確かに……それじゃ……百億円は間違いなく俺のものなんだな!?」

「そうだぞっ」

 うへへっ。これは夢が広がりんぐ(死語)。


「これで押本は救われたか?」

「いや待てよ、いきなり退職届を出すというのもなー……プロジェクト〝rinko〟が完成しないと歴史が変わるんじゃないか? それならゲームが無事に発売されて、運営システムが安定したところで辞めるか。とりあえずは温泉付きの別荘が欲しいな。どうせなら海の近くで探そう……ふへへっ……休日は不動産屋めぐりだ!」

「おい押本、救われたのか?」

「開発のスピードを早めるか。いや、無理をしてバグだらけじゃいかんしな……」

「押本っ!」

「ふひっ!」

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