ヒグマムシ
沃懸濾過
或る手記
ヒグマクマムシはヒグマのように大きいことを由来に名付けられたクマムシである。当然のことながら実際の大きさはヒグマほどもない。
せいぜい1.4mほどである。
マレーグマやツキノワグマと同程度の大きさと言えるが、かといってマレーグマクマムシやツキノワグマクマムシとは呼ばれていない。最大でも2mを超えない体長でありながらヒグマの名を冠するこの種は、親しみを込めてヒグマムシと呼ばれることもある。
ただ、人間側からの一方的な親しみというのは当のヒグマクマムシにとっては腹の足しにもならないものであり、ヒグマクマムシ側から親愛が返されたことはない。にもかかわらずヒグマクマムシは一部の人間からは信仰とも呼べるほどの狂気的な支持を得ており、例を挙げればヒグマクマムシ森林連盟と呼ばれる団体は冬季に駆除されたクラミドモナスやワムシ類を餌として森林内に運び込んでいる。もちろん無許可である。こういった餌付け行為はヒグマクマムシが森林から人里に降りてきたり、野生と異なる生態を持つことを助長させる恐れがあるとして問題視されている。
とはいえ、ヒグマクマムシの動きは非常に緩慢であり、人里に降りてきた際に交通の妨げになることこそあれ人的被害を出すことは非常に稀である。基本的に雑食ではあるものの、動作が緩慢であることも相まって野生下ではもっぱら苔類を主食としており、肉食性の強い個体はあまり多くない。とはいえ森林内で傷ついていたり死んでいる他生物を見つけた場合は効率的に栄養の得られる食物として活発に遺骸を摂食する姿が観察されるという。また、ヒグマクマムシ森林連盟などから多くのクラミドモナス等の遺骸による餌付けを行われた森林によっては強い肉食性を示す個体群もある。クラミドモナス食を肉食に分類するか草食に分類するかは意見の分かれるところではあるが、運動性を持つ他生物に対し積極的な捕食行動を取る点から、一概には草食性主体の雑食であるとは言い切れないだろう。
今、私の目の前にいるヒグマムシがそういった肉食性の個体ではないことを祈るばかりである。
体長は目測で1.2mほど。あまり大きくはない。4対8本の爪のある足で落ち葉を踏みしめながら、ゆっくりとした動きでこちらに近付いている。
悠長にそんなことを手帳にしたためていないでさっさとその場を去るべきであるという意見には同意するものの、そうはいかない事情がある。
フィールドワークの最中に足を滑らせて崖から落ちた際、足を怪我してしまっているのである。擦過傷は多いものの出血はほぼなく、外傷は無いように見えるが立ち上がることができない。太ももの付け根に強い痛みがあり、股関節が脱臼をしているか、骨折しているか、靭帯を痛めているか、肉離れを起こしている。おそらくこのどれかではあるはずだ。医学の専門家ではないのだ。詳しい状態は正直なところよく分からない。怪我の種類がなんであれ、ともかく歩くことはおろか立ち上がることさえできないというのが現状である。故にこそ、手帳に現状を記すばかりである。
警察か消防が、私の痕跡を見つけた際に役立つように。
入山申請はしているため、長期間戻ることがなければ警察や消防が動いてくれると信じている。むしろ、そうならないことを祈るが。
ここがもし電波の届く場所であれば即座に電話で助けを呼んでいる。今の状況も動画付きで実況しても良かったかもしれないが生憎の未開の地だ。人の手があまり入っていないからこそヒグマクマムシが多数生息する素晴らしい環境が残っているとも言える。多くのヒグマクマムシから捕食圧を受けてなお青々と茂る苔の林床がその証左だ。
そうも書いているうちにヒグマクマムシが落ち葉を踏みしめる足音がはっきりと聞こえる距離まで近づいて来ている。正面からではやや見えづらいが、半透明な腹部には緑色の内容物があるように思える。クラミドモナスを捕食した可能性もあるが、普通に考えれば林床の苔を食べたものと思われる。だがヒグマクマムシの足取りははっきりとしており、たまたまこちらに向かって歩いて来ているのではなく、確かな目的意識を持って緩歩しているように思える。
やはりというか覚悟はしていたが、私も同じ地球を生きる生物の一員であるということなのだろう。人間がその立場を離れて久しいが、自然の一部となることは極めて自然なことだ。恐怖や後悔がないとは言わないが、ヒグマクマムシ研究に少しでも携わった者として、潔くヒグマクマムシと今後のヒグマクマムシ研究の糧となろうと思う。
もしもこの手記を研究や教育、報道に活用したいと思うのであれば大いに構わない。著作権は主張しない。この手記を見せて家族にもそう伝えてほしい。存分に役立ててほしいと。
運良くキリの良い所まで書くことができたため、汚れたり荒らされることを避けるために手帳を閉じて遠くに放り投げておこうと思う。
この手帳を拾った方、どうかお願い申し上げたい。
ああ、そういえば明日の予報は雨だったか。ここまで書いておいてなんだが、鉛筆ではなくペンで書いてしまったことが、少し心残りである。
ヒグマムシ 沃懸濾過 @loka6ikaku9
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