第5話 猫に連れらて

「たかし」


 誰かに呼ばれて僕は目を開けた。


 強い日差し。はっぱの間からちらちら光りながら、僕の目を刺してくる。まぶしいと手を翳すと、誰かが僕の顔を覗き込んだ。


「***・・・?大丈夫か?」

 最初の言葉がよく聞き取れなかったけど、意味は分かる。僕を心配している声だ。


 ああ、きっと学校の事を心配して聞いてくれたんだなと思い、直ぐに「大丈夫だよ」と返そうとして、僕は指の間から流れ落ちる熱いものに気付き驚いて手を離した。


 濡れている。

 僕、泣いている?声を出さないで泣いている?なんで?


「…大丈夫じゃない」

 

 そうだよ。

 怖い。

 とても怖い。


 沢田君が怖い。先生が怖い。つきこ先生が怖い。体育の先生が怖い。クラスメイトが怖い。大人が・・・


 学校が怖い。

 

 おかしいよ。だって僕の周りはみんな優しい人達ばかりで、凄く暖かかくて居心地のいい幸せな世界だった。みんなニコニコしていた。みんな優しかった。

「しょうがっこう」「しょうがくせい」それが何かはいまいちよくわかっていなかったけど、幼稚園を卒園したらみんな行くところで、沢山のお友達に優しい先生が沢山いて、楽しい事面白い事を沢山教えてくれる場所だと教えてもらった。


 嘘だ。

 お母さんもお父さんもおじいちゃんも、幼稚園の先生もみんなみんな嘘つきだよ。

 だって小学校は怖い先生ばかりで、怖いお友達だらけで苦しくて息苦しくて痛くて辛くて・・

 

「大丈夫だ」


 僕は驚いて声の方に顔を向けた。僕のそばにその人は体育座りみたいに座っていて、膝の上で腕を組んでいる。そしてどこかを見ている。僕の方じゃないどこかを見ている。

 でも、全身で僕を心配そうに見ているのがわかった。そして少しぶっきらぼうに笑うように言う。


「たかしは、ぼやっとしているが、根っこがしっかりしているから大丈夫だよ」

「え?」


 根っこ?


「よわっちいし、ぼやっとしているけど大丈夫。お前はそのままでいいんだよ」


 そのままでいい。大丈夫。


 その言葉がカラカラに乾いた土に撒いたじょうろのお水のように体の中に染みていく。


 そのままでいい。

 大丈夫。


 お母さんもよく笑って言う。転んだとき、何か失敗した時、怒られたとき…。

 大丈夫。大丈夫。失敗しても大丈夫。転んでも大丈夫。大丈夫。


 固く固まった体の中の何かにすーっと暖かい物が入り込んでくる。魔法の言葉。


 するとするりと何かが顔をすりすりしていくのにぎょっ!として跳ね起きた。


「にゃー」

「あ!猫。学校の猫!」


 学校にいて僕の家まで来ちゃった白い猫が、青い瞳を細めて頭をすりすりしてきた。暖かい。そして何かほわほわした優しい匂いがする。懐かしい匂い。


「たかしは時々変な事を言うな。そいつは、お前の猫の、トキだろ?」

 僕の猫?

「トキだろう?」

 首を傾げると、彼はおかしそうに笑う。日に焼けた顔で真っ白な歯を笑わせる。

「トキなの?」

 そう話しかけると、猫は目を細めて頭をすりすりしてニャーと鳴く。可愛い声でなく。

「トキ…」

 そっとその暖かい体を抱きしめ頬ずりをする。


「たかし」

「うん?」

「たかしは大丈夫だ」

「…でも怖い」

「大丈夫だ。お前は根っこがしっかりしている。沢山の人に愛されている。だから…大丈夫だ。お前にはオレもトキもついている」

 

 でも怖い。学校に向かう道は朝なのに沢山の棘の生えた真っ黒な道に見える。学校はその怖い物を吸い込む怖い建物だ。中にも罠が沢山ある。怖い人もいる。あそこはお化け屋敷みたいだ。


「大丈夫だ」

「どうしてそう言えるの?」

「怖いモノもいる。でも…たかしには味方が沢山いるだろう?一人じゃないだろう?友達が、先生が、お母さんにお父さんに他の大人も守ってくれただろう?」


 ぱっと、菊池君に金子さんに校長先生達の顔、お父さんお母さんやみんなのお母さん達の顔が浮かんだ。


「楽しいこともあるだろう?」

 ぽん!と桜の咲く校庭が頭の中に広がる。

 優しい先生。少し怖いけどおじいちゃんみたいに本当は優しい先生が笑う。色んな知らない物が沢山ある色んな教室。知らないことをみんなで教えて貰う教室。笑って歩く廊下。美味しい給食。裏庭のウサギ小屋のウサギ達。園芸部員のお兄さんお姉さんが育てるチューリップ。コンクリの屏に並んで立つ大きな樫の木。秋になると食べられる実が落ちてくるんだよと、笑って教えてくれる6年生のお世話係のお兄さんの笑顔。その木の下で丸くなって寝ているトキ。白い猫。

「ほらな」

 そして彼は笑う。

「俺も…トキも味方だ。だから たかしは 大丈夫だ」


 何か音がする。ざーん、ざーんと音がする。なんの音だろう。どこかで聞いた音だ。僕はその音を聞きながら涙を拭いた。

 大きな暖かな手が僕の前に翳され、そして頭を撫でる。優しく撫でる。トキが背伸びして僕の頬を舐める。ざりざり舐める。くすぐったい。


「たかしは大丈夫だ。だから寝なさい」


 僕はまた瞼を閉じた。


 でもざりざりとトキが頬を舐めるので、「やめてよー」と手を振ると目を開けた。目の前にトキがいる。夢の中の時と同じ目で見下ろしてくる。青い目だ。海の色だ。おじいちゃんの田舎の家の海と同じ色。

「にゃー」

 トキが鳴いて横を向く。そこには恐竜の形をした時計がおいてあって。


「うわああああああ!!!!」

 僕は跳ね起きた!だって、ベットの横の時計が、11時を指していたんだもの!!しかも緑の恐竜のカーテンの外はもうお日様が高く昇っていて、部屋中が明るい!


「お母さん!大変!学校に遅刻しちゃうよ!!」


 僕は跳ね起き、慌ててリビングに降りて行った。

 

「おはよう、隆司」

「隆司君、おはよう!」


 お母さんの弟のおじさんとおばさん達がダイニングテーブルに当たり前の顔で座っていて、当たり前のように青いお花の絵のカップでコーヒーを飲んでいた。

 僕はびっくりしたけど、おじさん達はおかしそうにコーヒーを飲みながら笑った。


「え?おじさん?おばさん?なんでいるの????」


 びっくりする僕に、お母さんが笑いながら顔を洗ってらっしゃいと言うので、僕は慌てて顔を洗い着替えて来た。

「おー!偉いなあ隆司は!おじさんが隆司の年齢の時は母さんに毎朝たたき起こされ怒られていたよ」

「そうねえ、あんたはいつも寝坊していたわね」

「今もですよ」

 あはははとおじさんとお母さんとおばさんが笑う。その声を聞きながら、僕は嬉しくなりながら僕の椅子に座った。


「隆司」

 

 低いざらざらした優しい声に振り向くと、おじいちゃんがいた!お母さんのお父さんのおじいちゃん!

 O電鉄に沢山乗って行った先の街に住んでいるんだ。海も山も見えるお庭の家に一人で住んでいるんだ。ゴールデンウイークに遊びに行ったばかりだ。僕はびっくりも吹き飛ぶ程うれしくて急いで椅子をおりた。


「ええええ!?おじいちゃん!?どうして家にいるの?この間、バイバイしたばっかりだよね!」


 あはははと日焼けた皴皺の顔を太陽のようにいっぱい笑わせたおじいちゃんが、屈んで大きく腕を広げてくれる。僕はもちろん迷わず、ぽーん!とおじいちゃんの腕の中に飛び込んだ。

 おじいちゃんの匂いだ!夏の匂い!楽しい幸せでいろんな事を知っているおじいちゃんの匂い!


「いつ来たの!?」

「隆司が寝た後にな。俊と美弥子さんの後にきたんだ」


 俊はお母さんの弟で、おじいちゃんの息子。美弥子さんは俊おじさんの奥さんで子供はいないからと、僕をとても可愛がってくれる眼鏡が似合う、にこにこした丸顔のおばさんなんだ。お母さんとも仲がいいんだ。


「どうして来たの?」

「玲那から話を聞いてな。隆が心配になってきたんだよ」


 不意に、またドクンと心臓が鳴った。途端におじいちゃんがぎゅっと僕を抱きしめた。


「大丈夫だ隆司。ここは安全だ。ここは隆司の家で安全な場所だ。嫌な事は起きない」


 おじいちゃんの言葉に、身体の中で緊張していた何かが、ふうっ・・消えてなくなった。そしてふうっと、何か暖かい物が僕の足元を撫でていく。

 下を見ると、白い猫がにゃーと鳴きながら僕の足の間を8の字をかきながら、すりすりしながら歩いていた。


「お!?なんだ?どうしたんだ?この猫?」

「わかんない。学校の猫だと思う。昨日も校長室にいたの。そのあと着いてきちゃったのかなあ?昨夜、窓の外にいたんだ。窓を開けたら中に入ってきたから僕と一緒に寝ていたんだ」

「そうか」


 おじいちゃんはそれだけ言うと、猫の頭をわしわし撫でた。そして優しい顔で皴皺の顔を笑わでて僕を見た。

 おじいちゃんはつきこ先生みたいに、細かい事を怖い顔で何度も何度も聞くことはしない。いつも「そうか」で終わっちゃうんだ。

 僕は少しほっとした。


 「ニャー」と猫が鳴いて、すりすりしてくれて僕達はおかしそうに笑った。そして、みんなで遅い遅い朝ごはんを食べた。僕の大好きなオムライスとミニハンバーグとタコの形の赤いウインナーだった。猫にも白いお皿にキャットフードが盛られておかれた。トキはガツガツ食べて、みんなでおかしそうに笑い合った。


 朝ごはんを食べながら、お父さんは「今日は学校はお休みだから」と言い、僕はまたびっくりした。


「どうして?だってゴールデン・ウイークが終わったばっかりだよ?まだ火曜日だよ?」

「隆司、昨日、校長室で大騒ぎになったのを覚えているか?」

 

 心臓がまたドクンと鳴る。

 ぎゅっと僕は手を握りしめる。

 あのつきこ先生と佐伯先生の怖い目が睨んでくる。


「隆司」

 おじいちゃんが僕の手をぎゅっと握ってくれる。お母さんも握ってくれる。すりすりと猫が足の間を8の事を描くように歩いてくれる。途端におまじないのようにドクンが消えた。


 ここは大丈夫。


「覚えている。僕の筆箱と塚田君達の教科書がびりびりにされたんだよね?それをしたのは…沢田君?」

 お父さんは頷いた。

「お母さんと隆司が家に帰ってきて、隆司が寝た後にな、もう一度学校にみんな集まったんだ。大人だけでな」

「お父さん、早く帰ってきたの?」

「そうだよ。隆司の一大事だからね。お母さんとお父さんとで、もう一度学校に行って、大人だけで話しを聞くことになった。でも、そうすると隆司はこの家に1人になるだろう?だから、俊君・・・俊おじさんと美弥子おばさんに、おじいちゃんにも来て貰ったんだ」

 僕はびっくりして3人を見た。3人はにこにこしながら頷いた。

「ありがとう!」

「どういたしまして」

 そうにこにこ笑いながら言う美弥子おばさんの笑顔は、なんだか金子さんがにこにこ笑う笑顔似似てるなあと思った。おじさんとおじいちゃんも嬉しそうに頷きながらコーヒーを飲んだ。


「話し合いは夜遅くまで続いてね。それで、今日は臨時休校・・・学校はお休みになったんだ」

「え!?僕のせい?」

「「「違うよ」」」

「「違うわ」」

 一斉にみんなが真面目な顔で否定した。


「隆司のせいなんかじゃないの。これは、校長先生達が決めたことなの。大人が、決めたことなの。子供達は悪くないのよ」

「悪いのは沢田って子だ」

「俊!」

 吐き捨てるように言う俊おじさんに、お母さんが睨んで大きな声を上げた。まあまあと美弥子おばさんが俊おじさんをなだめる。俊おじさんは気まずそうに、ごめんなと、僕に謝った。

 苦笑したお父さんが話しを続けた。

「だから今日は学校はお休みだから、隆司を好きなだけ寝かせていたんだ。よく寝たか?」

 僕は頷いた。お父さん達がほっとした顔をした。

「で、お父さん達は大人達の話しを聞いて、さらにおじいちゃん達と話し合って・・・夕べの話しは隆司にも話した方がいいという結論になったんだ。隆司はどうする?聞きたいかい?」

 お腹がぎゅっとする。とても冷たい。怖い。でも

「聞きたい」

 お父さんはふうと大きく息を吐いて、両手を握りしめて僕を見た。怖い目じゃなくて優しい目だ。心配している目だ。「ニャー」とトキがないた。


「まず、隆司の筆箱は菊池君達の教科書と一緒に、沢田君と1年2組の川島さんと言う女の子の2人で壊され捨てられてしまった。ここまでは校長先生から聞いたね?」

「うん」

 そして大騒ぎになったんだ。

「川島さんは沢田君と同じ越境組の・・・隣のK県から来ている女の子だそうだ。だからその子と沢田君はいつも通学電車が同じで、仲良くなっていたらしい。だから一緒に、隆司や他の子達の持ち物を壊したんだそうだ」

 心臓が嫌な音を立てた気がした。お腹の中のどこか奥の方がぎゅうっと痛くなる。


「なんでそんなことをしたの?僕、川島さんに意地悪してないよ?本当だよ」

「わかっているよ」「大丈夫」

 焦る僕をみんながなだめる。良かった。ここには僕だけが悪いと話しを聞かない大人はいないんだ。良かった。

「何故そんなことをしたかの理由はこれから分かるはずだ。今日にでも校長先生が2人からもう一度聞くと言っていたからね」

「沢田君は・・・他のお兄さんお姉さんにも怖いことをしていたんでしょ?」

「ああ。隆司もクラスのみんな・・・されていたんだろう?その・・・」

「僕はカッターで自動販売機のジュースをPASMOで買ってこいとかは言われていないよ。下校の時に、傘でランドセルをつつかれたり、叩かれたり、長靴の中に入れられてひっくり返されたくらいだよ」

 お母さんが口元に手を当てて一瞬怒りの目の色になったけど、直ぐに泣きそうな目で「怖かったね」と言ってくれた。

「うん。怖かった。それにねトイレに入っていると、ドアの向こうで沢田君が僕がおっきいのをしているんだ。学校でうんこするなんて汚いとか臭いとか大きな声で言うから、僕はやめてと言ったら、他の子達ともっと大きな声で言ってきて・・・うんち隆司って呼ばれるのが嫌だったんだ。

 朝顔の観察日記を書くとき、土の色を黄土色にしたら、うんこうんこだ汚いって言われて・・・絵の具を全部捨てられちゃったんだ。手を洗うところに。僕がやめてと言ったら、うんこは水洗トイレに流すんだって、これで綺麗になったから沢田君は悪くないって、悪いのは汚い絵の具を持っていた僕が悪いっていうのは凄く嫌だったんだ」

「イキがったガキが。幼稚だな」

 忌々しそうに俊おじさんが言う。美弥子おばさんがぼかん!と肘鉄をおじさんの腕に食らわせた。そして「大丈夫、続けて」と、ニコニコして言う。

 大丈夫。魔法の言葉。

 僕はうんと頷いて、沢田君にされた怖いことを沢山話した。


 つきこ先生に言っても、「沢田君はそんなことをしません!」「悪口を言う子が悪い子です!」と、僕が怒られるばかりだったから、お父さんお母さんにも話せなかったけど、話していいんだと思うと、次から次へと怖い思い出が口から出てきた。

 話しすぎて喉がカラカラになると、お母さんが麦茶を僕のトーマスのカップに注いでくれた。その手は少し震えていた。

「お母さん、寒いの?」

 お母さんはにこりと笑うと手を押さえた。

「ううん大丈夫。ちょっと麦茶のボトルが重かったんだ」

「そうかあ!僕も重いと腕がぷるぷるするよ!」

 あはははとみんなで笑う。お父さんがにこりと言う。 

「他にもある?」

 僕は頭を振った。

「うーん・・・あったと思うけど忘れたかも。これ、菊池君も金子さんもみんなおうちでお父さんお母さんに聞かれているの?」

「そうだよ。みんなの話しを聞いて、その情報を集めてるんだ。これからどうするかを、またみんなで相談する為にね」

「どういう相談?」

 お父さんとお母さんは顔を見合わせた。

「いじめをした沢田君と川島さんの今後の指導・・・教え方、それと、沢山怖いこと、悪いことをした沢田君の教え方。そして隆司やみんなの心のケアとかだね。その為、夕べは遅くまで大人で話しをしていたんだ」

 そしてお父さんとお母さんはまた顔を見合わせ、昨日の事を話してくれた。

 

 校長室での大騒ぎの後、沢田君のいじめ事件は瞬く間に広がった。あっと言う間にPTAと言うところで問題なり、全学年の人が知って大騒ぎになったらしい。

 学校には沢山電話が来て、沢山のお父さんお母さんが押しかけてきて話を聞きたがったので、それで、もう一度みんなが集まってで をしたんだって。


 何故かというと、沢田君は僕達を虐めていたんじゃない事が分かったから。

 沢田君のは1学年の4クラスのうちのいたんだって。


 びっくりした。


 それを止めに入った上級生のお兄さんやお姉さんにもカッターを向けていたり、下校途中の道で待ち伏せして怖い事を言ったりして泣かせたり、髪の毛を切ったりしたんだって。


 僕は沢田君が元々怖かったけど、もっと怖くなった。


 みんなのお父さんお母さんは、そういう被害報告が子供達からあったのに、何故先生達はそれをちゃんと調べないで放置していたんだと、物凄い騒ぎになったらしい。


 だから、いろんな事を調べて整理して、それからまた全学年のお父さんお母さんを集めて、校長先生達は説明をしなくてはならなくなったんだって。だからそれまでの間、僕達は学校をお休みすることになったんだって。


 


 その間、お母さんは先生達や他のお母さんお父さん達と話をする為に、何度も学校に行かないといけないので、おじいちゃんが僕と一緒にいる為に暫く東京の家にいてくれるんだって。


 おじいちゃんの方を見ると、おじいちゃんは太陽の笑顔で笑った。


 そしてお父さんは今日は会社を休んで、朝一で警視庁の遺失物課に保管されている僕の筆箱を受け取りに行ってくれたんだって。でも筆箱はお父さんの手にはない。

「僕の筆箱は?」

 お父さん達はちらりとみんなで目を合わせると、おじさんが急に楽しそうな声をあげて僕の方ににこにこ笑顔を向けた。


「隆司!新しい筆箱を買ってきたから、今度はこれを使いな。あれはもうボロボロになっちゃったからなあ。だから新しいのにしな!」


 おじさんはそう言いながら、デパートの紙手提げに入った、青いリボンが付けられた包みを渡してくれた。幼稚園を卒園する前にくれたのと同じ包み紙だ。

「早く開けてみな!」

 と、キラキラした顔で笑った。でも…目は少し悲しそうだった。

 

 包みを開けると、中には同じ筆箱が入っていた。あの時と同じ真新しいぴかぴかの黒い革のお兄さんが使うみたいなカッコいい筆箱。

 でも…猫のシールは貼ってない。


「どうだ?隆司?」

 ワクワクして聞くおじさんに、僕はにこっと笑って言った。

「ありがとう!凄く嬉しい!!これでいつでも学校に跨行けるね!」

 みんながホッとしたようにニコニコ笑い、みんなで僕の頭をわしゃわしゃ撫でてくれた。そしてそれっきり…あの筆箱の事は誰も言わなくなった。


 だから…僕も聞かなかった。

 

 でも、あの筆箱は…重い重い大きな石のように…僕の心の中に沈んでいった。それは足かせのように僕の足に絡みついていた。

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