第2話 淀む流れに入る
「お母さん、ランドセルに入れておいたはずの筆箱がないの」
家に戻り、ランドセルを開けたら筆箱が無くなっていた。帰るときに、先生がみんなに指導して順番に教科書、宿題、おたよりょり帳、そして筆箱と入れたからその時は絶対にあった。
でも今はその場所は空間になっている。
黒い革製のよくあるハードタイプの筆箱。おじさんが入学祝にと、僕の名前入りでプレゼントしてくれたんだ。大事な大事なピカピカの筆箱だ。お母さんは小首を傾げながら、大きなランドセルの中を筆箱は入らない小さなポケットまで隅々まで見て、また小首を傾げた。
「あら?本当にないわねえ?ちゃんと入れた?」
「入れた。先生が確認してくれていたよ」
「そうよねえ。そういう指導すると仰っていた物ねェ…」
お母さんはまた首を傾げ、下校の途中で落としたのではないか?と、一緒にもう一度学校への道のりを歩いて探すことにした。
そんなに遠くないから、散歩ついでに探しに行こうと、お母さんは言った。
でも学校の門の前にも着いても見つからなかった。門衛のおじさんに頼んで中に入れてもらい、下駄箱、教室まで探す。
見つからない。
するとつきこ先生が青い顔でやってきてお母さんと話す。
「筆箱を取られたと聞きました」
「いえ…失くしたかもしれません。男の子ですからね、ぴょんぴょん撥ねて歩いて何かの拍子に落ちたとかと思いまして。通学路を見てきたのですが…」
「無かったんですよね?」
「はい。でも誰かが拾ってくれて、もしかしたら明日、登校したら届けてくれるかもしれません」
「誰かに盗られたのではないですか?誰かに意地悪をされているとか?」
つきこ先生が酷く怖い低い声で言う。机の下を屈んで探していた僕は、体が一瞬で強張る。
「2年生の学年で同じような事があったばかりなので」
「しっ!先生。聞いています」
ちらりと先生とお母さんが僕の方を見る。僕は聞こえないふりをして、ロッカーの上のアゲハチョウの虫かごを見上げていた。
「まだ1年生ですよ?まだ入学して1か月も経っていないのに…そんな事あり得ませんよ」
「でもお母さん…こういうことは早いうちに芽を摘んでいた方がいいのです。今どきの子供は小学校受験で、こちらも顔負けの知識や精神成長速度が凄いですから。油断できません。お家で隆君に意地悪するお友達がいないか…聞いていただけませんか?」
「隆司は…年相応の幼い子供なので…お友達はみなお友達なので…どこまでそういう事を認識、把握できているかわかりませんが…そうですね…後でさりげなく聞いていますね」
「私は、菊池君とか金子さんあたりが怪しいと思います」
「は?え?まさか…」
「多分そうです。あの子達、こすっからいんです。ホントイライラします」
「先生…ですから…聞こえます」
半分呆れ混じりの声で、窘めるようにお母さんが言う。つきこ先生は慌てて口を押さえた。
「先生、ありがとうございます。ご心配おかけしました。これから代わりの筆箱を買ってきますので…もしも見つかりましたらご連絡ください。私達ももう一度探しますので」
帰り道、駅前の駅ビルの中の文房具屋さんで、新しい筆箱や中身を買ってもらい、鉛筆を鉛筆削りでがりがり削りながら1本1本筆箱にいれ、定規や赤ペンや消しゴムもいれていく。
これでよし!と、お母さんを呼ぶと、お母さんも確認して名前の部分を何度も確認してにこりと笑う。
「明日、筆箱見つかるといいね」
「うん!でも金子さんと菊池君は僕の筆箱をとってなんかいないよ?だって二人とも、僕より先に帰ったし、意地悪なんかしないよ?」
そう言った瞬間に、お母さんの顔がさーっと青くなり、僕は失敗したと青くなった。でもお母さんは直ぐにニコニコ笑う。
「そうかあ、そうだよねえ。金子さんはちょっとどんくさい感じあるけど、優しいいい子だし。菊池君もスポーツとか苦手だけど、物知り博士だもんね」
お母さんが友達を褒めてくれたので、僕はほっとした。
「うん!金子さんと菊池君は、今日の体育でボール投げをきちんとできなくて、つきこ先生に怒られたんだ。だからつきこ先生、意地悪な事をいったのかもね」
「こらこら、つきこ先生は意地悪な事言っていませんよ。ちょと…疑っただけ。でも大丈夫。明日筆箱が見つかれば、またいつものようになるから。ね」
うんと僕はうなずき、何の心配もしないでぐっすり寝た。
翌日には筆箱が無くなった事も忘れて元気よく、近所のお兄さんお姉さん達と登校をした。
「長谷隆司君?」
下駄箱で上履きに履き替えていると、教頭先生とつきこ先生がにこにこしながら声をかけて来た。
周りのみんなの空気が急に変わり、ひそひそ声が聞こえてくる。僕は胃の辺りがきゅっと痛くなった。なんだろう?いつもと違う。
なんかとても不味い気がする…。
クラスメイトも急に距離を取り、さーっと教室に走って行った。
怖い。
初めて入った小さな部屋には、大きな革張りのソファーと椅子が置かれていて、なんだかどこかの家のお客様部屋みたいだった。
そこにはもう一人知らない先生がいて、ニコニコしながら言う。
「長谷君、昨日、クラスメイトの金子さんか菊池君に筆箱を盗られたんだって?いつも二人はいじめてきたりするのかな?」
「いじめ?」
ぽかんとして言う僕に、先生達はやれやれと顔を見合わす。
「いじめって言葉知らない?そっかあ。いじめっていうのはね、お友達が長谷君の嫌がる事をすることを言うんだよ」
「喧嘩?」
「喧嘩とは違うかなあ?昨日みたいに筆箱取り上げたり、嫌な言葉を言ったり、痛い事をするんだよ?そういう子いない?」
僕は考えた。
「沢田君はするよ。体育の時間に、僕がボールを蹴るのが下手だって、ぼこん!って背中に当てるの。痛いからやめてと言ってもやめてくれないの。それ、いじめ?」
先生達は顔を見合わせた。
「沢田君?」
「沢田君とは、同じクラスの沢田優紀君の事だと思います。隣のK県H市から越境入学してきた子です。小学校受験が残念な結果になり、地元のK県M市の公立小学校に通うと虐めらる可能性が高いのでと…。
ご両親とこちらの学校の越境入学試験を受けた子ですよ。頭のいい子で活発な子です」
つきこ先生の言葉に、教頭先生がぽん!と手を打つ。
「ああ、知育テストで高得点を取って、サッカークラブで活躍している子ですよね。ハキハキした頭のいい明るくていい子ですよ」
「そうそう、確かに沢田君からみたら、長谷君はどんくさいからイライラするのでしょう。沢田君の気持ちよくわかりますよ」
つきこ先生達の言葉に、僕の中の何かがぎゅっと強張り縮まった。え?何?どういうこと?先生達は僕の事より沢田君を褒めて、沢田君が正しいと言った。
胃の辺りがきゅっとして、体が冷える感じがした。冬でもないのに。
「沢田君のしたことは虐めじゃありません。それより、菊池君と金子さんのしたことがいじめになるんだよ?」
「菊池君と金子さんはお友達だよ?いじわるしないよ?筆箱も取っていないよ?」
ちらりと先生達がつきこ先生を見る。つきこ先生は顔を真っ赤にして怒り出した。
「長谷君!昨日、君は先生に菊池君と金子さんが筆箱を盗ったといいましたよね?ウソをついたんですか!?」
僕はびっくりした。そんなことは一言も言っていない。
「言ってません…。僕はアゲハチョウを見てました」
「言いました!それとも先生がウソをついているとでもいうんですか!?この子は!!」
先生の剣幕に僕は喉がカラカラになった。
「そうです。先生が間違えています」と、いつもの僕ならそういう。きっぱり言う。だって本当の事だもん。
でも…今まで見た事もない怖い顔で睨むつきこ先生は、絶対言うなと全身で言っている。そういう言葉が先生の体から浮かんで、ゆらゆら炎の様に揺れている感じがする。
怖い。
「まあまあ、つきこ先生、長谷君はついこの間まで幼稚園児だったんですよ?沢田君のような小学校受験教育を受けていない子供なんです。日常的な事など、楽しい記憶にすり替え、すぐ忘れてしまうんですよ。そういものですよ、普通の子供は」
そう宥める教頭先生の言葉に、僕は全身が寒くなった。
僕が直ぐに物を忘れちゃう?幼稚園生だったのは正しいけど、直ぐに忘れちゃったりしないよ!その先生の言葉には真っ黒な意地悪な気持ちが沢山含まれていて、僕はぎゅううっと両手を握りしめた。
「違います!」と大声で言いたいけど、言ってはいけないという空気がひしひしと僕を押さえつける。
ふいに、目の前にお母さんの顔が笑った気がした。おじいちゃんの顔が、笑った。大きな皺だらけの日焼けした手が・・・優しく僕の頭を撫でる。
-たかし
すると、何かがするりと僕の足元を暖かくするようにすり抜けた。白い大きな尻尾と、青い瞳の猫が笑っていた。
「違います!本当です!僕はアゲハチョウをみていました!
金子さんと菊池君は僕の筆箱を盗っていません!!
本当です!!!」
自分でもびっくりするくらい大きな声で叫んでいた。
「筆箱?」
聞き覚えのある声に振り返ると、別の先生に連れられた菊池君と金子さんが立っていた。
僕は真っ暗闇の穴の中に放り込まれた気がした。
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