瑠璃唐草
七夕
プロローグ
(えっ・・・うそでしょ?)
もう一度、一文字ずつ確認してみる。間違いない。合ってる。
「えっ、うそでしょ!」
当選番号が表示されたスマホの画面にキス!
3,000万円当たった!
私の名前は優雨。優しい雨と書いて“ゆう”と読む。
父が言うには、その日は梅雨の合間の晴天で、夕方近くなって雨脚が弱まった時に“おんぎゃー”と産まれたから、優しい雨と書いて優雨にしたらしい。
母が言うには、
「出生届を出しに行った時、自分の命名センスを自慢したくて、窓口の人を相手にカウンターで長々と説明してたらしいよ」
だそうだ。一緒に行った叔母が恥ずかしくて置いて帰ろうかと思ったらしい。そりゃそうだろう。
命名はその人の運命を決めるという。気になるのは、込められた願いとか意味とか、ちょっと感動しそうなエピーソードがあればいいのに、私の名前には一切そんなものはないということだ。行き当たりばったりの父のことだ、たぶん本当に無いのだろう。
命名とはおそらく関係なく、あたしの運命に予想外の幸運が舞い降りた。
ネットの懸賞で当選した宝くじが当たった。3,000万円。大金だ。懸賞で当選した時点で“当たり”なのに、本番まで当たるとはなんという幸運。未だに信じられない。預金残高の画面をスクリーンショットに撮り、壁紙にしたいくらいだ。しかもアルバイトで生計を建てているこんな廃人女子に当たるなんて、ラッキーにも程がある。コツコツ懸命に働いている人に申し訳なくなる・・・こともない。これは私の幸運なのだから。性格悪いなとは思うが、仕方ない。持ってるものは強い。良いことも運命、悪いことも運命と言うが、良い運命を信じて生きてきて本当に良かったと思う。
決めた。
このお金で小説家になる。小説家の地位を買おうという意味ではない。このお金を切り崩して生活をしながら小説を書きまくり、どこかの賞にでも応募して小説家デビューを果たすのだ。安易な考えだと言われるかもしれない。好きに言ってくれ。3,000万円あるのだ。それをどう自分の人生に使おうが私の勝手だ。
早速、具体的な計画を考えなければならない。紙とペンを出して書き込んでいく。
今の月収は手取りで約20万円。場所こそ湘南葉山と言えば聞こえはいいが、葉山温泉という源泉がある場所の近く、海からだいぶ離れた築四十年越えの超絶ボロアパートで一人暮らしをしている。彼氏もいない、寂しい一人暮らしの独身二十五歳女子なのだ。夢も希望もない廃人生活の中に、ある日突然3,000万円が降ってきた。小躍りどころかヘッドバンキングで脳震盪起こすほど喜ぶ私の気持ちは想像できるだろう。
今の生活水準はそのままに、3,000万円を切り崩して生活していくとなると、年間240万円で約十二.五年は食べていける。まぁ多少支出は多くなるだろうから、ざっくり年間300万円で十年くらいか。使い切る前に小説家としてデビューすればいいわけだ。十年後は三十五歳。さすがに何かしら幸せを手にしているだろう。もしそうならなかったら・・・は考えないでおく。
ここまでの計算を紙に書き、冷蔵庫の扉にマグネットでつけておいた。夜な夜な見ては、ほくそ笑んでやる。
次は本題。どんな小説を書くかだ。
そもそもなぜ小説家になろうと言っているのか。理由は簡単だ。好きだからだ。
自慢じゃないが、私は恋愛経験が絶望的に少ない。初めて男の人と付き合ったのは高校一年の秋。一つ上の部活の先輩と付き合い始めたが、三ヶ月後、同級生に寝取られるという悲惨な結末。それ以外は三日で振られたり、一ヶ月で相手が行方不明とか。最悪だったのは二十二歳の時に付き合った四十四歳の彼で、大人の魅力に翻弄されて不倫に走り、禁断の愛に身を滅ぼした挙げ句、彼が覚醒剤取締法違反で投獄されるという結末。手紙が届き、薄っぺらい愛の言葉で面会に来て欲しいと書いてあったが、もちろん行かなかった。それを最後に直近三年は完全に独り身だ。
そんな私が書きたいのは恋愛小説だ。もうあれだ、現実世界で悲惨な恋愛ばかりしているから、こよなく愛している妄想世界で思い描いた恋愛を、小説として書き上げたいわけだ。これで稼げるようになれば、それまでの悲惨な恋愛で負った傷を、名誉の負傷だと自慢できるようになる。ざまあみろ。
問題はどうやって書くかだ。原稿用紙と鉛筆とか、そういう問題ではない。ノートパソコンくらい持っている。
なんせ現実でまともな恋愛をしていないのだ、実体験をモチーフに書こうとしても、散々読み漁ってきた小説のようなドラマティックな展開や、身悶えするほど狂おしい愛憎劇などは、経験値がないので全く思いつかない。普段の妄想が中学生の恋愛みたいなものばかりなのは、描くシーンのボキャブラリーが圧倒的に乏しいからに過ぎない。
さぁどうしようと考えて、思いついたのが疑似恋愛だ。
牢獄彼氏と切れた後、傷つくのが嫌で恋愛を避けてきた。自分が思い描く理想の恋愛なんて、この世には存在しない。だったらいっそのこと好き勝手にストーリーを書き上げて、徹底的に演じてみたらどうだろうか。これなら傷つくことはない。演じているだけだから、もし本当に心が動いてしまったら、そこで止めればいいだけだ。脚本を書いてそのまま演じる女優。悪くない。
あくまでも疑似恋愛なので、自分の心の動きは得られないが、相手の心の動きは手に入る。大胆なストーリーにしてその通りに相手が動いてくれたら、相当楽しくなるに違いない。その時は自分にご褒美をあげることにしよう。罪悪感がないわけではないが、今の私には3,000万円がある。なんならお金で解決してやる。これも経費だ。決まった。
月曜の早朝。窓を開けて新鮮な空気を狭い部屋と小さな体へ流し込む。
部屋を駆け抜ける初夏の香り。
さあ、始めよう。
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