Side 02 千里を越えても届くものは
ぼぅーー……。
午前中、私は茫然と加熱炉の中で白く焼かれている物を眺めていた。
加熱炉のバリア越しで中を観察しているので中が3000℃でも目に危険はない。
しかし、母国と比べてこの国の夏があまりにも熱くて、先程の作業から私は汗が止まらない。
ぼぅーー……。
タオルで汗を拭いて残りのドクターハイゼを飲み干した。
「あつい……、も……もう一本ほしい……。けど、大事な工程から離れたくない」
今になって考えると、工房にも冷蔵庫を置いておけばよかった。ヴィルに相談して素材を買って作ろうかな。
そんな時だった、工房のドアがノックされたのは。
「あ、ヴィル!もう昼ご飯ですか。今の作業終わったらご飯作ります!」
しかし、開けたドアから現れたのはヴィルではなくて、困惑している金髪翠眼の女性だった。
彼女はリリア。ヴィルがいない間、私を見守るように頼まれたの。
「もう、エレナちゃんったら、ヴィルは昨夜出発したばっかりだよ」
「あぅ……口が滑りました……」
「はは、もしかして彼のこと考えていたの?」
「う、うん。ちょうど相談したいことが出来ましたので」
「え?相談か……」
リリアはなぜか『期待した答えと違う』みたいな顔をした。
「それはそれとして、氷入り水を持ってきた」
「わー!ちょうど冷たい飲み物が欲しかったです。ありがとうございます」
「ヴィルに頼まれたからね。エレナちゃんに気を配ってあげてって。魔力枯渇とか、熱中症とか」
「そうだったんですね」
もう、私は子供じゃないのに。
でも……心配してくれるのは嬉しい。
「そういえばあの……エレナちゃんはいつもそんな涼しい恰好で作業しているの?」
「はい、ここ暑いですから」
「でもそんな薄い服一枚で危なくないか。色んな意味で」
「? あ~、加熱炉ならバリアがありますし魔道具を使っていますので火の粉とか煤とかないんですよ。それに危険そうな作業は全部事前に把握して、いざという時は防御魔法を展開します」
作業の時身体強化は欠かせないし、鋭いもの触れても怪我はしないの。
「それもそうだが……、汗で透けて見えそうじゃないか、ち――」
チリーン。
タイマーの音が工房に大きく響き渡ってリリアの声を遮った。
「あ、もう時間!温度の調節をしないと……。すみません、ちょっと待っててください」
「あ、うん……」
指定する温度まで加熱するフィニックスマーブルと違って、今回使っている『プロメテの火種』は制御できる。
『火種』たちはあらかじめコントローラーとチューニングされて、調節ダイヤルを回せば目標温度を変えられる。今回は均等加熱フィールド機能を使うため、加熱炉のコーナーに置かれている。
「5100℃にと……。よし!」
「すごい魔道具のようだな。錬金術師っていつもこんな高そうな道具使っている?」
「リリアの言う通り、この『火種』は優秀ですが高いんです。しかも魔力をチャージすれば重複使用できるとはいえ、よく高温環境で使われるので激しく損耗します。使うところをちゃんと見極めないとコストが嵩みますから毎回使うという訳にはいけません」
「ああ、分かる。ギルドの運営もそんな感じで無駄な費用を抑えないといけないな」
「そういえばリリアは今年でギルドマスターの補佐になりましたね」
ヴィルによると、リリアは魔王討伐の後で補佐役を始めたそうだ。
「前任者が子育てに集中したくて辞めたから、ちょうど討伐隊に参加した実績のある私が勧められた訳だ」
興味を惹かれたからか、リリアはずっと加熱炉の中を見つめている。
「そういえばこれは何?高価な魔道具を使ってまでとは、やはりすごい物なのか」
その質問に私はワクワクが止まらない。
「そうです!これは高度な魔道具に使われるエネルギーコアで、初めて加工依頼を受けました!さっきは融合フレーズが終わったんですが今は温度を上げて刻印フレーズやってます」
「え?え??? よく分からないが魔駆動装甲のコアみたいなものかな」
あれれ、もしかして熱く語りすぎた?リリアが困惑しているようだ。
「そうですね。魔駆動コアとは魔駆動機械に特化したコアでちょうど今日の依頼がそうです」
「これが魔駆動装甲に?」
「いえ、これは農業機械に使われる規格ですよ」
「ほう、そうか……。それにしてもエレナちゃんはすごいなあ。こんなものまで作れるなんて」
「あ、それは違います。核心パーツはゴールドランクの錬金術師が作った物です。私が担当するのはあくまで外殻と魔力回路の部分です」
「そうなの? でもなぜゴールドランクの人は最後まで作らなかったんだろう?」
「その理由は魔力対効果です。回復や疲労のことを考慮すれば我々毎日使える魔力量は限られています。そして繁忙期は魔力を如何に最大限利用するのは錬金術師の課題でもあります」
ポーションで魔力を補充しても魔法使用による疲労蓄積は避けられない。許容量を増やすために霊体を鍛える錬金術師だっているしまさに体が資本、健康第一!
「限られている魔力……。なるほど、だから魔法の炎で焼くのではなく魔道具を頼っているか」
「そうですよ。何十分も正確な温度の炎を維持するなんて考えるだけで疲れますぅ……」
そういえば精密な魔法制御をするのは、昔の私なら絶対無理だったけど、ヴィルのおかげで今はできるようになった。
「例えば、毎日魔駆動コアを二つ作れる錬金術師が、核心パーツだけなら三つを作れるとして……」
「分業する場合は全部で魔駆動コアを三つ作れるってことかな」
「はい、その通りです。なので、繁忙期ではゴールドランクの人が彼らにしかできないことをして、他の人が残りの部分をこなすように錬金術師ギルドが依頼を調整してるんです」
改めて思うけど、仕事の斡旋のみならず、運送と保存など物流を円滑に進める錬金術師ギルドの存在が本当にありがたい。有名な大工房ならまだしも、私みたいな個人規模の工房じゃギルドを頼るしかないの。
「冒険者ギルドもそうやって依頼報酬額を調整しているな。なるほど、パーツごとに一体の討伐対象として見ればしっくり来た」
リリアが冒険者としての考え方で理解しているらしい。そりゃ完成品を一体の討伐対象として見ればAランク冒険者が半殺しにしてCランク冒険者が仕留めるようなものだよね。
「それにしても、農業機械の需要増加か。もしかしてあの件のせいかも」
「あの件、とは何ですか」
深く考えなかったけど、確かに農業機械に関する依頼数が多かった。
「あれだろう。去年の魔王軍による奇襲」
「奇襲……」
言われてみれば、この国は魔界からの侵略者を撃退してから半年も経ってないで、まだ終わっていない復旧計画があるはず。
「北の領土にいきなりゲートが現れた。領主が手際よく領民を避難させたから被害を抑えたが、天候のせいで敵飛行部隊の存在に気づかなかった。そして翌日、王都北の空を埋め尽くす黒い影たちが現れた」
「え!?」
その奇襲部隊の目的は分かりやすい。一国の中枢を叩くことだろう。
「敵の偵察能力はそれだけ高いってことさ。北が混乱に陥っていたから通信が遅れて、知らせが王都ソルスターに届いた時は飛行部隊の到達より数分前だと言われている」
あの状況どうやって乗り越えたの?と気になって私は静かに続きを待つ。
「しかし、敵の先頭部隊は北の平原に気を取られたんだ。そこに鋼鉄の部隊が陣取っている……ように見えたからな」
「それってまさか……」
「うん、待機中の農業機械だった。あの時ちょうど農民が昼飯を食べに王都に向かっていた」
魔力反応が大きいけど空からだと分かりづらいから兵器と勘違いするのも仕方がない。
「敵が畑を荒らしているのを隙に、王都が完全に戦闘態勢に移った。王国軍、騎士団、グリフィン騎兵隊、そして城壁の砲台など。私ら冒険者も都内に入り込む討ち漏らしを対応するようにと招集された」
城壁の砲台は見かけたことがある。いろんなサイズがあって、連射性能が高い物や、対大型魔物を想定した物まであった。
「その後は激しい戦闘が行われていた。私は安全な都内にいて実際自分の目で見ていなかったが、運搬された負傷者の数と様子から察したんだ」
「ど、どうやって勝ちました?」
「レーマン侯爵の娘、クリスティーナ様のおかげさ。彼女が最初から魔法を溜めていて、とんでもない魔法一発で敵の主力を一掃したらしい。彼女がいなければもっと被害が出ていただろう」
「そうだったんですね」
そういえばあの時ヴィルが何をしていただろう。騎士だったからやっぱり出ていたのかな。
「ヴィルも活躍しましたか」
「彼ならいつものように先頭に立って戦っていたよ。騎士が弓で敵を牽制して攻勢を緩めさせていたおかげで魔導士や砲台が全力で攻撃できた。でも目ぼしい活躍と言えば……やはりグリフィン騎兵の救助だろうか」
「救助ですか」
なんか思っていた活躍と違う。
「グリフィン騎兵隊は圧倒的な戦力差に立ち向かい、魔力が尽きるまで戦うつもりでいた。浮遊魔法のための魔力すら温存しないでな」
「あっ……」
そんな状態で落とされたら、重力を感じながら終わりを待つしかない……。
「文字通り粉骨砕身の覚悟で戦闘に臨む意志をヴィルは察した。だから戦場を駆け回って、攻撃の合間に風魔法で落ちてくる騎兵を助けていた」
「攻撃の合間に……」
「助けられた騎兵から聞いた話だが、視界の隅に銀色の風のように飛び回る灰騎士が見えたかと思うと、次の瞬間、死角からくる敵が突風に貫かれた。そして自分が乗っていたグリフィンが倒されて地面に落ちて行った時、優しいそよ風がクッションのように受け止めてくれたと。あの日、空から落ちて落下死した騎兵は一人もいなかったと聞いている」
「すごい……!」
戦場で周りの状況を把握して最善な判断を下し続けるなんて、そう簡単にはできないはず。それでも仲間のためにヴィルはやり遂げた。
「ヴィルって仲間思いなんですね」
「まったくその通りだよ。敵には容赦なく、仲間には優しく、それがヴィルさ」
「私も仲間の一人でしょうか……」
ぽつりとそう呟いた。
ヴィルが私に優しいのはどっちが理由なのだろう。契約の関係?私が従者みたいなものだから?それとも私も仲間の一人?
そう考えると私は少しモヤモヤし始めた。理由は……分からない。分からないからさらにモヤモヤする。
「エレナちゃん?」
「い、いえ。何でもありません」
ぶんぶんと頭を振ってそのモヤモヤを何とか振り払う。
「そう? まあ、余談だけど、グリフィン騎兵隊の指揮官はヴィルの行動に大いに感謝していて、王様に彼を表彰する提案を具申した」
リリアによると、どうやらヴィルの行動は人命救助以上の意義があったらしい。グリフィン騎兵は育成コストが高く、貴重な人材なのである。さらに実戦経験を持つ者は新兵を育てるという大事な役目があるのだと。短期間で大量な騎兵を失ってしまうと戦力が戻るのに時間がかかるだろう。
「ヴィルはそうやって周囲から評価されて、尊敬されているけど、彼にとっては当たり前のことをしただけなんだよね」
「そうなんですね」
ヴィルが評価されているって聞くとなぜか自分の事のように嬉しい。
「さてと、話が大分逸れたけど、この事件が農業機械を大量に発注した原因だ。春までは騎士団に畑を耕すのを手伝ってもらったり、グリフィン騎兵隊の新兵に訓練がてら空からの種蒔きを任せたりしていたけど、早く生産力を元に戻さないと、ソラリス王国の農産物に依存している国々が食糧危機になりかねない」
王国の食料自給率は現状100%超えているが、北の領土が魔界の侵略者に荒らされた以来輸出量が減ってしまって、沿海の諸小国が困っているらしい。おそらくソルスター北部平原の生産力を戻しても、食糧危機の緩和こそできるものの、抜本的な解決には及ばないと思う。
だから王国は早くも魔境開拓計画を実行したかな……。魔境化によって生まれた豊かな資源はもちろん魅力的だけど、失った分の畑を取り戻す方がもっと大事だよね。
「エレナちゃん、難しいこと考えていそうな顔をしている。そんなことよりまずは私達の昼ご飯考えようよ」
そう言いながらリリアはお腹を押さえていた。
「あ、ごめんなさい。今の工程が終わりましたらすぐご飯を作りますね。あと少しです」
「気にしない、気にしない。お腹空いているは確かだが、エレナちゃんがどんな料理作ってくれるか気になっただけ」
「そうですね。今日の昼ご飯は海の幸です!そろそろ食材が届くと思います」
「市場に買うに行くじゃなくて?」
「そうですよ。予約した食材が転移施設に届いたら配達員が屋敷まで送ってくれます」
「てんい……、えぇええ? わざわざ高価な食材を買ったのか」
目を見開いて驚くリリア。
「はい、ヴィルに言いつけられました。リリアに海鮮をご馳走してあげると。これはヴィルの感謝の気持ちです」
「まったく、ヴィルって大袈裟だな……。それとも……」
呆れたような顔で言ってから、リリアは慈しむ表情で私を見ていた。どういうことだろう?
分からないまま、ちょうどタイマーが鳴ったから私はエネルギーコアの仕上げを始めた。
✿
昼ご飯後、せっかくだから切磋琢磨しようと提案していて、私達は弓の練習をしていた。片方が騎士団のお古の練習用的を操縦して、もう片方がそれを射るという。そうやってお互いに練習の手伝いをする。
リリアは歴戦の冒険者として色んな魔物を知っていて、的でその動きを模擬していた。それと魔物の動きのパターン、弱点、対策などもいろいろ教えてくれた。
真剣に取り組んでいた私達は雑談する暇もなかった。
そして練習の時間が終わり、私達は着替えて裏庭のガゼボでアフタヌーンティーを楽しむことにした。
「さっきの魚料理……美味しかった」
「それは何よりです!」
お茶を準備している間、リリアが感慨深げに言った。
昼ご飯の時、彼女はずっと黙って食べていたから、最初は口に合わないかなと思ったけど、幸せそうな表情を見たらそうじゃないとすぐに分かった。リリアって分かりやすい人だと思う。
「エレナちゃんって内陸国生まれだよね。そんなに多くの海魚料理法、どうやって覚えた?」
実はせっかく魚料理をご馳走してあげるから、魚一尾でいくつの料理を作ったの。蒸し、炒め、揚げ物、そして刺身、それぞれ量は少なくなるが四つの料理にした。
「それはですね。私の出身を知って、ヴィルがよく今日のような採りたての海鮮を買ってくれます。食材を無駄にしないために色んな料理法を覚えました」
「へえ、あの適当にパスターやチャーハンで済ませるヴィルが……ふふっ」
おかしそうにリリアは笑った。
確かヴィルは一人で暮らしていた時は簡単な料理にしていたらしい。リリアは食材を拘るヴィルを想像できなかっただろうか。
「お茶ができました」
薄紅色の液体をカップに注いで、きれいなバラの花びらを浮かばせて……完成。
「これは……ローズティーか」
「はい、庭のバラを乾燥させて作ったハーブティーです。あ、ハチミツはお好みの量で入れてください」
「ありがとう」
ハチミツは花の蜜によって効果が大きく変わる。今出しているのは豊富な魔力を含んだ花の蜜で作られたもので、魔力の調和と回復効果や、リラックス効果がある。そしてやはり値段が高い……。
「美味しい!」
「ですね~」
花の香りが口の中で広がり、ハチミツの甘さがほんのりと舌に残る。
このハーブティーは一口飲むだけで疲労が抜けていく。
「そういえば、庭のバラって……」
リリアが視線を庭の花たちに向けた。
「ピンク色でエレナちゃんの髪色と似ているね」
「そうですね」
「ヴィルが買ったのか」
「うん。この前商業区の花屋を通り過ぎようとしたところ、ヴィルがまさに『エレナの髪色と似てる』と言っていっぱい買いました」
「やはりか……。ヴィルってば本当に無自覚すぎる」
「無自覚?どういうことですか」
リリアが目を見開いて驚いた表情で私を見て、ため息をついた。
「エレナちゃんもエレナちゃんで……」
あれ?私も?
「それはさておき。やはりヴィルが変わったな」
「どう変わりましたか」
昔のヴィルはよく知らないから、私は好奇心を抑えられずにいた。
「それはもういろいろと、だよ。でも一番驚いたのはエレナちゃんと出会った時の話かな」
「わたし!?」
あまりにも唐突で声が上擦ってしまった
「ヴィルが屋敷の前で行く当てのない錬金術師の子を拾った経緯を、私やカール、メイさんに話してくれたんだ」
お茶を一口飲んで自分を落ち着かせる。
「人助けだからって同居を始めること自体も異常だけど」
「ですよね……」
私も最初からヴィルから貰いすぎだと思っていた。しかも彼は私の弱みに付け込むためにやったわけじゃなくて、本当に私を助けたかっただけで……。
「その上に初日でエレナちゃんの『色』を覚えられたことが異常なんだよ」
「色?」
「ヴィルが出会ってすぐエレナちゃんの目を褒めたよね?」
「か、可愛いピンクトパーズとキラキラなアウルムと言われました」
その言葉を思い出すだけで心臓が早くなる。
「そう!私もきれいと思うんだけど。実はさ、ヴィルは人の顔とか特徴を覚えるのが苦手なんだ」
「え、それは初耳です」
「本当だよ。ヴィルは私達の見た目を覚えるまでは、『腕を無くしたけど挫けない女』、『オーガーみたいな巨体を持つ男』、『穏やかだけど実力を隠している女』と覚えていたらしい」
それぞれがリリア、カールとメイさんのようだけど、ヴィルがそんな風に覚えていたの……?
「ちょっと物騒な話になるが、メイさんによると、ずっと人を殺してきた人は、無意識に顔を覚えないようにするらしい。それが心を守るための防衛機制だとか」
……メイさんって本当に何者なの?
「ヴィルの過去、知っているよね。成人前に騎士になったのはもちろんだけど、その前に傭兵をやっていたことも」
「はい……」
「成人前だったからその防衛機制の影響がより強かったようだ」
忌み嫌われた私にも学校に行くチャンスが与えられたけど、ヴィルは生きるために傭兵を……。
「そんな悲しい顔をしないで、今の彼は豊かな生活送っているだろう」
「そう……ですね」
私はぐっと悲しみを堪えた。
「そう、可愛い子と同居して文句を言って良いはずがない」
「う、うぅ……」
「あはは、ごめん。からかいすぎたか」
場を和らげるための冗談だと分かるけど、どう返せばいいか全然分からないよ……。
でもそうか。言われてみれば、イサベルさんの外見について話した時、ヴィルは一瞬止まった気がする。そういうことだったのね。
「これで理解できたよね。エレナちゃんは異例だってことを」
「そう……考えられますね」
「ちょっと自信なさそうな言い方だね。ヴィルはちゃんとエレナちゃんを見て、その髪飾りを贈ったんだろう?髪色によく似合っているよ」
リリアの視線を私の髪に向けて、そこには私のお気に入りの髪飾りがあった。どうやら彼女はそれがヴィルからの贈り物だと知っている。ただ、リボンのことは知らないみたい。
「う、うん、そうだと思います」
私もこれが自分の髪によく似合っていると思う。
だから、ヴィルが私のために選んでくれたことは否定できない。否定したくもない。
「ヴィルが誰かの外見に合わせたものを贈るなんて初めて聞いたよ。もしかしたら、エレナちゃんはヴィルにとって特別な存在なのかもね」
「うぅ、またそうやってからかって……」
「ふふっ、もしくはそのきれいなオッドアイと髪がいいショック療法になったとか?どちらにしても、エレナちゃんは間違いなくヴィルの世界を彩ってあげて、彼を変えたんだよ」
リリアの優しい目で見つめられて、私は顔が熱くなるのを感じながら頷くしかできなかった。
リリアの言う通りなら、私も嬉しい……かな。
そして私は恥ずかしくなってきた。
「うう……出会いの話で恥ずかしいことを思い出しました。私はヴィルに会ってすぐ『目が見えるんですか』と聞いてしまいました……」
リリアが信頼できて話しやすい相手だからか、私は腹を割ってそのことを話した。
「ま、私の方はもっとひどかったなあ」
「え!?」
「先程、エレナちゃんが浮月弓法の真似をしたよね。それで昔のことを思い出したよ」
実はヴィルの真似をして、浮遊魔法を使いながら矢を当てようとしていた。どうやらそれが浮月弓法というものらしい。視野と射線を確保しつつ、狙われやすさのデメリットを機動性で補うスタイルで、それを極めた者は自分とターゲット両方動いている状態でもちゃんと矢を当てられるとか。
いや、そんなことより今はリリアの話だね。
「詳細は省くけど……」
彼女は視線をカップに落として、間を置いて話し始めた。
「数年前、私のパーティーが事故に遭って全滅した。自分だけなんとか生き残ったけど、結局見つかってしまって、魔物に腕を食いちぎられた」
私は完全に動きが止まって、話の続きを待つしかできない。
「ショック状態の私は夜空を仰いで、奇跡を願っていたのか、ただ終わりを待っていたのか、自分でもよく分からなかった。でも、あの時だった――流星が横切ったのは」
リリアを助けたのはヴィルだったから、それってつまり……。
「流星が横切るたびに、魔物が倒れる音がしたんだ。静寂になって振り返ると、そこには満月を背にして宙に浮かんでいる少年がいた」
「おお……」
聞き入って思わず驚嘆な声を出てしまった。
「満月に照らされた髪と鎧が銀色に輝いていて神秘的な雰囲気を醸し出していたな。あの時、怪我で混乱していたこともあって、私は月より降臨した白き神に救われたと思っていた」
そう思っても仕方がないよね。月光に照らされるヴィルの髪は本当にきれいで神秘的だった……。
「騎士駐屯地まで連れて行ってもらって、私はようやく話せるようになったけど、最初にかけた言葉はもう最悪で……」
「ど、どんな?」
「『あなたは人間ですか』ってさ」
「ぷっ。あ、ごめんなさい!」
さすがにそれは我慢できず笑ってしまった。
「いや~ その反応が正しいよ。その場に居た他の騎士も爆笑していたよな。私は意識が朦朧していたし、もしかしたら神に助けられたかもってつい確認してしまったよ」
「そうだったんですね」
「だからエレナちゃんが言ったことは、まだ全然マシな方だ。ヴィルは見た目でよく面白がられるし」
「なるほど……」
それにしても……。
「リリアは昔のヴィルをよく知ってますね……」
だから彼がどう変わったかも、よく分かっているみたいだし……。
「そうかな、カールやメイさんも同じくらいだと思うが……。レイピアを指導してもらった分少しだけ交流が多かったか。人となりとか、行動原理はある程度分かっているつもりかな」
「やっぱりですね……」
何だか、悔しいんだね……。
「でもさ、今のヴィルのことを一番よく知っているのは、エレナちゃんだろう?」
「えっ?」
「彼の一番近くいるのはエレナちゃんじゃないか。今のヴィルがどう思っているのか、何が食べたいのか。私は過去の経験で推測できるが、エレナちゃんは近くで見ているから、私より正しい答えを出せるはずだよ」
そう……だよね。夏になると、ヴィルの味の好みも変わってくる。毎日ご飯を作ってあげているからこそ分かったの。
「そうですね。えへへ」
モヤモヤした気分が晴れて、私はお菓子を取って食べた。それに釣られて、リリアもお菓子を食べ始めた。
晴れやかな気分になって、甘いものがさらに美味しく感じられた。
「エレナちゃんったら、顔に出てる」
「え、どんな顔?」
「ふふっ」
リリアは答えず、またお菓子に手を伸ばした。高価なお菓子の中で素朴なクッキーが混ざっていて、彼女はそれを口に入れた。
「このクッキー、バターの香りがよくて美味しいね。どこで買ったの?」
「そ、それは私が今朝焼いたクッキーです」
このクッキーはまだ試作だけど、いずれヴィルに食べさせたいと思う。
「へぇ、エレナちゃんはやっぱり料理が上手なんだ。何かコツとかある?」
「料理は錬金術みたいな感覚でやってるんですけど……。うーん、そうですね。コツを挙げるとしたら、まずはレシピ通りに作ることかな?ちゃんと作れるようになるまでは、アレンジしないことが大事なんです」
「レシピ通り……」
「そうです。特にお菓子は、レシピ通りに材料を入れないと、味が変わってしまうこともあります。量と指示が詳細に書かれてる料理本をいくつか紹介しますね」
お菓子作りは錬金術と似通ったところがある。錬金術は分量を誤ると完成品が不安定になるから。
「それは助かる。ありがとう、エレナちゃん」
凛々しいリリアだが、彼女にも苦手なことがあるよね。
「本当に、エレナちゃんはいいお嫁さんになりそうだな」
「お、お嫁さんだなんて……、私のような体形を好む物好きはいるでしょうか。ほら、私は背が低くて……アンバランスな体で……」
背は伸びないのに何で胸にばっかり……。
ファッション誌のモデルさんは皆私より背が高いし、プロポーションがいい。
そう、例えばリリアは背が高くて、身体の曲線も美しい……。
長身のヴィルと並ぶと本当に映えるよね。
……。
そう考えるとなぜか心に引っかかってしまう。
「そんなことはないよ。エレナちゃん」
「え?」
私はパッと顔を上げて彼女を見た。
「出るところが出ているけどアンバランスなんかじゃない。それに身長は気にしなくていいよ」
「でも……」
「エレナちゃんみたいな小柄な女性でも、この国で人気になった人がいるから、大丈夫だよ」
リリアは微笑み、何だか最初よりも優しく話しかけてくる。
「それに、カールとメイさんを見れば分かる。身長を気にしない男はたくさんいるよ」
メイさんは私より背が高いけど長身と言えない女性で、カールの肩ほどにしか届かない。
……つまり私とヴィルくらいの差なのね。
どういうわけか、ほっとした気がする。
「それと、エレナちゃんに興味津々な男性冒険者はたくさんいたよ。でも、君が『ヴィルの大事な人』と知った途端話しかけることすら躊躇するみたい」
「ヴィ、ヴィルの大事な人!?」
二回目に変な声を出してしまった。
「まあ、そういう認識ってことで、彼の従者という意味もあるけど」
「な、なるほど」
あれ、『も』……?
「そういえば命知らずがいたんだね……」
「命知らず……」
あ、もしかしてこの前の件?
「あの時は本当にごめん、悪い思いをさせてしまって」
リリアはそう言って頭を下げた。
私と言うと別に気にしていなかった。
「大丈夫ですよ。それはギルドのせいじゃありませんから」
「そう言ってもらえると助かる。ちょうどメイさんが居ない時なんて本当にタイムミングが悪すぎた」
「メイさんは冒険者たちに尊敬されてるようで、ギルドの酒場が賑やかながら和気藹々なのはやっぱり彼女のおかげですか」
それに彼女は強そうだし、ヴィルとあの人の間に割り込んだ時は本当にびっくりした。
「そうだな。メイさんは冒険者じゃなくてただの料理長だけど、何年も度が過ぎた喧嘩を仲裁してきたから、王都の冒険者たちの間で『カールの次に怒らせてはいけない相手はメイさん』という共通認識になっている」
『ただの料理長』と言った時、リリアはウィンクをした。おそらくメイさんには複雑な背景があるだろう。
「そんなメイさんでも実はあの時のヴィルに怖気づいたけど」
「そうですね。初めてヴィルが怒るところを見ました」
「彼が戦場以外でも怒るんだってことを、私も初めて知ったよ。ま、そのおかげでエレナちゃんが『ヴィルの大事な人』という認識がさらに強まったって訳だよね」
「あ、あははは……」
どう返事すればいいか分からない。私が皆にそう思われて、ヴィルに迷惑だろうか……?
「話がずれたけど、つまり私が言いたいのは、エレナちゃんは充分魅力的ということだよ」
「うん、ありがとうございます。リリア」
褒められるのは慣れなくて、私は恥ずかしくて顔を赤らめながら、ゆっくりと頷いた。
そしてカップを取って温かいお茶を啜った。
リリアは私を見つめて、小首をかしげて質問を投げてきた。
「そういえばさ、エレナちゃんってどこのお嬢様なの?」
びくっ。
「いや、別にヴィルから聞いた訳じゃないけど、ただ貴族やお金持ちの令嬢を護衛しているうちに、身のこなしで分かってしまうんだよね」
「しょ、商人の娘です……」
その事実を思い出しただけで頭が真っ白になった。私は、追い出されたのだと……。
「あっ……気を悪くしてごめんなさい。もっと配慮すべきだった」
リリアは申し訳なさそうに謝った。
「いえ、もう大丈夫です!この国に来てからには未来を見据えて進んでいきたいです」
私は元気を出して笑って見せた。今は十分に恵まれているから、何時までも過去に引きずられては駄目!
「その意気だ!未来と言えばエレナはどんな未来を思い描いているの?」
「どんな未来……ですか」
「難しく考えなくていい、未来の一日の光景を想像してみよう」
「そうですね」
目を閉じて想像に思考を巡らせる。
一日の始まりはまず起きて支度をして、朝ご飯を作る。もしヴィルがまだ寝ていたら、彼を起こしに行く。二人で朝ご飯を食べたら、私は工房で依頼をこなす。ゴールドランクになった私は、高度な魔道具を作るのに明け暮れる。昼ご飯を作って一緒に食べたら私はまた仕事に没頭する。そして休憩時間には、ヴィルの膝に乗って魔力を分けてもらう。そうすると、いつもつい軽く寝てしまうよね。晩ご飯を食べたら、居間で寛いで、どんなものを作ったのか話をして、最後はお風呂に入ってから眠る。
うん、こういう一日がいいよね。
「どう?幸せな未来をイメージできた?」
ん?幸せな未来?
私はパッと目を開けた。
「未来を思い描くと言えばやはり結婚生活だよな」
「け、けっこん……」
それだと、さっきの想像ではヴィルが旦那様ポジションになるけど……。
ヴィルがだだだだ、旦那様!?
「若い女の子が思い描く未来って、やはり好きな人と結ばれる光景だよな。あれ?エレナちゃん、顔赤いよ。あっ、もしかしてもう気になる人がいて、その人の顔を浮かべた?」
「ち、違います!私はまだそこまで考えてません!」
「まだ?」
「わ、私はただ、ゴールドランク錬金術師になった未来を思い描いただけ!」
「そうなんだ」
ええ、そうだよ。それはゴールドランク錬金術師になった日常。別にリリアが言ったことと違う……。
違うよ……。
「はは、ごめんごめん。周りの女性を見ていたら、私もついそう考えたんだ。まあ、事業を優先する女性もいるから全然大丈夫だよ。どうであれ、私はエレナちゃんを応援しているから、この国で幸せになろうね」
「ありがとうございます、リリア!」
凛々しくて強いリリアの言葉は優しくて温かい。彼女は本当に素敵な女性なの。私も彼女のようになったら、自信を持って胸を張れると思う……。今はひとまずゴールドランク錬金術師に目指すしかできないけれども。
「よし、私も幸せを見つけないと」
「リリアはまだ気になる相手がいないんですか」
「前までは霊薬代を稼ぐのに精一杯だったからね。これからだよ」
「そうなんですね。私もリリアを応援してます」
「ふふ、ありがとう、エレナちゃん」
あれから私達はお菓子のブランドなど、他愛のない雑談をしながらアフタヌーンティーの時間を過ごした。積極的に打ち解けようとしてくれたリリアとは、たった一日で友達になれた。さすが冒険者ギルドの顔役、すごいコミュニケーション能力なのである。
✿
アフタヌーンティーの後は普段通りのルーティンに戻った。ヴィルがいないので仕事の量は少なめにして、空いた時間は書斎で参考書などを読んで過ごした。リリアと一緒に夜ご飯を食べた後、私はお風呂に入り、自分の部屋に戻った。
寝る前に、まずはベッドに放置していた洗濯物を畳むことにした。
「あれ、これは」
服の中に一際大きいサイズの服が紛れ込んでいた。
広げてみれば、それが男性用のシャツだった。これは紛れもなくヴィルの服なんだよね。初夏だというのに、彼が長袖シャツを着ていたのは、半袖シャツの洗濯が間に合わなかったからだった。私はその暑そうな格好を見て、ヴィルって我慢強いんだなと思っていた。
「……前にもこんなことがあったよね」
私はまた好奇心に負けて、上の服を脱いでそのシャツの袖を通した。
「男の服って、こんな感じなんだね」
私は姿見の前に立って自分の姿を確認する。前回は、朝の支度で時間がかかりすぎると、ヴィルが来てしまうかもしれないと思ってやらなかった。
シャツはヴィルのためにオーダーメイドされたもの。こうして着てみると、ヴィルとの体格差を肌で感じるような気がしてくる。
肩幅とか広いから全体的に緩いし、裾は太ももにかかるほど長い。腕をまっすぐに伸ばしても、袖は手を完全に隠していた。
しかし……。
「胸がきつい……」
ボタンは留めたけど、息をするたびに生地が軽く引っ張られて、素肌に擦れる。
「何で栄養が身長じゃなくて胸にばっかり回ったんだろう」
ため息をつこうとして、息を吸うと――
「ひゃん!」
突然胸元のボタンがパーンと弾け飛んだ。
「あわわわ!」
慌ててボタンを拾って確認したけど、ボタン自体は壊れていなくて、糸が切れていただけだった。
ボタンは軽量の合金で作られ、職人の手によって精緻な模様が彫られている。このボタンだけで、シャツを着る人の高貴さが示されるだろう。その価値の高さは一目で分かった。
「よ、よかった。これをそのまま縫い付ければ元通りになるね」
そもそも金属製のボタンはそうそう壊れないよね。
冷静になったところで自分が何をやっているか自覚し始めた。
私は勝手に人の服を着て、自分のせいでボタンが取れてしまった。
「うぅぅ……何やってるんだろう私」
ベッドに顔を埋めて唸り声を出して、足をパタパタさせた。
今日はヴィルの話をたくさん聞いたから、つい彼の着ている服に興味が沸いただけ。うん、きっとそれだけ。
仰向けになり、私は天井を見つめる。
「色は見えるのに、顔を覚えられなかったなんて……。ヴィルのこと、まだ知らないことばっかりだなぁ」
たとえリリアの言った通り、今のヴィルをよく知っていても、やっぱり彼の過去も知りたい……。
「んにゃ……眠くなってきた」
この包まれているような安心感は知っている。休憩時間にヴィルの膝に座って頭を預ける時に感じるあの感覚だ。守られているようで、心穏やかな気持ち。
「これは……残留魔力?」
匂いが洗い流されても、シャツに染み込んだ魔力の残滓は感じ取れた。普通ならありえないことだけど、たぶん私たちは同調した者同士だから、その魔力の余韻を感知できた。
この安心感は残留魔力のおかげかもしれない。
「ふぁぁ~……」
寝間着に着替えないといけないのに、このまま寝たらシャツに皺がついちゃうのに、瞼がどんどん重くなってきた。
「今頃、ヴィルは何をしてるんだろう……」
眠気に負けて、眠りに落ちる直前に考えたのは、そのことだった。
…………
……
『ごめん、エレナ』
その日、私はエッチな夢を見た。ヴィルに同調の力で体の自由を奪われて、襲われていた。やっぱり経験がないからか、具体的なイメージはなかった。でも心地良い気持ちになったのは確かだった。
心配そうな顔をした彼に『大丈夫だよ』と私が答えた気がする。
……
「うぅ……、何でそんな夢を見ちゃったんだろう。私、エッチな子だったの?」
自分の体を見下ろしてなんとなく分かった。昨夜はこのシャツを着て、ヴィルについて考えていたからかも……。
「ヴィルであんなことを想像するなんて……」
彼の無駄のない引き締まった上半身の裸は、同調の時や浴室に乱入してしまった時に見たことがあるから、夢で再現できたのかもしれない。
それに……夢の中では、我慢できなくなって申し訳なさそうなヴィルの顔はちょっと可愛いと思った。
「いあいやいや何を考えてるんだ、私!」
「……」
ふと無意識に手でお腹をさすった。
「っ!?」
そしていつの間にか肌が敏感になっていて、その刺激に思わずびくっとした。
「寝ている間に湿度や温度の変化のせいかな……?」
他の理由も考えられたけど、私は頭をぶんぶん振って、その考えを振り払った。
また一日が始まる。私は朝の支度を済ませると、朝ご飯を作りに行ったのだった。
✿
朝はあんな夢を見たのに、午後になると私は段々気分が落ち込んできた。
「やっぱり夕方には雷雨になるんでしょうか」
窓の外の、黒くなっている空を見上げた。
今朝、新聞で天気予報を読んだけど、あれはエルフの占い師が出した予測だからほぼ当たるの。
雷雨の日は憂鬱な気分になる……。
けれど、今日はいつも以上にそわそわして、落ち着かない。
「さてと、仕事に集中しましょう」
天気の事を忘れることにして、私は依頼に専念した。まだやらなければならないことが多いから。
「まずは肥料エッセンスに農薬濃縮液、運びやすいけどどれも薄める前は猛毒だね。良い容器で保存しなきゃ。あとは赤魔蜂が嫌がる音波を出す魔道具……」
我を忘れて錬成ばっかりやっていると、休まないといけないまで魔力を消耗して、私は机にうつ伏せで寝てしまった。
どういう訳か、不安が一気に募った。
悪夢を見たかどうか自分も分からないけど、私は眠りから覚めた瞬間、全身が凍りつくような恐怖に包まれ、喉の奥から絞り出すような叫び声を上げた。
「ヴィル……!!!」
心臓が激しく鼓動する。恐怖が絶え間なく押し寄せてきて、弱まる気配は一向にない。
「エレナちゃん、大丈夫か!?」
私の悲鳴を聞きつけて、リリアはレイピアを手にして工房に駆けつけてきた。そして彼女が安全を確認した後、レイピアが虚空に消えた。
「リリア……きゃっ!」
私は何かを言おうとした瞬間、雷が鳴ってしまった。
リリアは何も言わず、震え出した私の体を支えて一緒にソファに腰を下ろした。彼女は私の背中をさすって宥めて、私が口を開くのを待った。
「リリア……ヴィルがっ……!」
呼吸が苦しくて呂律が回らないけど、段々恐怖の正体が鮮明になってきた。
「ヴィル?彼は任務に出ているはずだが……。もしかして悪い夢でも見た?」
「ち、違うの。ヴィルが危ないの!」
私はようやく『感じていたこと』を言語にできた。
「ど、どういうこと?虫の知らせ?」
リリアは困惑する顔で私を見つめた。
深呼吸して、私はなるべき冷静に話す。
「私は感じました。ヴィルが危険な状況にいると。このままだと彼が……」
リリアの顔を窺うと、彼女はやっぱり信じていないようだった。その瞳には疑念が浮かんでいた。
「やっぱり、信じてもらえませんよね……」
「うーん、そりゃ急に言われても、すぐには信じられないよ。でもね、三日先の天気を完璧に予言するエルフの占い師がいるんだし、絶対にありえないと言いきれないよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
絶対にないと一蹴しないリリアは、やはり柔軟な考え方を持っていると思う。
「でも、問題は助けようとしても、国境を越えるくらい離れているから」
「それも、そうですね……」
夕方なのに雨雲で真っ暗になっている空を見上げて、私は何もできないもどかしさに苛まれていた。
「そういえば、エレナちゃん、ヴィルにお守りを贈ったよね?そのお守りがきっと彼を守ってくれるよ」
リリアは笑顔で私を宥めた。
「そうでした、お守り!」
「うわ、びっくりした」
パッとリリアに顔を向けて、私は言い放った。
「純雪の天使にお祈りを捧げなきゃ!」
「天使?エレナちゃんの故郷の伝承だろうか」
「はい、純雪の天使に祈りを捧げることで、お守りの効果を高められると聞きました」
「そうなんだ」
「さっそくやってみます」
私は空に向けて祈り始めた。雷に驚いて体がびくっと跳ねたりするけど、祈りをやめない。
杞憂だったらそれに越したことはないが、妙に現実感のある『感覚』はどうしても無視できない。こうして祈りを捧げることで、少しでも事態が好転したらいいなと思っている。
この祈りは自分の不安を払拭するためでもあるけど、本当にヴィルに無事でいてほしいの。
だから、どうかこの思いが純雪の天使に届きますように。
「エレナちゃん!?」
リリアの声が聞こえた気がしたが、私は嫌な『感覚』が消えてなくなるまでずっと祈り続けていた。
「ふぅ……」
祈りを終えて、一息ついた。
「なんだかもう大丈夫な気がします」
「それは何よりだよ」
「そういえばさっきリリアに呼ばれた気がするけど、何かありましたか」
声からして驚いていたようだけど、何だったのだろう。
「ああ、それはね。さっきエレナちゃんが祈っていた時、髪と両目が急に光り出したよ。微かだったけど……。それでちょっと驚いただけ」
「髪と両目が……?」
「自覚がないというのはやっぱり魔力漏れか」
言われてみれば体が温かくなった気がするけど、魔法を発動した覚えがない。
「そう……だと思います」
「それにしても、髪から魔力が漏れるのはよくあることだが、両目からは珍しいね。その体質は何と呼ぶんだっけ……、魔眼持ち?」
強そうな呼び方ではあるが、魔力漏れには魔力が多すぎるか、制御が下手かの二つのケースがあるので、一概には強いと言えない。私の場合は、後者に当たると思う……。
それに――
「うぅ……目が光っているところをユトリテリア人に見られたら『金色の悪魔』だと思われそうです……」
母国でこの金色の目が光り出すときっと大騒ぎになりそう。
「そんな!?……エレナちゃんは聖職者の家系と思うくらい神聖な雰囲気だったぞ!」
「そんな恐れ多いな……」
「それと、祈りの途中で光り出したから、きっとエレナちゃんの思いが純雪の天使に届いたよ」
「リリア……。うん、そうですね」
その嫌な『感覚』も消えたし、もしかしたら本当に純雪の天使が私のお願いを聞き入れたかも。
気が緩むとお腹空いていることに気づいた。時計に目をやるともう太陽が沈んでいる頃だから、きっとリリアも同じだろう。
「あ、もうこんな時間。晩ご飯を作ってきますね」
「私も手伝おうよ。二人でやった方が早いから」
「いいんですか。ありがとうございます」
そして、私たちは工房を後にして、厨房に向かって夕飯の準備を始めた。どうやらリリアは長い間隻腕だったせいで、料理に不慣れではあったが、努力すればきっと上達するだろうと思った。
遅くなった食事を済ませて、読書で時間を過ごしていると、いつの間にか就寝時間が近づいていた。
「エレナちゃんが寝るまで、一緒に話をしよう」
寝室に戻ろうとする時、リリアがそう提案した。雷雨とヴィルのことで心細かった私の様子に、彼女が気づいてくれたのかもしれない。
私はそのありがたい申し出に甘えることにした。
「うん、お話ししましょう」
自室に戻り、私は魔石灯のエネルギー残量を確認してから灯りを点けた。この残量なら一晩点けても大丈夫そうだ。
リリアは椅子に腰を掛けて、さっそく話題を持ち掛けてきた。
「そういえばヴィルってさ、入浴剤を変えたのはやっぱりエレナちゃんに関係あった?」
「分かるんですか。やっぱり」
「女性の嗅覚は鋭い!……と言いたいところだけど、あのカールでさえ分かるくらいだからね。エレナちゃんが来てから、ヴィルが入浴剤を変えたってことを」
「それはね、私だけいいものを使ってたら、きっと負担に感じるだろうってヴィルが見抜いたんだと思います。だから私に気を遣わせないために、同じものを使ってる……んだと思うんです」
「ふふっ、やっぱりヴィルは変わったんだな」
それからも私たちはいろいろなことを話していた。なぜかリリアは、私とヴィル普段どうやって過ごしているのかについてやたらと質問してくる気がするけれど、その理由は分からなかった。
リリアとお話をしたおかげで、この夜は心地よい疲れを感じ、雷雨の夜でも順調に眠りにつくことができた。
でも、欲を言えば、前の雷雨の夜のように、ヴィルに甘えたかったな。
✿
「リリア!リリア!」
翌日の夕方、私はまたそわそわしていた。
「どうした?エレナちゃん。もしかしてまた嫌な予感が――」
「ヴィルはもう王都に戻って来たらしいんです!」
それを聞いたリリアはきょとんとした顔になった。
「確かに任務が順調なら、今晩戻る予定だったな。それもエレナちゃんの
勘?」
「勘というか、確かにヴィルの気配を感じたんです。彼は王宮に向かってるようです」
昨日の虫の知らせみたいな感覚とは違って、今のはきっと同調の力でヴィルの存在を感じ取れたと思う。
「おそらく報告しに行くんだろう。エレナちゃんってすごいね、やっぱり聖職者の家系だったりして?」
「だから違いますってば」
そして数十分が過ぎたところで、ヴィルがこちらに向かっているのを感じた。
「ヴィルが戻ってきます!」
「え、エレナちゃん!?」
居間から飛び出て、私はエントランスホールで彼を待ちながら、心臓が高鳴るのを感じていた。
程なくして、門が開かれた。ちょっと憔悴した銀髪銀目の人物がふらふらしながら現れた。
私は目一杯の笑顔を浮かべて、彼を迎えた。
「お帰り、ヴィル!」
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