桜の冠

 白神縁子。わたしの名前。九年ほど前、名も知らない山の奥にあった広大な花畑で、そこへ自死しようとやって来た老人に拾われた。いや、拾ったといっていいかも。


 護ってゆきたかった。自身の最後さえ看取って欲しかった。自身の持つ大きな富なんかよりも、好きでやっている仕事なんかよりも。家族との他愛無く、ただ儚く、何よりも暖かい時間。


 それを最も大切に、愛した末に、これからを一瞬で奪われ、歳をとった自分を他所に、莫大な富だけが手元に残り続ける。そんな老人を。


 随分と前の事だけれど。目を閉じれば、蹲って泣いている。その老人を収めた光景が、今でも、瞼の裏で再生される事がある。


 確か、わたしは大きな桜の木の根元で眠っていて、老人の悶え、啜り泣く声で目覚めた。わたしの記憶はここから始まる。


 わたしが身体を起こすと、老人はわたしの直ぐ目の前で泣いていた。辺り一面は花で埋め尽くされ、先が見えないような場所だった。


 後ろから散っている桜の花弁が、いつまでも蹲っている老人を次々と覆ってゆくため、わたしはその老人を落ち着かせ、老人の手を引いて花畑を後にした。


 老人の背中を撫でて、それを暫く続けていたら、なんか泣き止んでくれたような気がする。


 兎に角、義父曰く。「もう、あんな馬鹿な真似はしない」と、何かを誓っても尚、何時もどうしても変わらない。その優しい目つきでそう言っていた。大丈夫そうだ。


 今でも、どうしてあの花畑を出たのか。どうやって出る事が出来たのか、本当に分からない。


 勿論、今や親代わりとなったその老人本人に聞いても、なぜそんな場所に辿り着けたのか分からないそうだ。


 ...その時は、夜だった。そこは、星と月の光が明るくて、花と、桜の花弁さえも。全てが白く光を纏っている。そんな場所で、それこそ夢のようだった。


 正直、高校生になった今でも。その場所へ行きたいと、強く切望する時がある。


 今まで、夢だって様々旅して来たけれど、そのような景色にはまだ、逢えていない。もう逢えないかも知れないが、どうしても、諦めきれない。夢でも探してしまう。


 まだ幼い頃の、届かない景色。そう考えるだけで胸が苦しい。だけれど、だからこそ、何時か。必ずもう一度あの景色に辿り着くのだと。その意思表示も込めて今日も放課後、学校の中庭にある大きな桜の木の根元で本を読む。それが今のわたし。


 それで、何故本を読むのかって?知らない。好きだから。


 おっと、そろそろ友達が来る。


 「よーりーこー! 部活! 終わった! よ!」

 大きな声が学校と云う名の建物を伝い、少し谺する。今は放課後。もう灯りがついていない廊下もある。この中庭はそう云った廊下を暫く歩き、経由した先にある場所。


 わたしも通ったその廊下を、それと同じく、静かに通って来たであろうその人影には、自動ドアが開いた瞬間に素に戻り、突然そこに現れた!と、演出したい心理がいつも働いているようだ。


 彼女は駆け足でこちらまで来て、わたしの隣に勢いよく腰かけた。


 「あら、愛花。入院明けの部活はどうだった? いつもよりテンション高い? 何かよく分からないけれど、良かったわね」


 「話畳むの早! そうそう、色々あって部活辞めて来ちゃってね、今日は早く終われたんだよ!」

 わたしは意図してか、思わずか、本を畳む。そして彼女の顔を伺う。


 「これは反応に困る...終われたかどうこう以前に辞めに行ってたのね。そりゃ早いわけだ」


 「ふふ、でもね。私的には悲しい訳じゃない。良い機会だよ。案外頻繁に大会がある癖に、全く。毎度毎度何で緊張しなきゃならないのか。でも、入院を理由にすれば親も文句を言わないね」


 「やれやれ」

 彼女は清々しい顔をしている。いつも通りの快晴だ。心配は、どうだろうか。まぁ、本人が良いならそれで良い。わたしは、人の事情に対して深く突っ込む気にはならない。


 「縁子、もう今日はそろそろ帰ろうよ。それとも、まだ早い?」

 風が吹いてきた。視界に舞う桜の葉は、軒並み出入り口の自動ドアのある方向へ向かって舞い始める。


 「...いいや。たまには早めに帰って爺さんを安心させるのも悪くないかも。年寄りに心臓の負担は命取りよ」


 「よし! それじゃあ決まりだね。行こう」

 彼女は立ち上がり、わたしの手を引いてくれた。

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  学校の外。通学路で見慣れた街の住宅街。ここはまだ都会と言われるほどの場所ではない。今日の彼女は通り過ぎてゆく家を一軒一軒観察して回っている。いつも見る景色だろうに。


 人は余りにも普通過ぎるといつもとは違う事をやってみたくなるものなのだろうか?そう考えると普段通りの光景だ。


 「昔は空き家というのがそこら中に沢山あったらしいわね。持ち主不在の家らしいけれど、今では考えられないわ」 

 そんな中で、わたしはなんとなくで彼女に話を振る。これも普段通りの光景だ。


 「そうだね。最近は、建物の何もかもが綺麗で、無駄な建物とかは一切無いから。昔の面影は文化財とか、価値のある物ばかりだからね。空き家や廃村、無駄な土地さえ今は無くて。なんだか、味気ないなぁ」


 「家を凝視しながらそんな事思ってたのね」


 「それはなんとなく」


 「なにそれ。怖っ」

 今では珍しく、石でできた風情のある橋。その橋を、ふざける彼女の言葉を捌いて二人で渡る。


 そして、暫くお互いに沈黙し、真ん中辺りにある橋の出っ張りを通り過ぎた時。彼女はこんな事を言い出した。


 「ねえ、縁子。今週の休み、空いてる?」


 「ええ、空いてるけれど。どうしたの? 急に」

 彼女の少し後ろでわたしは歩みを進めている。彼女の後をつくように。


 「あのさ、いつも私達二人で探し物する時って、縁子が行く場所決めてるよね」


 「そうね。わたしの探し物だからね」


 「だから、私の探し物も手伝って欲しいの」


 「ふふ、なーんだ。暫く勿体ぶって取り付ける約束がこれなの? 手を貸すに決まってるわよ。大して気なんて使わない間柄でしょう?」


 「そりゃそうだ。よし! 決まり! 決まりーっ! それじゃ、今週の休みにいつもの駅で待ち合わせね」

 そう言って、今はまだ見えないが、彼女が指差した先にはわたしたちがいつも使っている駅がある。


 勿論通学でも使っているその駅は、橋を渡り終えた頃に漸く遠目で見えるだろう。だが、地味にこの橋は長い。


 橋の下を通る川の水は、澄んだ青空に照らされ、水晶のように光を反射していた。そう、この日はそうだった。


 ...この時のわたしは、このどうでもいい程に何気ない日常が続け。と、ただ、願い続けている。

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 「ただいまー」

 家のドアを開け、玄関から出て、すぐ近くのリビングのドアも開けて開口一番。帰宅直後に最も口に出される言葉と言えば先ず、これで間違い無いだろう。


 そして、いつもの作業机でなく、リビングの机で灰色のノートパソコンを前に、明らかに眠気の誘惑と戦う年寄りが一人。


 「ハッ、お、おう。縁子、今日は早かったのかい」


 「ええ、愛花に釣られてね。それと、もう歳なんだし、そのまま寝て休んでも良いんじゃない?」


 「ああ、そうか、僕からも本当に有難いね。あと、これはいつもの建築のやつじゃなくて、明日の講義で使うスライドだから、そうも行かなくてね。はは...」

 そう言って苦笑いをしているこの爺さん。わたしの義父である白神陽一は建築家をしている七十九歳。一つだけのようだけれど、その歳になって大学の授業の依頼を受けたらしい。


 建築家として有名らしく、もう完全に白髪だが、まだどう見ても六十代にしか見えない程若々しい老人。本人曰く自身の付けている黒縁メガネにはかなりのこだわりがあるらしい。センスは渋い。


 「でも、縁子のおかげで目が覚めたかも。よし! 頑張るぞ! 僕はまだ現役だ」


 「まぁ、無理しないでね。わたしは部屋へ戻る」

 そうして再び、わたしがリビングのドアに手をかけた時だった。


 「あ、ちょっと待ってくれるかい、縁子」


 「どうしたの?」


 「なんか、どうしても気になってね...伝えておきたい事があるんだ」


 「なるほど」


 「失ってから大切さに気付く事は多い。そういった事の中には、振り返ってみても、自分ではどうしようも無かったものさえあるだろう」


 「ええ...まあ、そうね」


 「でも、だとしても。大丈夫。縁子はあるがままで良い。今ある何気ない日常を、過去にあった何気ない日常も、大切に出来ればそれだけで。これだけは伝えておきたかったんだ。すまないね、呼び止めてしまって」

 静かな部屋に、どこか重くて優しい声。


 その声と言葉は、まるで、心臓の中でブロックが規則正しく動き、尚且つ不規則に並び変わるかのような感覚をわたしに与えてくる。


 「い、いえ。何だか、ありがとう」

 わたしはリビングをそっと出て、ドアを閉じた。

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 (爺さんは何故、今に限って...)

 そのまま受け取ればよかった、ただそれだけの励ましの言葉。わたしはこの日、その時から続くこの感覚の、その理由も碌に考えないままに、自室の天井を眺めた後、この日は目を瞑った。


 ...わたしはいつも夢を見る。今夜も例外じゃない。くだらない夢に、怖い夢。楽しい夢に、美しい夢。様々な夢を見る。


 今夜の夢は、美しくて、怖かった。珍しい事に、ただの昔の記憶、そのトレース。なのに、何故なのだろうか。


 ...これは、初めて彼女に出会った時の記憶だ。

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 爺さんは家を二つ持っている。都市に在るほぼ仕事用の真新しい家と、昔、家族と住んでいた爺さん自身が設計した大きな洋風の一軒家。そこは、今いる都市とはまた別の都市の住宅街にある。


 その都市では緑をわりかし大切にしていて、それなりの自然が住宅地付近にはあった。それこそ、洋風の大きな一軒家とセットで、周りを囲むような、そんなまあまあな広さの花畑を作れるほどの面積がある、そのような山が在る程には。


 引き取られて一年目。その時のわたしは、暫くの間、洋風の一軒家の方にいた。あの時はまだ、わたしの髪の色も黒くて、見た目的には他の子供と比べても遜色なかった。

 

 まだ学校という場所に行くよりも前の話。本を読む、読んでもらう以外に、家の周りにある花畑を隅々まで見て徘徊する、といった『好きな事』が、新しくできて暫くした頃。何の前触れも無く、わたしは彼女と出逢った。


 「君、誰? もしかしてここの子?」


 「そうよ。何処かの誰かさん」


 「もう! そんなんじゃないって! 私は愛花、見呼愛花っていうの!」

 後ろから声を掛けられて、わたしは立ち上がり、後ろを振り返る。それまで、その少女の姿を認識していなかったとはいえ、誰かがこちらへ向かって来る音はしていた。


 なので、特に驚く事も無く。そして、揶揄ったつもりもない言葉だったのだけれど...


 「怒っているのかな? これが理不尽というものなのね」

 わたしが少女を視界に収める頃には、彼女の顔は赤くなっていた。ついでに口元も上に向かって折れている。感情豊かな子供のようだ。


 この頃はまだ、その少女はそれ程髪の癖がある訳でも無く、落ち着いたショートヘアだった。その時の彼女は、白いワンピースに青いサンダル、そして何故か、明らかに被った所でぶかぶかであろう麦わら帽子のゴムを肩から腰にかけ、帽子を背負ったような格好をしていた。


 この時のわたしは、変なこだわりが割とあったとはいえ、確かに最近暑いと感じた事が多かったな。と、彼女を見て、流石に少しばかりの季節感を学んだ事を今でも覚えている。


 「でさ! あなたはずっと同じ場所でしゃがんで何してたの? ていうか、もう夏なのに何でまだ冬服着てるの?」


 「あ、顔が普通になったわ」


 「もう昔の事は忘れたの」


 「へぇ、そう。よく分からない人だなぁ〜」


 「そんな事よりさ! あなたは何してたの? 何でまだ冬服なの? 凄く気になる!」

 少女は不思議そうに詰め寄ってくる。この時のわたしは、内心、その事も忘れてほしかった。この状況に対応するのが、なんていうか...少し、怠いと感じられた。だから、当時のわたしは、適当にそれっぽい事を言ってやり過ごそう。そう思った。


 冬服である事には一応理由があるけれど、何せその『好きな事』に、理由なんて無かったから。もしかすると、あの時のわたしはまだ、夢の中と同じように、現実世界でも、曖昧のままで居たかったのかもしれない。意識がぼやけている方が、何かと気楽だ。


 「はぁ、分かったわよ。こういった長くて分厚い服を着ている方が、わたしは安心するの。確かに暖かくなってるけど、やっぱりわたしはこっちの方がいい。そういう人なの」


 「へぇー、なるほど。そのパターンか。やっぱり君の話は面白くなりそう! そんでさ、ぼーっとお花を眺めてたのはの何で?」


 「う〜ん、それはね...」


 「大半はここをウロウロしてるのに、時々じっと何かを見つめ始めるものだから、気になって仕方が無いんだよね」

 普通に衝撃の事実だった。(まさか、最初から何処かに潜んでいたのか...)と、若干怖くなりつつも、ちょっと考えたらすぐにどうでもよくなり、わたしは脊髄反射で作った理由を口にする。


 「景色を探しているの。ずっと前に見た景色を」


 「なるほど、それはどうして?」


 「はぁ、わたしの生まれた場所の景色だからよ。わたしは、ここの家で子供として住まわせてもらってるだけで、本当はこの家に産まれた子供では無い。要は、思い出に浸っているのよ」


 「へぇー。なんだか、複雑、なのかな」


 「複雑? まぁ、いいか。そう、複雑なの。どうせ過去の景色なんて、夢の中で見る景色とほぼ同じようなものだし、貴女には関係ない。それに、心配も必要ないわ。ここでのゆったりとした毎日も、わたしにとっては救いなのよ」

 そう言うと、わたしは自室に一先ず避難する為に、その場を立ち去ろうとした。だが、わざわざわたしを狙って話しかけて来るような少女が、この程度で引き下がるはずも無かった。


 「おーい、ちょっとー。待って! 待って! 待って!」

 少女の声は、「待って」の度に大きくなった。そして彼女はわたしを追い越し、大の字でわたしの行く道を塞ぐ。これは彼女の咄嗟の行動だろうけれど、表情から察するに、この行動は彼女からしてもかなり大胆で、勇気のいる行動だったのだろう。


 目も瞑っているから、横から通ればいい事ではあるけれど、彼女の圧に負け、この時のわたしは足を止めてしまう。


 「えぇー、その事についてこれ以上聞いても、ほぼ同じ答えが返ってくるだけよ?」


 「大丈夫、もうそれはわかってる。わかってるから、だから。お、お願い! その景色を探すのを、私にも手伝わせてほしいの!」

 わたしの目の前にいる少女は、眼を瞑って、何処か神様にでも祈るような、そんな険しい顔のままで、わたしに向かって手を合わせている。


 改めて見ても、距離の詰め方が呆れる程に不器用だけれど、わたしはこの時、彼女の本当に願っているもの、欲しいものがなんとなく、分かったような気がした。


 「そう? ここに毎日来てくれるの?」


 「うん! 絶対に行くよ。雨の日でも雷の日でも、何なら台風の日でも、絶対に」


 「いや、晴れた日だけでいいから。まぁ、それだったら、この『探し物』、手伝ってもらおうかな」

 この言葉を機に、少女の顔がどんどんと晴れていく。あの祈るような緊張が解けた様子。


 「よし! 決まり! それじゃあ、今日から私達は協力関係って事だね!」


 「いいや、そう慎重じゃなくていいわよ。こういうのを『友達』っていうんでしょ? わたしの名前は白神縁子。これからよろしくね、わたしの『友達』、見呼愛花さん」

 そう言って、わたしは優しく、少女へ右手を差し出す。


 「う、うん! よろしくね! わたしの友達、白神縁子さん」

 彼女はそう言うと、案外力強く、右手でわたしの手をとった。


 この日の夢は、ここでおしまい。

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 ...目を覚ませば、毎日とはいかなくても、暖かい陽の光がわたしの朝を出迎えてくれる。何時も在って、無くなって仕舞えば、この星の全てが最も困るであろう、当たり前。天からの贈り物。


 (時間は...でしょうね、これから急いで向かったとしても遅刻ギリギリ)

 頭を抱えて、枕の隣りに置いたタブレット端末をこちらに寄せて起動する。目覚まし機能は使っていない。無駄だと気付いたから。


 今日の睡眠時間は十二時間、眠る前に確認したのは午後七時三十分の文字。それが丁度午前に変わっている。


 いつもいつも焦る朝。だけれど、皮肉な程に意識がはっきりする朝だ。現実逃避なんてしている間はは無い、状態ですら無い。わたしは支度をサッサと済ませて、爺さんに「行ってきます」とだけ言って、家を出た。


 爺さんの「いってらっしゃい」の言葉は、途中までしか聴き取れていないから、いつもながらに申し訳なく思う。

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 いつも、いつも、三年間同じ景色の通学路の地面を、自分の限りある力を使って駆けていく。もう、流石に見飽きたこの通学路に対して、わたしが思う事はさほどない。


 強いて言うなら、高い建物が多い割に、歩いて見てみれば全体的に斜めらで、シンプルに無駄の無い。自然を取り入れたのとはまた違う、美しい都市の道。


 前に住んでいた都市と比べると、緑の部分を削って、その分、人の手でデザインと利便性に振った。わたしはそういったイメージ。少なくともこれが駅まで続く。


 そうして、道の先の駅まで来れば、そこはまるで大迷宮。間違っても初心者は、そこで何か買おうと奥の方まで行かない方がいい。帰れなくなってしまうから...と言うのは冗談。


 ここは一定間隔で掃除をして回っているお掃除ロボットに話し掛ければ、目的の場所まで案内してくれるから、別にどうという事は無いわね。結局の所、安心で安全な駅。


 だけれど、此処には、別としてわたしにとってかなり大きな問題がある。


 それはこの駅には四六時中人が多いという事。わたしからしたら辛い。わりかし辛い。結構辛い。けれど、ここは都市だし、当然か。


 慣れれば平気な人がこの世の中には多いかもしれないし、分からないけれど。残念ながら、わたしは人通りの多い所は苦手な質。さながら、精神にスリップダメージを受けているかのようで、辛い。少なくとも人との距離が欲しい、距離が。


 そんなこんなで、わたしは毎朝のように電車へと辿り着いた。出発寸前、あわやの所で電車のドアへ特攻成功なわたしは、偶々目についた席に着く。


 そこは対面席で、わたしが窓側、見知らぬ人が通路側で携帯端末を見ている。制服からして、同じ学校の生徒。


 電車の中は、通学も、通勤も丁度ピークを過ぎた頃合い。ましては、昔から人口が一億人を切っているこの日本という国では、学校などの時間に多少遅れる事に対して、電車に乗ればどこかしらの席に着けるというメリットがついてくる。


 まあ、家から殆ど走ってばかりだったお陰で、未だ落ち着き切らない呼吸の乱れ。それはゆっくり窓の外でも眺めて落ち着かせよう。そう思う頃には、わたしの眼は既に、窓の向こうに映る人の営みを捉えていた。


 公園で親子三人が幸せそうに遊んでいる。


 少年と父親は珍しい事にけん玉をしているらしく、玉ををけんに刺した瞬間のガッツポーズを決める父親に対し、苦闘している様子の少年。微笑ましそうに、二人をカメラに収める母親。


 そう、心の余裕さえ有れば、美しいものは幾らでも、ありふれた場所で沢山見つかる。


 お察しの通り、これも戦術。この時代に限っては、遅れる事は悪い事ばかりというのは早計なのよ。やはり、心に余裕を保っておく事は全てに通じる事柄だろう。


 わたしはこのまま、目的の駅を降りた後、昨日、愛花と約束事をしたあの橋を渡って学校へ向かう。距離にしてほぼ二km弱。住宅街の先にある、小高い山の斜面に無理矢理捩じ込んだような立地の校舎まで走る。う、うん。大丈夫、問題無いわね......


 ...そう、あれから、わたしは問題なくこの週の金曜を終えた。水曜以外遅刻は無かったし、総じて、静かな、ただ静かな日常だった。


 ちょっとした事を同級生と話す程度で、先生に進学先を問われた程度で。何の問題も無かった。だけれど、それは、わたしに限った話。


 この週、彼女は、あの約束した火曜日から一度も学校へ姿を見せる事は無かった。


 けれど、心配になり、探し物をする休みの日と時間をビデオ通話で直接聞いたら出てくれた。夕方でパジャマなのにはツッコミを入れず、取り敢えずは、いつもの彼女だった。


 ホームルームでは、彼女の事について、多くは語られない。


 机の上にある、天井の窓の上。曇りなく、輝く星々。皮肉な事に、夢の世界でも、現実の世界でも、この頃ふと見る景色は、総合して美しいものばかりだと思う。


 集合時間は日曜日の午後一時。拭いきれず、募ってゆく一抹の不安を、わたしはずっと自覚していた。

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 私は改札口の正面にある売店の前で、待ち構えるように待機する。今の時刻は昼の十二時五十八分。


 私の名前は見呼愛花。何でもない、この広い宇宙と比べたら余りにもちっぽけなこの星に住む、さらにちっぽけな女子高生。


 この広い認識、果てはこの認識に対する認識は、自分の人生における大切なものは何か、それを消去法的に明らかにする事を大きく手助けしてくれる。これは私の自論。まあ、今に関してはどうでもいいか。


 今日はいつも何かと利用する駅で相方と待ち合わせ。何故って? それはね、いつもは相方に連行されてる側だけど、今度は私が連行する番だから。相方からして、ちょっとした旅をしようと思ってる。


 この日の為に私はちゃんと、使うべき時に使う体力を蓄え、新幹線の予約さえ済ました。


 更には、これから向かう場所的に合うであろう服装で決めて来た。袖長で、黒いボタンとベルトの白い膝丈のワンピース。色々と考えるけど、やっぱり、帰結としてはいつもシンプルなものに限るという結論になる。


 それと、七年前から愛用している、母に買って貰った紺色のキャスケット。当時は、母がサイズを間違えて買ってきたお陰でブカブカだったけど、それが何だか気に入ってしまって、ずっと被ってきてたら、もう、自分の方がそのサイズに追いつきそうになっている。


 案外相方に被せたら似合うかも。なんて、思ったり、思わなかったり。


 「あ、来た。オーイ、縁子ー! こっちー」

 私は改札の向こう側にある時計をチラ見した後、とある人物がこちらへ向かって歩いて来ているのが視界に映った為、咄嗟に声を掛け、手を振る。その声が届いたのか、その人物が少し口元を動かしたのが見えた。恐らくその場で、「全く」とでも、心の声を吐き出したのだろう。


 そう、たった今、昼の一時ピッタリに改札口から出てきたのが私の相方、名前を白神縁子。真っ白な絹のような色合いの髪が、とてもとても特徴的な、宇宙人のようで、どこか夢の住人のような、日本人の不思議ちゃん。


 今はまだ春の初め、桜が舞う季節。未だ完全に冬の寒さが引いた訳ではないにしても、縁子は相変わらず本当に暖かそうな服装をしている。


 膝関節辺りまで丈がある黒のダッフルコートに、丈の長い白スカート、白のワイドパンツと内側がもふもふな薄茶色のブーツ。そして、彼女がときどき被る白いくて赤いリボンが巻かれているキャスケット。今のその服装では、私のキャスケットは似合わなさそうだ。


 ぶっちゃけ、縁子の私服はほぼ年中こんなだから、私は病気を疑っている。


 髪だって、私が初めに会った時は黒い髪してたのに、だんだんと頭から毛先へかけて白くなっていった。今では完全に真っ白だ。本当に大丈夫か?私からしたら、是非とも長生きして欲しい所だというのに。


 んな事を思っているうちに、縁子はジト目で私を見て、ため息をつく素振りをした後、私の方に駆け寄った。そんな眼で彼女が初めに話す内容は、実の所、私からすると普通に予想がついてしまう。とはいえ...


 「愛花、貴女あれから学校来なかったけど、なにかあったの?」


 「あっ、はは〜。まあね。でも、そのお陰で今日は体力満タンだから。心配は結構」


 「まあ、いいわよ。ここで詮索する程の気力は、わたしには無いわ。さて、それで今日は...どこ行くの?」

 縁子取り扱い説明書第一章。縁子は人に対する執着心が薄いので、適当に誤魔化せば難なく撒くことができる。


 「岡山県に行くよ、東京駅の新幹線から」


 「それって、わたしUターンする事になるんですけど...」


 「省エネ結構! 心配しなくても新幹線の予約も済ませてるし...はい、コレ」

 私は相方の話を切って、ポケットから彼女を黙らせる為の切り札を二つ取り出し、そのうちの一つを彼女に押し付ける。


 「わわっ、これって切符? さっさと用意していた訳ね。差し詰め、わたしの文句を封じ込める為のしゅ」

 相方が要らん事を言う前に、私は縁子の手を掴んで改札は向けて走り出す。案外前半のスケジュールには余裕が無いのだ。


 「次の電車迫ってるから! 行こ!」

 その時、私の後ろから縁子が何か言った気がしたが、良くは聞き取れなかった。


 「やれやれ、なんだか忙しなく感じるのは、わたしの視点だからかしら。集合時間ギリギリは良く無いわね...」


 ...それから、日はとっくに降りてゆき、最も短い時計の針が、丁度9の文字を指し示した時間帯。


 「はぁ、はぁ、はぁ」


 「愛花、もう本当にわたしが貴女を背負って丘の上まで運ぶわよ」


 「大丈夫、もう少し、だから」


 「......よいしょ。そう? 舗装されてて親切な道だけれど、割と長かったし、貴女の息の上がり具合が異常よ」


 「本当に、もう少し、だから。あ! あそこ!」


 「あ、本当。少し先に看板がらしき物があるわね」


 「ヨシ! ラストスパートだよ、縁子、」

 私が走り出した瞬間の事だった。進まない。強く、左手が握られている感覚がする。


 「いいえ、もうわたしが貴女を背負って最後まで登るわよ。あの場所にはベンチがあると新幹線で言ってたわよね、せめてそこまで運ぶわ」


 「わ、わかり、ゴホッ、ました、ゴホッ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「着いたわね。ここは、花畑?」

 縁子がその看板より一歩、足を踏み入れた先に在ったのは、星明かりの空の下、様々な種類の花が咲く広大な花畑だった。今はまだ、無理に声が出せそうに無いが、内心、あの頃と本当に変わって無くてビックリしている。


 「大きな花畑なのね。時間的にはかなり遅くなってしまったけれど...どう、割と息は落ち着いた?」


 「お陰様で。もう、大丈夫」


 「そう。看板には...目の前の十字路の北側へ、階段を登って行くと桜の木。そこに、背もたれのある長めのベンチがあるわね。愛花はゆっくりしておいて」


 「りょ、了解」

 もう無理はさせてもらえそうにない代わりに、案内は必要無さそう...


 「はい、座らせるから、大人しくしておいてね」


 「いやいや、年寄りじゃないんだから、ここぐらいで降ろしてもろて」


 「まあ、流石に。かしらね」

 そう言う縁子は、軽く深呼吸をすると、私の足が着くように、ゆっくりその場にしゃがんで私を降ろしてくれた。


 「おっと、凄く丁寧に降ろしてくれるんだね」


 「あと、はい。コレ」

 地面に足が着いた私は、膝を押して立ち上がる。そうして、私の目の前には既に、いつの間にか落としていたであろう私の帽子を、私へと差し向ける縁子の姿があった。


 「あれ? 私のキャスケット。いつ落としてたんだっけ」


 「愛花が「大丈夫、もう少し」なんて言ってた辺りにポトって左に落ちたわよ」


 「なんだか丁寧だね。ありがとう」


 「愛花ほどの大雑把ではないからね」


 「大雑把な自覚はないんだけどなぁ」

 わたしは、軽く言葉を返しながら、目と鼻の先にあるベンチまで歩き、丁度二人分座れる程の木製のベンチに、今にも力が抜けそうな自身の腰を預けた。


 「自分視点ではよく分からないものよ。貴女は初めて出会ったあの時から、ずっと不器用で大雑把よ。思い切りが良いとも言えるけれどね」

 縁子も私の言葉を丁寧に捌き、静かに私の左に腰掛けた。日々の日常に僅かに存在する彼女の適当さが、そこには存在していなかった。


 なんか少し、らしくないと思いつつも、ベンチから縁子が宇宙を展望するに伴って、私も、思い出したように星を見上げた。

 

 「改めてこうして観て、思わず息を呑んだわ。これが、愛花が今日探しに来た景色なの?」


 「まあね。これが私の探してた景色。探してたと云うか、もう一度会いに来たと言うか...」


 「そう...」


 「ここ、私の地元なんだ。星がよく見えるって有名なんだよ?」


 「何気に初耳ね。ここの看板に『見呼ガーデン』って描いてあったけれど、あれは偶然では無かった。と、言った所かしら」


 「あはは、ゴフッ、趣味の範疇にしても、もう少し、名前くらいは、考えておけば良かったのに。婆ちゃんはほんとにさ」

 これだと縁子に色々言われそうなので、私は、笑かけて崩れる息遣いを、必死で抑えて平常を保つ。


 「私さ、小さい頃に、病院の関係で引っ越す事になってさ、その前に、夜に家族みんなでここに来て、星を見てたんだよ。...そしたら、一瞬、流れ星が見えてね、咄嗟に、引越し先でも友達が出来ますようにって、願い事をしたんだよ」


 「ふふ、それは、かなりロマンチックな話ね」


 「そうでしょ? そしたらね、引っ越した先の近所をうろうろしてたら、ビビッとくる同い年くらいの女の子をみつけたの。ずっと、何時間も、お花を眺めてボーッとしてる女の子を」


 「なるほどね。ほんと、よく話しかける気になるものね。その子はまるで、わたしみたいな女の子じゃないの。やっぱり、当たって砕けろ精神だった訳なの?」


 「そりゃね、いざ話し掛けようとすると、かなりテンパっちゃって...気まぐれかもしれないけど、友達になってくれたその女の子には、凄く感謝してる」


 「まあ...そうね...きっと、その女の子もその時に、愛花を見てビビッときたのでしょうね」


 「ははっ、そうなのかもね。『探し物』って言うから、身構えてもいたんだよ。蓋を開けてみると、有名な場所とか...少し変わった場所もあったけど、基本観光で、楽しいものでしかなかったよね」


 「...そうね。わたしもわたしで、いざ外に出てみると、本当に多様なものがあって、行きたい場所も沢山出来た。そのせいかしら、いつか、初めに目的地として定めた場所の事を、すっかり忘れていたみたいね。現実だと忘れてしまうから、いけないわ」


 「それは、教訓?」


 「いいえ、わたしはそう云った堅い話をするのはあまり好きではないから。それ程に、愛花と歩いて回った外の世界は、本当に楽しくて、輝かしいものだった。と、いう事よ」


 「そっか、本当に良かった」

 私は溢れそうになる涙を抑えようとして、やっぱり溢れてきた分を、無意識に誤魔化そうとしながらワンピースの袖で拭った。


 そして、再び星を見上げると、最後に、一つだけ...


 「縁子は、私とこうして探し物をするのが、ここで最後ってなったら...どうする?」


 「それは...もしそうなったら、この景色を、わたしが『探し物』の末に見つけた景色。という事にする。これは、愛花と始めた旅だから。それ以降は、もう探さない」


 「どうして?」


 「それはね。わたしが元々何を探していようと、その結果として、旅の仲間であるあなたと一緒に得られたものを、ずっと、大切にしていたいから。どんなものであっても。ましては、こんなにも美しい景色なら、尚更」


 「でも、それはそれとして、他にも大切なものを多く得たって、良いんじゃない?」


 「それは苦しいわね。大切な事柄、人、物を多く持つと云う事は、その一つ一つをその分、大切に出来なくなると云う事だから」

 そう言う縁子の目線は、呑み込まれるような星の空へ。今の彼女は、天遠くの宇宙を隅々まで観察するような視点で上を見上げてはいない。一つの、その拡げた視界を、まるでカメラに収めるかのように、眺めている。


 「そっか...何だかそれは、少し、寂しいかも」


 「愛花は、そう思うのね」


 「でもさ、眠気に負けて、眼を閉じてしまう前に、やっておきたい事全部...やれて...最後に、ささやかでも...縁子と...話せて...本当に......良かっ...た.........」


 「ええ...お休みなさい。あなたの見る夢なら...きっと、穏やかで、幸せなものに...なる...はずよ...」

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 (ああ、どうも、初めまして。引き込んでおいてなんだけど、どうしようかな...まあ、取り敢えず。話し相手になって欲しいんだ___)


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 穏やかな日差しの元、新たに桃色をその瞳に映した白い少女は、ゆっくりと、未だ意識が確かではない中、瞼を半分開く。


 ベンチの裏には一つのキャスケット。彼女たちが目を閉じている間に、落ちた二つのそれらは、白はリボンと共に風に攫われ、紺は白の少女の影と重なるように、その場へとり残されていた。


 「愛花、わたし、不思議な夢を見たの。列車の中で、わたしそっくりな人が、話し掛けてくるのよ」

 そう言って、顔を横に向ける少女。彼女の隣で眠る友人の横顔は、これまでにない程落ち着いて、まるで、幸せな夢を見ているかのように、穏やかで。その奥に秘める瞳は、もう光を灯さない。


 「愛花? ねえ...」

 繋いだ友人の手、胸の緩やかな上下すら無い。脈動は止まっている。そして、何よりも、


 「つめ...たい」


 .........分かってた

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 目が覚ませば、カーテンの端と、白くて無機質な天井があった。未だに強烈な眠気が残るけれど、感覚的にこれ以上は眠ろうとしても眠れないであろう事は分かる。言い表す事さえ非常に難しい、中途半端な状態だ。


 そんな中途半端な状態の中、徐々に視界が鮮明になってゆき、聴覚も取り戻した頃合いで、暫くの間聴いていなかった懐かしい声がした。


 ああ、先程までの長い夢の中で多少は聴いたんだった。本当に、何もかもが中途半端な人生ね。


 「良かった、何とか目を覚ましてくれた。縁子、僕だよ、陽一だ。聞こえるかい?」


 「爺さん...ええ、聞こえてる」


 「ふぅ、よ、良かった〜。いや、本当に...」

 病床の横で、木製の椅子に座っている目元に隈を浮かべた老人は、その肩を一気に落とした。今の仕事場からここまで、かなり遠い筈なのに...また無理をさせてしまった。わたしは一体、どれ程眠っていたのだろうか。


 「目元以外変わりないようで、安心したけれど。そうよね、何だか...ごめんなさい。見るからに無理をさせてしまったようだから」


 「はぁ、そういう問題ではないよ。縁子は四日間の間昏睡状態だったんだ。どれ程心配することか、まぁ、でも、今に至っては縁子が元気だという事、僕はそれだけで十分だ。いつもよりも特別長い夢でも見てたのかい?」


 「愛花の...夢を」

 わたしがそう言うと、爺さんは先程までの疲労困憊を感じさせる表情を吹き飛ばし、驚いた表情へと変わった。


 「愛花さんの夢を?」


 「ええ」


 「なる...ほど。やはり、今まで忘れてしまっていたのか」


 「あはは。そんな感じね、」


 「...僕はてっきり、あの事がトラウマになっているのではないかと...大丈夫だったのかい?」


 「ええ、大丈夫よ。何せ、忘れていただけだから。もう、忘れる事もないだろうから...」

 わたしは爺さんに言葉を返し、今はまだ、再び眠れる筈もないのに目を閉じる。


 そして瞼の裏、白い丹光の中で、とある思念が想起された。これは、あの境界での反射的なわたしの思考だ。


 (見呼愛花なんて人間、わたしは一切知らないのに...)

 いいえ、いいえ。違った。あの時の違和感が正しかったのね。あの時いた、あの場所が、わたしの認識一つでいくらでも変わると云うのなら。


 ...だけれど、恐らくあの場所に居たのは、わたしの中にあった、友人に対する認識を被った別の誰か。わたしの知っている彼女は、あそこまで慎重になれるはずが無い。


 あと、確かな事ではないけれど、雰囲気も決定的にわたしの知っている彼女とは違った。


 でも、確かに。その別の誰かが、このキッカケをわたしへと贈る事になったのは紛れもない事実。少なくともその結果見たあの夢は、たしかに、わたしがかつて過ごした、この現実世界での記憶だった。


 そう、わたしにはかつて、見呼愛花という友人がいた。


 わたしが始まりに見た景色から、連れ出してくれた友人が。


 その友人は、混濁した認識の中で一人で放浪する人生よりも、確かな世界で、誰かと共に旅をする時間の方が余程幸せな事なのだと、わたしに教えてくれた。


 けれど、幸せな時間は、いつまでも続くばかりではないという事も、また、愛花から教わった事の一つ。


 だからせめて、再び、また一人になって、あの始まりの景色を意識してしまわないよう。いつの間にか、あの景色の記憶と、愛花との記憶、その全てを頭の奥底へ、記憶の奥へと埋めてしまっていた。


 愛花との旅の記憶は、あの景色の話を始まりとしたもの。だから、愛花との旅の記憶さえも、記憶の奥底へ埋めた。最後の結末だけでも、彼女への手向けとして、この世界に残しておくつもりで。


 初めに目指した場所は違っても、わたしの辿り着いた旅の先は、星の下に桜の舞う、一人の友人との最後の一時だと、その事実を永遠に保護する為に。


 そうでもしないと、いつか、わたしは再び、あの桜の根本に辿り着いてしまいそうで...当時は、愛花との最後を、そこまでの過程も、所詮それをも『道』にある石畳の一部として、踏んで行く認識が嫌で、許せなかった。


 ずっと病気の中でも、自身の死を置き去りにさえして、幸せを探し、最後まで、他の人との交流を大切にしていた。そんな彼女の人生に触れた事が、わたしからすれば、ただの通過点になってしまう事に嫌気がさした。


 けれど、そうね。わたしであるからこそ、無かった事にする方が、余程、酷い事をしてる。本当に、これで良かったのでしょうね。もう、夢として記憶してしまった以上、忘れる事なんて出来はしないし。


 最初から、わたしが最後にたどり着くべき場所は、愛花と同じものではない事は分かってはいた。分かってはいたのだけれど...


 愛花、あなたが望んでいたのは、こっちなのでしょうね。けれど、やっぱり、置いてゆくのも苦しいわよ。

 

 

 


 

 

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