時忘れの病棟

 「お母さん、お外って怖い場所なの?」


 「怖い事もあるわ。でも、あなたは優しい子だから、優しい人が手を貸してくれるはずよ、大丈夫。それに、私も居るからね」


 「へぇー、そうだと良いんだけど」==================================

 名も知らぬ病院の一室。置かれた一つのベッドの上に彼女は在った。


 白色の病衣、腕に点滴。白く少しの癖がある長髪。白色の肌、桃色の眼。彼女には色が無い。

 

 時がその記憶を流してしまったのだろうか、いつから此処にいたのかを彼女は最早知らない。だが、未だ、何か、彼女は思い出そうと必死ではあるのだ。


 此処はとある薄暗い病院の中。何故薄暗いのか、理由は簡単。外が薄暗いから。まともにあるのは壁側に付けられた蛍光灯の優しい光だけ。夕方も夕方の方なのだ。


 この病院では病室の側面が全て特別な強化ガラスで貼られている近未来的な作りだ。薄暗くも辛うじてまだ、見渡すことが可能な窓からの景色は何故か、地平の先まで広がる荒野。確認できる限りでは、生命の色は無い。


 彼女はベッドの上で胴体だけ起こしている。寝起きなようで、意識半々に、ずっと目の前の虚空を眺めている。


 つい先ほど目を覚ましたであろう彼女のことだ、続けて眠ることもできないのだろう。ただずっと目を開けたまま停止している。そんな中だった。


 スーッと、天井の一部が光出し、彼女の病室全体に光を届け始めた。


 無論、誰かが明かりをつけたのである。


 その誰かとは、いつの間にか病室の入り口に佇む白衣を着た痩せ形の男性。名前を示すものは何も身につけていないが、おそらくも何も医者だろう。


 その医者風の男は、未だ停止している彼女に語り掛ける為に、大して音さえ立てずに、ベッドの横に置いてある丸椅子に腰掛けた。


 「やあ。白神縁子さんでしたっけ?」


 「? ああ、そんな名前でしたね。わたし」


 「まったく。名札を何処へ飛ばしてきたんですか、此処では無くしてはいけないってあれほど言ったのに」

 おそらく医者であろう男は、ずいっと彼女の名前である白神縁子、と、書かれている木で作られた御札を渡してきた。如何にも白い紙で包まれ、結び紐で結ばれている。神棚に置いてあるようなお札だ。


 「名札と言うより御札ね」


 「貴女は初めて見る訳ではないでしょう?」

 医者であろう男は、既に分かりきった事だと言わんばかりに、そう言った。だが、しかし。


 「あいにく、目が覚める前の事は覚えていないので」

 そう言う事である。


 「でも、貴女は此処を出なくてはいけない。今すぐにでも」


 「急にそう言われても、混乱するだけなんですけれども」


 「とにかく今すぐに。此処から出る為に、此処の病室を出た先にある廊下へ、その廊下にも病室がある。その病室を全て手前から順番に周り、廊下の突き当たりにある扉から外へ出なさい。今すぐにでも、行動なさい。今すぐにでも」

 医者であろう男は椅子から立ち上がると、強く縁子にそう言い残し、足早に病室を出て行った。


 「まだぼーっとしてる。なぜか強く意識が保てないけど。とにかく、お医者さんがそう言ってるんだもの、今すぐにでも此処を出ないと」

 縁子はゆっくりベッドから足を下ろし、スリッパを履いて、重そうに腰を持ち上げた後、自分の右腕に刺さった点滴をお供に、ヨタヨタ歩いて病室の扉に掌をかざす。


 [ピッ] [ガー] 扉は縁子を避けるように、壁の中へ収納されていった。


 病室より開かれた景色...廊下だ。そのまま、病室の壁を引き伸ばしたかのように同じ壁の廊下。


 縁子から見て、右手の壁には彼女の背後にあるような縦長の長方形が少し先に存在しており、そして左手の壁は、やはり全面ガラス張りであり、病院らしく手すりが設置され、廊下の突き当たりに関しては、何故かずっと続いているように見える。


 廊下は真っ直ぐ目の前に伸びるものとはまた別に、縁子から見て左の方へ延びているものがあるが、「こちらではない」、と、描かれた立て看板に阻まれている。


 「思ったより親切な設計してるのね、先が見えないわ」

 病衣にはポケットが無いため、縁子は、医者風の男にから渡された札を手に、男に言われた通りなんとなく病室を回って突き当たりを目指す事にした。


 辺りには手すりしかない、それに薄暗い。そんな形あるままに虚無を体現した廊下。目的とする場所が無ければ、すぐさま感情なんてかき消えてしまうだろう。記憶さえも消えてしまうかもしれない。


 よたよたと、暫く縁子は歩き、縦長の長方形の前まで来た。彼女は縦長の長方形の横に操作パネルを見つけると、なんとなく医者風の男から持たされた札をかざした。


 なんとなく。なんとなくだった。だがそのなんとなくこそが正解だったのだろう。長方形の壁は横へと消えていき、その場所にポッカリと穴を空けた。勿論空いた先は病室である。


 誰か居そうな気配を感じつつ、縁子はその病室へと入って行った。


 病室のベッドに居たのは白髪の老齢の男。ライム色の病衣を着ている。


 縁子はそのベッドの横に置いてある椅子に座った。やはり、なんとなく座ったのである。そして少しの縁子と老齢の男による沈黙の時間を経て、老齢の男は縁子に問い掛ける。


 「お前さんは、患者なのか?」

 渋い声だった。


 「見る限りはそうね」


 「よかったよかった。俺を此処に連れて来た病院の連中は信用できんのだ。俺の話を聞いてくれるか? いかんせん鬱憤が溜まっていてどうしようもない」

 この老齢の男はこの場所にいる割にはかなり元気そうだ。


 「...良いのだけど、なんで貴方はわたしが患者だと思ったの?」


 「おかしな事を聞くな、点滴つけた医者が何処にいる? 患者以外の何なんだ。お前も何かしら理不尽で意味のわからんいちゃもんをつけられて此処に連れて来られたんだろう?」

 老齢の男の話口は少し縁子の眉をひそめてしまったようだが、その変化はやはり非常に希薄だ。男は当然気付かない。


 「いちゃ...もん? うーん。わたしは今、何も思い出せないから。分からないわ」


 「可哀想に、このいかれた施設に何もかもも持って行かれちまったのか。そして、お前さんはまだ半分寝てるのか? まぁとにかく俺の話を聞いてくれよ」


 「まぁ、良いのだけど」


 男は天井を向いて無いタバコの煙を吹くように大きくため息を吐いた後、昔話を始めた。

 「あれはな、俺がまだ若え頃のことだ。俺の嫁と娘が死んだ。原因はとある若造がバイクで二人に突っ込みやがった事」


 「そ、それは...気の毒なことね」


 「ああ、だが、誰でもミスはあるもの。でも、その若造が運転を誤ったから嫁と娘は死んだ訳で、俺はその事を飲み込みきれなかった。それで...」


 「それで? なにかやってしまったりしたの?」


 「まぁ、そう、なんだな...怒りの余りその若造を俺は殺しちまったんだよ。この事は...お前さんは、正しい事だと思うか?」

 今再び、少し間が空く。


 「本当にやってしまったなのね。まぁ、気持ちは想像できるけど...」


 「それでもわたしはダメな事だと思うわね。そういった連鎖的なものは、何処かで誰かが止めてかないと、いつまでも人間は殺し合いをする生き物のままよ」


 「感情って、怖いわよね。合理的でないのに、ふとした時、全ての優先順位の先にそれがある事に気づいたりする瞬間があったりして...」

 縁子はベッドの下の影を見ながら答えた。老齢の男はそんな彼女の眼を見たあと、受け止めるように、


 「そうだよな、そっちに走ってしまう辺り浅はかだよな。本当に馬鹿野郎だ。そんなに浅はかだから、二人にも今に至って会えてないんだろうな......そう、浅はかだ。浅はかだから『俺は正しく死ねなかった』」

 何かに後悔するように、そう言葉を捻り出した。

 

 「どう云う事?」

 縁子の疑問は、思わず男の最後のフレーズに対して、反射的に口から出たものだった。それは、単なる好奇心に近いものだったのかもしれない。


 「俺が病院まで駆けつけた時。娘は致命傷だったが、嫁はまだ少し息があった。その時のあいつの最後の遺言がこれだ。『正しく最後まで生きて』、何かに祈るようなあいつの最後の言葉さ」


 「それで、復讐に走ってしまった事が『正しくなかった』ということ?」


 「ああ、全くその通りだ。俺も俺でな、殺されたんだ。俺が殺した若造の母親にな」


 「貴方、死んで此処に来たのね。此処が何処だか知ってる?」


 「分からん、俺は気づいたら既に此処だ。此処のことは病院だという事しか分からん。初めに信用ならん医者から伝えられたのはそれだけだ。なんで此処に俺が来たのか分からんが、今、俺に分かるのは...」


 「正しく生きる選択がやり切れず、中途半端に死んだ。俺に分かるのは約束を守れず、嫁にも娘にも再会出来ず、この場所に囚われた亡者が一人いるということだけだ...正しく生きるってなんなんだろうな」


 「分からないわ。『正しい』なんて、わたしにもね」


 「そうか、そんなことさえ、いつか、思い出せなくなるのかもな」

 老齢の男は言い切ると、目を下に向け、首を垂れて動かなくなってしまった。


 ...もはや話すにつれ、老齢の男の表情は、より死んでいった。いや、それだけではない。


 彼が生まれて来た時には持っていたであろうありとあらゆる熱も共に死んでいた。その風態は、彼自身がもはや、死人だという事を証明付けているのかもしれない。


 彼もいつか、此処で自分のことさえ分からなくなってしまうのだろうか、縁子は、そんな考えをフワッと巡らせ、老齢の男の病室から出た。


 縁子が振り返った時、病室は既に消えていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 病院の廊下、老齢の男の病室から出てすぐの事。相変わらずよたよたな縁子の足取りを、ある物が捕らえた。


 「ズデッ!」


 「痛たー。変な声出ちゃった、ふふ。なんて、誰もいないわね。そんな事より下見て歩いてたから、こける要因くらい分かるはずなんだけれどね」


 「どれどれ...」

 縁子は空中を舞って左隣に落ちていたそれを拾い上げた。


 「紙? なんか書いてある...誰がこんな所においたのだろう。点滴を引っ張ってしまって痛いのよ。ポイ捨てはやめてほしいわね。悲しくなるわ、色々と。というか、この点滴意地でもわたしの腕に刺さったままなのね」

 縁子は長々と文句を垂れながら、立ち上がり、病院のガラス張りなっている側で落ちていた紙ペラに書かれている文字がなんとかして読めないか、と、苦闘し出した。


 どうやら、外の世界は日没直後で止まっているようだ。これ以上暗くはならない。この病院が明るくなる時はいつか来るのだろうか...紙にはこう書いてある。

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 『正しさ』に踊らされたその男。


 彼が信じたもの、彼の行いそのものも。


 もともとこの世界にあったものだろうか?


 所詮は人の創り出した虚構でしかない。


 それで尚、価値を見出し進みたいのなら。


 よく苦しんで、良く考えて進む事。


 『金義 鏡造 著: 記憶の傷より』

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 「記憶の傷? 確か何処かで読んだような...」


 「ああ、そうね。前に、職業体験で行った幼稚園の本棚に、そんな本があったっけ。ぼろぼろで、やけに子供に見せるには意地悪な絵本が」


 「...とある復讐鬼の復讐で終わる物語。まだ小さい子供に読ましてどうしたかったのかしらね」


 「あ、思い出せた。これを続けていけばいいという事? でも、まだこれだと自分の事がよく分からない...」


 「.....」


 「わたしは...よく迷いながら進みましょう。いつかちょうど良い所に落ち着くはずだから、それまで、ずっと」

 縁子の手から離れたその紙は、空間に溶けていくように、消えていった。


 彼女は、引き続きこの廊下をよたよた進む。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 あれから暫く、何も考えずに相変わらずな足取りで進んでいた縁子の横にはいつの間にか、操作パネルと縦長の長方形。良い加減断言すると、ドアである。


 縁子は、暫く前そうしたように、右手に握った札を操作パネルにかざした。壁へ消えていくドア、現れる病室に、彼女は臆する事なく入って行く...


 その病室の一角にはカーテンがかけてある。縁子はカーテンに向かって声を掛ける。


 「あ、あのー。こんばんは」 


 「そんなに臆さなくても。普通に入って来て構わないわよ」

 中から声がした。縁子はカーテンを少し横にどかして、さっきとは一変して申し訳なさげにカーテンの内側にお邪魔した。

 

 カーテンの中に籠っていたのは、ライム色の病衣に、長髪の女性。二十代あたりに見える若い大人の人といった印象の人だ。ベッドで腰の辺りまで厚く毛布をかけ、座している彼女は、何故かずっと目を閉じままだ。


 「どうぞ。そこに座って。廊下は長いし、寒かったでしょう」

 

 (部屋がなぜか暖かくなった気がする)

 

 目を閉じたままの彼女の声は優しく、縁子も彼女の雰囲気に引きずられるように、ベッドの横に当たり前に置かれている椅子へゆったりと腰を下ろした。


 「貴女はお医者さん? それとも看護師さん?」

 目を閉じたままの女性からは、案外間髪入れずに質問が飛んでくる。縁子はすこし意外に思いつつも


 「いえ、あなたと同じですよ」

 そう答えた。さてこれは、どの様なエピソードの幕開けか。そんな思いを巡らせながら。


 「大丈夫なの? こんな夜中に出歩いて」


 「大丈夫かどうかはわかんないですけど、お医者さんに病室を回れって言われたので」


 「へぇ、変なお医者さんなのね。頼む相手を間違えているのかしら」


 「ほんと訳が分からないです。すぐどっか行っちゃいましたし」


 「ほんと〜、なるほどね。まぁそれでも、せっかく来てくれた事だし、少し私と御話する?」


 「ええ、まぁ」


 「ありがとう、少し不安だったし。ほら、私は目が見えないから、周りがどうなってるのかも分かんなくって。とくに今夜はなんか雰囲気が特に違うものだから、少しそわそわして中々眠れなかったのよね」

 そう言いながら彼女はベッドに潜り、自分に布団を被せて枕に頭を預けた。


 「ところで、貴女はどんな人なの?」


 「白神縁子って名前で、見掛けは白い髪と肌をしてます」

 縁子は自分で手の甲と、視界に少しかぶさっている事が確認できる自分の髪を確認しながら答える。


 「そう、ご丁寧にありがとう。白い肌と髪って事は、白人症?」


 「白人症?」


 「ええ、時々色素異常で生まれつき色素が無い人がいるの。紫外線に気をつけないといけないらしいから、その人たちもその人たちで大変そうね」


 「へぇ〜、そうなんですね。わたしは今、殆どの記憶がないので自分の事がよく分からないんですけど、そうなのかもしれないですね」


 「ムム、私は視力だけど、貴方は記憶が無いのね。なるほど、案外お医者さんの判断は正しいのかもしれないわね。ひょんなことから戻るかも」


 「ええ、おそらく、いつかは」


 「...貴女は強いのね。わたしは視力を失った時は一瞬だったけど、その後に相当苦労したもの。特に精神的に。ちょっと長くなるかもしれないけど、いい?」


 「ええ、わたしとしても興味があります」


 「そんなに重く受け取らなくても良いのよ」

 盲目の彼女は縁子に身の上話を語って聞かせた。


 「あれは十年前、案外昔ね。私が十五の時」


 「私には同い年の彼氏が居たの。物凄くか弱くて、強い彼氏だったわ。生まれてすぐに原因不明の難病で、十五歳まで生きている時点で奇跡な、そんな人だったの」


 「彼とは小学校で出逢った。彼曰く、どうせいつ死ぬか分からないからやれる事はやっておきたかったらしくって、病院から通っていたわ。私は転校して来たの」


 「当時の私は相当内気でね。中々誰にも話し掛ける事ができなかったけれど、彼が最初に話かけてくれた。彼自身、友達に多く囲まれてた人だったから、その繋がりで私も、今でも心配して病院まで駆けて来てくれる様な、そんな友人達に恵まれたの」


 「そういった彼と、彼らと一緒に過ごす時間は輝いていたわね。彼のことが好きだと自覚するのにそう時間は掛からなかった」


 「その時から告白しようと思っていたんだけれど、いかんせん私の根は内気でね。小学校を卒業するタイミングだから...二年ぐらい掛かってるわね。それでもずっと行動出来ないままの自分はダメだって思って、やっと告白できたのよ。散々友達に助けて貰ってね」


 「そのタイミングで、彼がずっと死にかけな状態だって、彼の口から知ったけど。それでも良いならって言ってもらえて、付き合う事になった」


 「まぁ、それから二人きりの時間が増えた。ほんと、あの時期ほど病院に通い詰めた時期は無いわ。彼の周りの人達は、彼がいつ死ぬか分からないってそわそわしてたけど、それを他所に彼はいつもふざけてばっかりで、いつも私を笑わせてくれた」


 「でも、ある日突然容態が悪くなったって朝早くに彼のお母さんの方から連絡が来てね、私は急いで家を飛び出したの。私はその道中に変な男どもに襲われちゃってね、でも、そんな事その時どうでも良かったから殴り飛ばして病院まで向かったわ」


 「その時に襲ってきた男が持ってたナイフで右目傷つけられちゃって、失明しちゃったんだけど、なんとか彼は一命を取り留めたわ。私も一緒に入院する事になっちゃったけど」


 「でもね、彼、命が助かったとはいえ、この事ががきっかけでもう本格的に寝たきりになっちゃって、もういよいよ無理も出来ない身体になった」


 「そこから一年、気が気でしょうがなくってね。退院した後も受験期だっていうのに、中々学校に行けなくって、彼の病室にずっと通っていたわ」


 「彼自身、声も全然出ないくせに、いつも通りに陽気に振る舞おうとして、彼の親御さんや私から見ても心臓に悪かったけど、そんな彼の変わらない様子に安心している自分がいた。友達も頻繁にお見舞いに来てくれてね、結局案外賑やかだったわね」


 「そしてその時は来た。突然だった」


 「日が落ちる前の夕方の事。彼が急に、最後に聞いて欲しい事がある。なんて言い出すもんだから、心配になって聞いてみれば、案の定、最後の言葉だった。その後すぐに彼は息を引き取った」


 「...それから私も私なりに、彼から習ってなんだかんだ頑張って生きてね。しょげないようにしてたの。でもこの間、左目が病気なっちゃって、転移する前に何とかなったけど、左目は何とかならずに失明しちゃった」


 「波瀾万丈過ぎますね」


 「全くよ。奴等が襲って来なければなんて、最近になってその事にイライラする事があったけど、こうやって話してみたら、やっぱりあの事も必要だったって思えて、なんか、生きる覚悟? みたいななものが改めてできた気がするわ」


 「ありがとうね。最後まで私の話を聞いてくれて」


 「いえいえ、とんでもないです。わたしの方こそ...」

 縁子そう返す頃には、盲目の女性は既に眠ってしまっていた。


 縁子は彼女の眠りを妨げない様に、椅子から立ち上がり、心地良い暖かさに包まれた病室を出た。


 病室を出た瞬間にはもう既に、その病室は消えていた。だが、代わりに縁子の足元に置かれているあるものが一つ。


 それはラジオだった。縁子は何となく適当に、そのラジオのスイッチを押した。これは、誰かと誰かの会話の様子か、

----------------------------------------------------------------------

 [ごめんね。謝っておきたかったんだ、右眼の事で。僕の所為じゃなかったとしても、それでも]


 


 [ああ、ごめんね。僕っぽくなかったなぁ、あはは]


 


 [そうか...甘かったよ。僕は自分が思っている以上に愛されていた]


 [僕は実はね、ただのやけくそで生きてたんだ。君が告白してくれる前までは]


 [でもね、こんな僕でも好きになってくれて、得意でないだろうに伝えてくれて、僕の現実も受け入れてくれた。そんな君を見てたら]


 [しっかりと人生の一つ一つを大切にして生きてこうって思えたんだ。ありがとう、僕は君から最も大切なものを貰った。人生そのものをもらったのと同じだ]


 


 [ああ、良かった。何も君にしてあげれてないとばかり思ってたから。その右眼の事だって、君の強さを証明するものだったんだね]


 


 [そんなに泣かないで、君の笑顔は、誰よりも綺麗なんだから]


 [...最後に、本当に、ありがとう。僕を愛してくれて。僕からも、ずっと、これからも、君を愛してる]

----------------------------------------------------------------------

 音声はここで終わっている。


 (あれほど掠れた声だというのに。何故これ程までに言葉がしっかりと伝わってくるのだろう)


 ...縁子は腕についている点滴に少し疲労感のある身体の体重を預けたつもりで、先の暗い廊下を進む。


 これから先へ進めば何かが変わる。そんな根拠の無い確信を抱いて先へ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一体あのラジオを聴いたのは何時間前の話だったか、縁子そんな事を考えている時だった。今まで景色は一向に変わらず薄暗いまま。


 「本当、こまめに名札を確認しておかないと、何もかも頭の中から出てってしまいそう」


 だが、闇の向こうから、今まで三度と見た長方形が右側の壁に付いているのが見えた。もうとっくに床にへたり込んでしまおうとする身体を無理矢理動かしその扉の前へ、


 (この扉に操作パネルは無い。けど、ここで必要なものは散々確認した。そう、必要なのは...)

 

 「白神縁子、わたしの名前よ」

 声は自然と大きく出た。長方形は壁の中へ消えて行き、新たな道が、これまでとは違う病室の入り口だ。


 そこは広く開かれた空間。高い天井。左側に圧倒されるほど大きな石柱が並んでおり、それらの先にはちょっとしたスペースがある。右側は大きなタイル張りの壁であるため、あの石柱はこの道の中心に、区切る様に存在しているのだろう。


 半分は道として、半分は広間として。広間は道と対立してガラス張り。青空の光が石柱の間から差し込まれ、下に見えるのは雲の絨毯。明らかに今までとは違う景色と雰囲気、縁子は確信した。


 越えてきたのだと、ここで最後なのだと。縁子の新たな根拠の無い確信は、真実を突く、闇の中の光。それは誰かにとっての闇となり得るだろう。来た道は塞がった。彼女が影と光の道の先、そこに存在する扉を認識した瞬間だった。


 とてつもない頭痛が縁子を襲った。脳の血液が逆流しているような痛みだ、膝をつき思わず頭に爪を立てる、


 「はっ、ぐっ、ううううぅ、いっ、いだい...これ、は?」

 実際には逆流したのは血液ではなかったようだ。記憶だった。今までの、そしてこれからの事の。白神縁子の人生の全て、それと、この狂いそうな夢の中で、未来に向けて行うべき役割の事。ようやく彼女は思い出したのである。


 「ああ、そうね、ここは夢の中、一人の少女の。わたしが現実に戻れるかどうかは彼女にかかってる」

 縁子は点滴スタンドを頼りに立ち上がった。


 「ここまで長かった。何度も何度も何度も何度も、忘れ続けて、力尽きて、失敗してやっと、彼女に会える。どうしても、会わないといけない」


 「もう、痛くない。行きましょう、白神縁子」

 彼女は進んだ。思いの外長いその道を。時々広間から溢れる蒼き景色を目に映し、助けられながら扉の前へ。


 その扉は、今までのほぼ壁と一体となった息の詰まりそうな扉とは違う。ちゃんと二つで一つの、人の手で開けられるべき扉であった。


 唯一縁子の手で押された最初で最後の病室の扉、縁子は未来の為に遠路を越えて、とある少女の見舞いに来たのだ。


 その少女は云った。

 「あなたには、来てほしくなかったのに」


 最早そこは病室と言えるのか?まるで美術館の様な広い場所、その壇上の床の上に置かれたシンプルなベッドが一つ。そこに佇む少女は、壇上側の壁を下半分占める大きなガラス張りへ顔を向けたままこちらへ振り向く事はない。


 ガラス張りの上にある立派な時計は時を刻んではいないようだ。縁子は少女の元へ、ベッドの隣、ガラス張り側の床に座り込んだ。


 「あなたはどうしてここにいるの?」


 「奇妙な縁でね。頼まれてここにいるみたい」


 「名前は?」


 「白神縁子」


 「...わたしは泉よ。ちなみにここはわたしの心象世界だから、あなたがここまで来ようとしてたのは知ってる」


 「なるほどね」

 少女は縁子を一瞬視界に収めた後再びガラス張りに目を向けた。


 「何を頼まれたの? どうせわたしなんて、この夢が覚めたら、もう、この世にいないような奴なのに。放っておいてほしいんだけど」

 少女は縁子を突き放す様に言った。


 「.....貴女の時間を進めるために。貴女は死の間際にずっとこの夢を意図的に見続けている。病気、だったの?」


 「......」


 「わたしにも日常があって、実際貴女とは違って、これからも生きる。そして、頼まれた以上、あなたが進まない限りここから帰れない。でもね、わたし的にはどうでも良いの。貴女がここに居たいだけ付き合うつもりよ」


 「...どうして? 死が間近になって、色んなのが見えるようになって、ずっとこのままなら色んな人達に迷惑を掛けるって分かってはいた」


 「でも、特にあなたはその中でも無関係で、わたしよりも広い人生がこれからもあるっていうのに。そんなあなたが、わたしを一番待ってくれるの?」

 少女は表情には出さなかったが、縁子の答えに内心驚いたようだ。


 「暫く掛かることもある。その時が来たらそれ以上でも以下でもない、それがわたしの見る夢だから。どうせここでどれだけ過ごしても、目が覚めたら時計の針は十周程度しか回ってない」


「...重要なのは後の話。貴女がこの夢を終わらせた後。わたしにはただの日常があるけれど、貴女のその一生には終わりが来る」

 縁子は自分に向けられた少女の眼を見て微笑んだ。


 「足りなかった分、好きなだけ逃げて、好きなだけ向き合って、満足した後に終わることなんて考えたら良い」


 「...ありがとう」

 死人のようだった少女の眼には、微かではあるが、涙が戻っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 あれから永い時が経った。自然と少女の側から縁子に話しかけてくるようになった。


 それまでは、度々縁子が他愛無い話題を振るくらいだったが、その甲斐があったのかも知れない。


 「縁子さんはなんでよくこうしてウロウロしてるの?」

 少女は病室と繋がっている廊下、大きな柱が特徴の大きな廊下のベンチから光に照らされた縁子を眺めていた。


 「なんとなく。こうしてたら、貴女がベッドから少しは可動域を増やしてくれるかな、と思って」


 「わたしはまんまと乗せられた。と言ったところかな」


 「乗せたって言うのはちょっとあれだけど、でも、わたしが来る前よりは気分的にはマシでしょ?」


 「まあね」

 縁子はベンチに歩み寄り、少女の横に座った。


 「? 珍しいわね、そんなにわたしをジロジロ見るなんて、なんかついてた?」


「いや、あなた本当は幽霊か何かなのかなって思って。ほんとに生きてる人なの?」


 「ええ、そうよ」


 「ふーん。なんでそんな眼の色してるんだ? カラコン?」


 「何も付けてないのだけれど、まぁ確かにわたしと同じ眼の色した人に会ったことはないわね」


 「そらね」

 少女は縁子の眼を覗き込んだあと、ガラスの先に広がる青空を眺める。それに釣られるように縁子も正面の景色に目を向けた。


 暫く眺めたあと、少女はおもむろにひとつ、大きく息をする。


 「どうしたの?」


 「わたし、この夢をもう終わらせる事にしたの」

 少女の声はサッパリしていた。突然の事ではあった。だが、縁子からするとこの事は、特に意識していた事ではなかった。


 永い夢の終わり、自身の幕引き。いつか出される決断が、この瞬間だっただけなのだから。


 ただ一つ、決断の少女へ、確認しておくべき事が縁子にはあった。


 「そうなのね。もう、この夢にも満足したの?」


 「ええ、もう人として散々生きた。思い残すもの、やり残したものは、もう無いね」

 少女の答えに迷いは無かった。ただ、いつもの会話のように、真剣である事を恥ずかしがるように。その言葉に、彼女は重みを加える事はない。


 「そう...良いんじゃない?」

 縁子は言葉を選んだ、ガラスから刺す陽光が二人の影を伸ばし始める。


 「ありがとう、ここまで来れたのは何でもない時間をくれたあなたのおかげだよ。本当に」


 「ふふ、でもね、貴女に十分向き合う力が無いとわたしのやり方では貴女はずっと自分を閉じたままだったでしょう。これは貴女が自力で進んだ道、これからもずっと大切にしてあげてね」


 「言われなくてもわかってる...あと、何処か可笑しなあなたに、これからも不思議な縁がありますように。なんてね」


 「どうしたの急に」


 「ふふふ」


 「あはは」

 二人は笑った。ここでの話をすれば、少し真面目な空気感さえ可笑しな雰囲気だ。上から降りてくる陽光が二人を正面から照らした。


 縁子は眩しさのあまり目を閉じる。この目を開いた時、きっと二人は別々の景色を観るのだろう。


 永い永い夢が終わる。


 (お母さん。最期まで卑屈なわたしでごめんなさい。でも、お母さんの言った通り、最期は優しい人に助けてもらえたよ)

==================================

 「あれ? あたり一面真っ白ね。まだ起きれてない?」

 余りの眩しさで目を閉じたものの、夢が覚めたと目を開けてみればわたしの目の前に広がっていたのは天井の景色ではなく全くの別物だった。ここは変な浮遊感のある真っ白な世界だ。どこ?ここ?


 「御名答」

 何処からか、気取ったセリフがわたしの耳に入る。


 その直後、急にわたしの前に現れたのは、わたしをあの途轍もない廊下へ何度も送り出した。あの、あくまでも医者みたいな男だった。


 「うわ、ええ、何の御用で?」


 「そんな嫌な顔しないでほしいな。取り敢えずありがとう、僕の仕事を引き受けてくれて」


 「? ちょっと初耳ですがそれは」

 その言葉と共に何か少しあの夢の辻褄が合った気がした。


 「いゃあ、あの子が夢に閉じこもってから外の時間が止まってね。僕が彼女を説得しに行ったんだけど逆効果になったんだよね。いつの間にか出禁になってたよ、あはは」


 「それで丁度いい所にわたしが居たと」


 「あはは、何人かあの夢に意図せずに入り込んでしまったイレギュラー達が居てね。その中でも期待して君を選んだ。イレギュラー達を処理しながらよく人の身であの心の壁を超えてくれたね。ほんとその精神力、人なのかどうかも怪しいほどさ!」

 

 「やれやれ」

 わたしはこの医者みたいな男が、どうして泉さんのカウンセリングに失敗したのか、その理由をなんとなく察した気がした。この男には色々と向いていなかったようだ。


 「いゃあ、中間管理職は辛い事も多くてね。今回は本当に助かったよ。でも、約束しよう。白神縁子さん、貴女にもう迷惑は掛ける事はないと」


 「わたしも、貴方の仕事の質の向上に期待するわね。まぁ、結果的にってとこが多かったし」


 「ご期待には沿うよ、いずれか」

 彼の言葉を聞くに、まだまだ時間がかかりそうだった、あの時の少女のように。合わないが、やらないといけない事がある。仕事と云うものは、どうしてつくづくこうも物事を辛くしていまうのだろうか。


 考える程気疲れするわね。

==================================

 朝九時、金曜、十二時間睡眠。後期の金曜は二限と三限のみ。昨日は予め勘を信じて早めに寝た。


 そして、窓に掛かったカーテンの隙間からの程良く心地いい朝日が、わたしに今日の始まりを知らせてくれた。今日に関してはいつもとは違った不思議な気分の朝だ。


 なんだかんだでわたしは今日も生きる。わたしは特別優しい訳ではないから、過去を振り返る事は中々できないけれど、積み重ねたものが消える事はない。その事は知っている。


 「今日は講義終わったら、少し遠い景色を見に行こうかな...果たして、その時のわたしは一体、何処行きの切符を握っているのか」


 価値ではなく、わたしはこれからも様々な世界観とストーリーを求めて彷徨い続けるのだろう。無数の、途方も無い世界の中で。



 

 

 

 

 

 

 

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