simulacre(シミュラークル)編1

第400話

 シミュラークルとは「コピーとしてのみ存在し、実体をもたない記号のこと」である。


 私であって、私ではない何かになることでしか、私らしさを認識できない。


 私と他人という区別がない大いなる混沌カオス――ただあるとしか言えないけれど、それが何か、どんなものなのかは具体的でなく限りなく曖昧すぎて、どんなものにもなる可能性があるとゴーディエは語った。


 ゴーディエ男爵は、その曖昧な力が自分を自分ではない何かに変えてしまい、変わったあとはすっかり以前の自分のことは忘れさせてしまうことに強い恐怖を感じている。


 ゴーディエ男爵である根拠はこれと説明されるものが、自分自身で決められたものではなく、他の誰かとの差異にしか見つけられないので、内なる力の奔流を感じた時に、そのクンダリーニとストラウク伯爵が教えるひどく曖昧すぎる力に身と心をゆだねてしまえば、自分自身の根拠は無くなってしまって、自分が何かわからなくなり、クンダリーニとなって大いなる混沌カオスに還る摂理にただ従うだけにされることが怖いと感じたと、ソラナに説明した。


「つまり、それは、死が怖いということですか?」

「それよりも怖い。なんにでもなれるけれど、もう何者でもなくなってしまってしまって、どこにでも在るのに、どこにも無いものになってしまって、心が消えてしまうんだ」

「……心が消える?」


 ゴーディエ男爵は、クンダリーニの力の奔流に意識が取り込まれかけたことで死は終わりではなく、ただの過程にすぎないことを昏睡している夢の中で知ってしまったとソラナに語った。


 ゴーディエ、それはただ怖い夢をみただけでしょうと軽く慰めるには、本気で怖がっているようなので、どうしたらいいかわからず「大丈夫、あなたはここにいます」と囁き、抱擁してゴーディエ男爵の背中を撫でることしかできない。


 ソラナのぬくもりや抱きついている体の柔らかさや、ゴーディエの背中を撫でている手の感触は、生還できたという実感を感じさせてくれる。


 ストラウク伯爵たちは、二人が離れの客間から、夜になり囲炉裏の前に姿をあらわすまで客間に行って声をかけたりしなかった。


 昏睡していたゴーディエ男爵が目を覚ましたことや、そのあとつきっきりでゴーディエの手をさすったり握り続けていたソラナが、ゴーディエが意識を取り戻した時に感情が激しく揺さぶられたことを、同じ屋敷内にいて感じることができていた。


 アルテリスがこの時、ストラウク伯爵の屋敷にいたとしたら「みんなで心配したんだぞ、大丈夫なのか?」とふすまを豪快に開けて客間に踏み込んでいたかもしれない。

 テスティーノ伯爵と一緒なら、しばらく二人きりにしておいてあげようと、アルテリスの手首をつかんで言ったにちがいない。


 エリザには不思議な直感力や感応力は無縁なので、恋人たちが心を一つに重ねあっているような状況だと知らずに、ゴーディエ男爵とソラナの様子を見舞って気まずい状況になったか、シン・リーに呼び止められていただろう。


 食事も摂らずに昏睡して寝込んでいたゴーディエ男爵の衰えていた体力は、サキュバスのソラナの授乳で、夜にはすっかり起き上がり、ひどく青ざめていた顔色まで、すっかり回復していた。


 細工師ロエルや弟子の青年セストは、人の治療は専門外で、ストラウク伯爵とマリカに任せるしかない。

 別棟の書庫でロエルとセストは、巻物を読みあさっていて、二人で同時に顔を上げて目を合わせた。


「……よかった」

「そうですね」


 ロエルとセストは短く言葉を交わしただけで、再び二人は広げた巻物の上に目を落とした。


 初老のストラウク伯爵と、若妻で山の巫女の末裔のマリカ。

 熟年夫婦のマキシミリアン公爵夫妻。

 挙式こそ上げていないが師匠と弟子の同棲カップルのロエルとセスト。

 この全員が鋭い直感力や感応力をそれぞれの鍛練で身につけていて、さらに気づかいできるぐらいの経験がある人たちなのだった。


 過去に震災の夜、スヤブ湖で怪異から異形のカエル人が出現した。

 大人の腰ぐらいの背丈で二足歩行するアマガエルのようなカエル人が、スヤブ湖から春満月の月明かり下に上がってきて、ストラウク伯爵の屋敷を呪術師シャンリーに使役されて襲撃しようとした。


 その夜、ストラウク伯爵と若妻のマリカ、マキシミリアン公爵夫妻、テスティーノ伯爵と獣人娘アルテリスは、穢れ祓いの秘儀を屋敷の大広間で行っていた。


 大地の神気と意識を同調させながらも人の意識をぎりぎりで保ち、穢れなど一切なく、愛の愉悦であると日が昇るまで交わり続ける荒行。

 ストラウク伯爵領に起きている祟りの怪異を浄化するために三組の夫婦が、それぞれの伴侶と熱く交わり続ける秘儀である。


 本来は山の巫女と一緒に命を捧げる覚悟がある山の若衆たちが交わり、翌朝には秘儀に挑んだ者たちは、山の巫女以外は全員、命を散らしてしまう過酷な秘儀なのだった。


 人間という動物の野生の肉欲、恋愛の情念、それらを山岳を女神とする信仰にとらえ直し、天地に潜むクンダリーニの力を浄化の力とする秘儀は、その力に心を奪い去られたように山の巫女は心を喪失して虚脱し、その力を導き出す贄となったように若衆たちは力尽きて、草が枯れ果てるように落命してしまう。


 その儀式を妨害しようとした呪術師シャンリーを、アルテリスの連れて来たフェアリーたちと融合して復活して力を得たレナードが撃退している。


 ストラウク伯爵と山の巫女マリカ、マキシミリアン公爵夫妻、テスティーノ伯爵と獣人娘アルテリスは、クンダリーニの力に心が吸収されないぐらい強く伴侶に強く熱い情念を抱いていた。

 さらにクンダリーニをプラーナに変換するチャクラの力で、大いなる混沌カオスに還る摂理ではなく、生まれ変わりによって世界に命の力を留めておく女神の加護の力とチャネリングできた。


 その秘儀についてはアルテリスもふくめて全員、普段は他人に見せることのないあられもない姿をさらしてしまったので恥ずかしく思って、関係者以外に語ることはなかった。


 アルテリスがストラウク伯爵領へ、神聖騎士団のメンバーやエリザたちと踊り子アルバータを連れて訪れた時、クンダリーニの力に恐怖して、生きる気力を失いかけ「もう、どうでもいいんです」とつぶやいて、ゴーディエ男爵は、話しているアルテリスから目をそらした。


 アルテリスはゴーディエ男爵を庭に引きずり出して、背負い投げにして地面に叩きつけた。


「あのさ、ソラナとアルバータは、本気であんたのことを愛してるんだ。それをどうでもいいなんて、許されると思ってるのかっ!」


 アルテリスの本気の一喝は、ゴーディエ男爵の心に衝撃を与えた。




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