第394話

 ヴァルハザードを魔獣化した魔石オクルス・ムンディ(世界の眼)。


 神聖教団のアゼルローゼやアデラからすれば、因縁深い魔石といえる。


 ヴァルハザードは、アゼルローゼとアデラをヴァンピールという魔族に変えて神聖教団を作り出そうとした。

 信仰を広めることで、太守たちや民衆に同じ思想を持たせて統一させることで統制しようと考えていた。


 それはヴァルハザードの生きていた時代では実現されず、エリザが宰相となった時代になり、ようやく達成されつつある。かなりの広範囲に布教されて知られているが、まだ大陸の西域、ターレン王国だけには、神聖教団の女神信仰が広まっていない。


 ヴァルハザードの生きていた時代はまだ血と暴力の時代の雰囲気が残り、千年王朝によってカナンの地は鎮められているように見えるが、内情はとりわけ宮廷内では権力闘争が激しく、戦の火種さえあれば、たちまち分裂して覇権をめぐり戦乱が始まる気配はすでにあった。


 絶対的な暴力で従わせる強者が君臨していれば、太守たちの反乱は起きないかもしれない。しかし、その強者が世を去れば、抑圧されていた反動で戦乱が始まるのが、ヴァルハザードにはわかっていたのである。


 まだ十五歳の成人の儀を迎える前の皇帝ルルドが殺害され、玉璽ぎょくじが奪われたことで、ヴァルハザードは自らが圧倒的な暴力で従わせる強者として君臨するしかないと覚悟した。

 しかし、自ら圧倒的な暴力の化身であるために魔獣化したあと、人の姿に戻ることができず、殺戮の獣と化したままとなってしまった。

 そうなる可能性も予想していたヴァルハザードは、そうなった時は、アゼルローゼとアデラに自分を討伐させて、神聖教団の武威を、世に知らしめるつもりだった。


 アゼルローゼとアデラは魔獣化したヴァルハザードを討伐したが、そのまま、北方の大山脈へ去り、カナンの地の戦乱を神聖教団が武力で統一せずに、旗揚げした太守たちに、それぞれの国のつぶし合いをさせることにした。


 今世においてオクルス・ムンディ(世界の眼)を受け継いだ者は、神聖騎士団の参謀官マルティナと、辺境の街道沿いの青蛙亭に暮らす元冒険者の乙女エレンである。ゲールは左右の眼球の視力を大いなる混沌カオスに代償として捧げている。


 魔石オクルス・ムンディの力が解放されることがあれば、参謀官マルティナの心があるうちに今世の英雄の運命を生きる聖騎士ミレイユが討ち、乙女エレンの心があるうちに、魔導書を持つ幻術師ゲールが討つだろう。


 神聖教団のアゼルローゼとアデラのように、干渉しないと聖騎士ミレイユの剣ノクティスと幻術師ゲールの蛇神祭祀書が判断する可能性もある。

 女神ノクティスは乙女ミレイユを守護しているだけであり、蛇神祭祀書はゲールという個人と契約しているだけなのだから。この二人の命が安全であれば、他に多数の犠牲者が出ようが、それは摂理であると判断して、干渉しない可能性はある。


 血と暴力が真理であり、弱肉強食の掟に人も生きる時代――ゲームであれば、モンスターを討伐して経験値を獲得してレベル上げして強者を目指し、敵の王の脅威的な戦闘力と、モンスターの軍勢の物量作戦で圧倒して制圧しかけている戦況を、敵の王を討ち取ることで、つかの間の平穏をもたらすという善悪が単純明快な世界ではなく、また強さこそが正義という掟が成立していた時代は、すでに終わったことを示している。


 魔石オクルス・ムンディの力が解放され、ホムンクルスの魔獣とグーラーの魔獣が雌雄を決することで、巻き込まれずに生き残ることができた者たちは、再び摂理によって、大いなる混沌カオスに力を還す時が来るまで、つかの間の平穏がもたらされ大いなる混沌カオスから力を奪い、恋をして、新たな命を生み出していく。


 この繰り返しの摂理は、終わりがない。


 たとえばヴァリアンとザルレーは同性愛者として、それぞれの一度きりの人生のみで完結する恋愛を最高の喜びとして生きたらいいと語る。


 アゼルローゼとアデラはヴァンピールだったこともあり、宗教家として禁欲を教団の戒律とした。

 快楽の瞬間は一瞬にすぎない。

 あとは再び、もっと楽しい一瞬を求めて努力を続ける苦しさがある。欲望はきりがない。だから、努力の苦しさは続いていく。終わりがない。

 楽しかった一瞬を思い出して比べてしまえば、他のことには退屈してしまう。人生には苦しさと退屈、ちょっぴりの快楽がある。

 ちょっぴりの快楽のためにどれだけの代償を求められ、犠牲を払うのか?

 しかし、喜びのない人生は不幸だ。


「ねぇ、アデラ、人間は死を嘆くよりも生まれてきたことをもっと悲しむべきだと思うわ」

「生きていてもっと楽しいことがないか嬉しいことがないかを探し続ける癖があるのには、気づいてもいいですね」

「最高の気持ちいい一瞬が見つかったらそれ以上のものなんて、何もないのに」


 生きていくことはしんどい、つらいというのは当たり前だから、まずそこを受け入れないと、愚痴が止まらない。

 愚痴をこぼしているのは、退屈しのぎにしかならない。だからといって、がむしゃらに無理して他人と奪い合ったり殺し合うぐらい努力すれば全部うまくいくと考えるのも、甘い考えなので捨てたほうがいい。

 生きていくことは、自分の欲望に従うか、他人の欲望を優先して自分の欲望を禁じるかの選択しかない。


 欲望のぶつかり合いしかない。

 納得できない理由で欲望を禁じられたら不幸に感じる。しかし納得できれば、自らの欲望を禁じても努力に思える。

 他人の欲望をつぶすか、自分の欲望をつぶすかの選択しかない。


 生まれてきたことは本人の欲望ではない。だから、誰でも生まれてきたことに納得するには他人の欲望を優先して、自分の欲望を禁じることから始めなければ「勝手に生まれさせられてきた」「生んでくれと頼んだわけじゃない」と絶望して愚痴をこぼすことになる。

 不幸なのが大前提なのが人生だから、愚痴をこぼす自由は認める。

 それをなんとかしてくれと私たちに言う暇があるなら、それぞれ人生を楽しむ努力をする愚者であれ。

 アゼルローゼとアデラは、自分たち以外の他人の愚痴を聞くのがあまり好きではない。


 神聖教団の教義は、長い時間をかけてじっくり考えて、人生の退屈しのぎになるように作られている。


 子供を生むなとか、愚痴ばかり言うならくたばってしまえと、ヴァリアンやザルレー、アゼルローゼとアデラは言ったわけではない。


 ただ、もともとつらいし幸せにしてあげられないのが人生なら、生まれてくる子供がかわいそう……と、自分たちはもう生まれてきちゃってるからしょうがないけど。

 そう考えてしまう元フェルベーク伯爵領の女性たちや、神聖教団の若い信者たちは考えてしまったというわけである。

 私たちは不幸なんです!

 という考えに、そうだそうだ、と賛同して、他人に同情する気持ちの余裕もなく、自分に同情する考えを持った人が多かったというわけである。


 亡霊ゴーストになってから、祟って復讐を果たしたり、たとえば聖騎士ミレイユの魔剣ノクティスで祓われた者たちの中には、大いなる混沌カオスに還って、忘却の果ての何も考えない感じない虚無を望む者ばかりではなかった。


 生まれ変わって、もっと幸せになってやると思う者、次はもっとうまくやってやると思う反省しない者もいた。


 生まれ変わられるかどうかは、いろいろな因果の関係があるため、本当に運しだいなところがある。


 ただし、生まれ変わりたいと望まなければ、女神ラーナの加護である転生の奇跡は起こらない。


 別に亡霊ゴーストにならなくても生きているうちに、何度でも考え方や生き方を変えてみることができる。


 ヴァルハザードのように、二人の青年たち――皇子ランベールと神聖教団の協力者レナードに分かれて、それぞれの人生を生きてみる者だっている。


 さて、呪術師シャンリーに暗殺されたフェルベーク伯爵の命は、どんな選択をしたのか?


 前世では善良な少年を悪趣味な性癖で殺害した騎士ゴアヴァイタル、今世では女性を虐待する圧政を実施していたフェルベーク伯爵……亡霊ゴーストになるほど人生に執着しておらず、懲りずに生まれ変わりを望んだ。

 彼が悪趣味な性癖と性格の因果から解放されるには、彼が愛したいと思える人と、生まれ変わって出会う必要がある。


 それがいつになるのか、まだ、誰も知らない。




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