第372話

 教育を受けられる者は限られている。


 村人は、読み書きができないのは当たり前だと思って生活している者たちもかなりいる。


 文字の読み書きと計算。

 これができるのは、かなり努力した商人か、教養は特権階級のたしなみと考える環境で育った者たちだけである。


 我は蛇神祭祀書――魔導書グリモワールである。


 世界の摂理にまで意識が到達できる者があらわれた時、その者にとって魔導書グリモワールは、無用の長物となるだろう。


 大いなる混沌カオスは、善悪も超越した全ての始源……と理解できるところまでは到達した者たちはいた。


 その者たちは残念ながら、そのまま人の姿であることをやめて、大いなる混沌カオスへ還ってしまった。


 自分と世界が一つになっている感覚から、人であり続けることにこだわることが馬鹿らしく思えてしまったようだ。


 それにしても魔導書グリモワールである我に、自らの存在とは何かと教えを求める者たちが去ってから、幾年いくとせが過ぎただろうか?


 存在とは、他の存在との関係が成立していなければ認識できないものだ。

 全てが一つの力からできていると理解した瞬間に、自分が誰であっても、何であっても、無数の存在の中にも同じ力があると気づいて、他の存在というものが成立しないと思えば、大いなる混沌カオスそのものになってしまう。


 相対的な関係性がない。

 それが全ての始源にして終焉でもある大いなる混沌カオスだ。


 我は書物である。

 読まれなければ存在しないもの。


 現在の我の所有者であるゲールは、聖職者を目指していた時期がある。

 読み書きを、子供のうちに教え込まれている。


 読み書きよりも前に、人間は泣き声を発して、自分ではない他の存在に意志疎通を求める。

 とりわけ不快であることを伝える自分以外の存在を生きるために求める。


 読み書きができず、声を言葉として理解していない人間の幼体が、我に小さな手でふれたり、口にふくんでみたりさせてみたらどうなるのか?


 現在の持ち主のゲールは試してみようとはしないのでありがたい。

 唾液まみれにされたり、握られて引っ張られるのは、あまり好きではない。


 シャンリーという人間が持ち主の時には、人間の幼体に抱えさせてみたり、火にくべられたり、書物らしからぬ扱いを受けることがあった。


 我が魔導書グリモワールでなければ、よれよれになったり、破れて紙切れとなったり、灰と煙にされてしまうところであった。


 人間の幼体は、空腹を満たしたい時もよく泣くが、ただ泣きたいから泣くことがある。

 泣くことで自分以外の存在を呼びつけて、今、ここに自分が存在していることを確認している。


 名前を呼ばれたり、話しかけられたりして声を聞いて確認する以外に、抱き上げられ包まれることでも、存在していることを確認できるので安心する。


 目がぼやけずに見えてくるようになると、確認する方法が泣いたり、口にふくんでみたり、握ってみたりする以外に、呼び寄せた他の存在の顔や目をのぞき込んでみるようになる。

 自分の存在に気づいて、変化するように見えるかを試してみるか考えるようになる。


 思念で声やお気に入りの音や味などを伝えるだけでなく、包まれた感覚や記憶の映像まで探り出して伝え、落ち着かせれば、人間の幼体は眠ってくれる。


 泣くこと以外に、排泄することも他の存在と意志疎通して存在を確認として試し始める。


 書物が読む人間を存在するために必要とするように、人間は他の存在を意識しなければ安心できない。

 魔導書グリモワールは、一人の感じ取る人間がいれば存在できる。

 一度に千人の人間と意志疎通する必要はない。

 祭壇に飾られ、千人以上の人間に見つめられ、思念で応答を期待されたこともあった。

 その満月の夜に、存在とは何かと我に問う者は、残念ながら誰もいなかった。


 人間が自分という存在を確認して安心するのに、必要な人数は、何人なのだろうか?


 魔導書グリモワールである我を、一人の人間のように感じ思い浮かべる所持者は、手に取ってページをめくっている時、他の人間の存在をしばし忘れようとする。


 ゲールのように、自身の心や思考と向き合うために、我を求める者もいる。


►►►


 呪術師シャンリーは、水神の勾玉の中に封じられ、思念で踊り子アルバータとおしゃべりしてない時は眠っている。


 そして、夢の中で自分の過去へと記憶を遡っていく。


 亡霊ゴーストを封じる勾玉の中は小さな夢幻の領域。


 まるで、生まれてくる胎児が身を丸め、心音を聞きながら、母体の胎内でうつらうつらとしながら、何度も夢を夢をみるように……。


 いずれ、シャンリーは水神の勾玉の中で前世の記憶も思い出すだろう。


 亡霊ゴーストが大いなる混沌カオスに還って一つのエネルギーになる時は、さらに遠い昔の進化の過程や神龍シェンロンであった神話の時代の記憶まで遡って思い出すだろう。


 魔導書グリモワールを手にしながら、シャンリーは願望を実現するための呪術の力へ思いが強かった。

 まるで弱肉強食の掟のような力なき者には厳しい無情の不条理への憎しみが、虐げられた人生を経験したので彼女は強かった。


 魔導書グリモワールが導いてゆく大いなる混沌カオスにつながる星の数ほどの幾万、幾億の生命体の記憶まで生前のシャンリーには、心が悲しみにとらわれていたので到達することができなかった。


 シャンリーの亡霊ゴーストは、生前は深く心を蝕んでいた憎しみや恨みをふりかえりながら、ゆっくりと心の悲しみから解き放たれようとして眠り、夢をみている。


 





+++++++++++++++++


現世うつしよこそ夢

夜の夢こそまこと


(江戸川乱歩)




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