第332話
女神ノクティスの創り出した世界――夢幻の
女神ラーナの加護する世界へ渡ろうとすると、邪神ナーガの心だけが毎回、ランベールの脱け殻のような衰弱した肉体に宿り、令嬢エステルの姿に変身してしまう。
女神ラーナの加護する世界で命を落とすと、邪神ナーガの心は、自分の創り出した世界の吟遊詩人で旅人ローレンの肉体へ強制送還されてしまう。
邪神ナーガは、何度もあれこれと繰り返してみて、川で釣りをしていて、棒うきをぼーっとながめている日の午後の瞬間に強制送還されてくる。
心が戻されてきた瞬間に、餌を魚に取られて、沈んでいた棒うきが、川の水面にひょこっと上がってくるのだった。
うたた寝をして、白昼夢をみていたような感覚だけれど、女神ラーナの加護する世界で何があったのかをナーガは、毎回しっかりと覚えている。
自分の世界では全知全能で、魚釣りをしているのは娯楽なのだ。
たとえば、十年間、何も食べなくても空腹知らずで、痩せ衰えることもなく過ごすこともできる。
剣で脇腹を深々とえぐり込むように刺されようが、心臓を弓矢で射られようが「ぐわー、やーらーれーた」と棒読みで言って、その場で倒れ込んでみる。
ナーガの死亡を確認しようとして、髪をぐいっとつかまれて、顔を上げさせられたら、ニヤニヤと笑い、ぱっちりと目を開けて「なんちゃって」と言ってやる。
ナーガは自分の創り出した世界では、このぐらい余裕があり、無敵なのである。
(あれっ、やべっ、無人島どころか、陸地がないじゃん!)
ナーガは、飛行帆船の
「はははっ、遭難したらしい」
船内から遅れてついてきた神聖教団のアゼルローゼとアデラのほうへ振り返って、満面のすごく楽しそうな顔で笑う。
アゼルローゼやアデラには、それが美少女エステルの整った顔立ちなのもあって、とても不謹慎で憎たらしく感じた。
ナーガは、エステル嬢の姿で、遭難は初体験だと思い、ニヤニヤしている。
船長しか入室できない操舵室の扉を、ガモウが激しくノックして叫んだ。
「エルヴィス坊っちゃん、大変です、起きて下さい!」
操舵室の扉を開けて、エルヴィス提督が頭を掻きながら出てきて大あくびをして言った。
「なんだ騒がしい、ガモウ、何かあったのか?」
「エルヴィス坊っちゃん、そりゃもう、何かあったというか、あるべきものが無いというか……とにかく、甲板に出てみて下さい!」
(うーん、これは見事に海しかないな。しかし、ここはシャーアンの都に近い内海のはずだが)
エルヴィスが操舵室に戻り、エルヴィス号が記憶している海図と現在位置を照合してみる。
「どうでしたか?」
「シャーアンの都の港の位置へ、もうしばらくすると着水する予定だ。これは、陸が消えたとしか思えんよ」
エルヴィス提督はそう言いながら、ガモウと船長室へと足早に歩いて行く。
食堂室では、不安になった船員たちが集まって来ていた。
昨夜は「お嬢ちゃん」とナーガをちょっぴりからかいながら、げらげら笑っていた船員たちの顔が思いっきりひきつっている。
「料理長、あと何日分の食糧と水があるんだ?」
「だいたい十六日分、節約すればもう少しいけるよ」
「そうか……貿易船の航路で南の海の海岸までは、五日間で行けるはずだよな?」
「おいおい、シャーアンの都も陸も無いんだぞ。クフサールの都の商隊が来る砂浜があるとは限らねぇじゃねぇか!」
「あー、お前、今、それを言っちゃう?」
とても騒がしく、いつ喧嘩が始まってもおかしくはない雰囲気になってきた。料理長ベラミィが、おろおろしている。
そこに、エルヴィス提督とガモウ、神聖教団の二人と「エステルちゃん」こと、その正体は邪神ナーガが食堂室に姿をあらわすと、騒いでいた船員たちが、一瞬で静まり返った。
「現在の状況と、このあと我々がどうするのか、エルヴィス提督から説明がある。全員、着席!」
ガモウがよく通る声で命令すると、船員たちと料理長ベラミィは着席して、エルヴィス提督やガモウ、神聖教団のお客さんの三人に注目した。
「まさか、ここで、女神ラーナに祈りなさいって言ったら、何人が絶望して海に飛び込むかな?」
最初に言葉を発したのは「お嬢ちゃん」だった。
「昨日の夜、ここで君たちに話しておいたはずだ。何があっても驚くなって。さっきエルヴィス提督にも同じ話をしたばかりだけど、君たちにも、何が起きているのか説明してあげるよ。一言でざっくり言えば……遭難中だ」
船員たちが頭ではわかっていても、気持ちとしては認めたくなくて、絶対に口にしなかったとどめの一言を、ナーガはあっさりと全員の前で、ずばりと言いきった。
シーンと静まり返った食堂室で「お嬢ちゃん」または「エステルちゃん」の姿のナーガだけが、口元に微笑を浮かべていた。
「ここは、君たちのよく知っているシャーアンの都がある女神ラーナの加護している世界じゃない。まあ、君たちが信じなくても、別にかまわないけどね!」
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