grimoire(グリモワール)編 7

第310話

 神聖教団や、賢者マキシミリアンが使う瞬間移動ワープの魔法陣があれば、エリザはエルフの王国へ、ナーガは目的の島へ簡単に移動できるのではと思うかもしれない。


 賢者マキシミリアンは、エルフ族の妻のセレスティーヌ、最後のドワーフ族の細工師ロエルと弟子の青年セストを連れて、ニアキス丘陵のダンジョンから、ストラウク伯爵の屋敷へと瞬間移動の魔法陣で訪れている。


 瞬間移動ワープの難しさは空間の転移というだけではなく、時間の遡行そこうを、指定したものだけに行うことにある。


 場所の指定も移動先との極端な高低差があれば、空中や地下に出現してしまう。また移動先に何か置かれていれば転移した物と融合してしまう。

 瞬間移動する人や物の情報が正確に記録され、転移先で召喚されるようにされなければならない。  

 情報が不足していれば欠損した不完全な状態で出現することになったり、移動先にある物と融合して欠損が補われることもある。


 また時間の指定が誤りがあれば老衰した姿で現れたり、遥か遠くの過去の時代へ転移してしまうこともある。

 瞬間移動の魔法陣から転移された時間は過ぎ去っている。移動先に同じ瞬間に転移して召喚されるためには、時をさかのぼっているのである。


 こうした繊細かつ精密な処理を同時に行っている。

 転移に使われているエネルギーを瞬間移動で転移する人や物から消費すれば、転移先に召喚されることは永久にないだろう。


 全てのエネルギーは消費されて消えたように思われているが、大いなる混沌の始源の海へ還り、忘れ去られて漂っている。

 大いなる混沌に還らないようにエネルギーを適した絶妙な調整で抑制して留められているだけにすぎない。

 世界に適したバランスよりも過剰であったり、不足すれば存在することができず、適合する範囲内のエネルギーが、たとえば手に取ることができる物質てして存在しているのである。


 エネルギーは消失しない。

 適合した世界へ渡って行き、循環している。

 異世界へ渡れば、元の世界から消失したようにしか感じられないだけのことである。

 手で感触を確かめることも、目にも見えず、音や匂いすら感じられない。気配すら残らないのは忘却の影響といえるだろう。完全に忘却されなくても、初めから不完全のまま認識されていて、想像力で曖昧あいまいな部分は補われているのが、現実感や実感といわれるものなのである。

 想像力で補うことができない部分が増えるほど忘却しているといえる。


 完全に忘却された時、別の異世界のエネルギーになっているか、大いなる混沌の始源の海へ還ってしまっていて認識されなくなる。


 煙がゆらゆらと立ち昇ってゆくのを見たり、白い雲が青空を流れてゆくのをながめていると、時間の経過を想像して認識することになる。


 ラーナ、ナーガ、ノクティスとこの聖戦シャングリ・ラの世界で生きている者たちは、それぞれの神々を想像し、それぞれ自分なりに認識して信仰している。


 眠っていて夢の中での時間の経過の感覚と、実際に眠っている時間の感覚が、ぴったり一致しているという者はいない。

 瞑想している間は、睡眠中ではないというのは、瞑想中は時間の感覚は目覚めているのと同じだからである。


 パルタの都やバーデルの都のような城塞都市の大門の番人を門番というが、もしも時の流れを見張り、時間の秩序を厳守させる神がいれば、時の番神ばんしんと呼ばれるだろう。


 世界の秩序、法則、摂理は人知を越えて揺るぎないものとナーガの創り出した異世界で生きる者たちは信じている。

 女神への信仰や、創造神への信仰もないナーガの異世界で具象化しているのは、時の番神である。


 時の番神アテュトートの姿は漆黒の羽色の梟の姿として、ナーガの世界の画家たちが好んで描いている。


 秩序というものや法則、摂理はやがて忘却の彼方へと、人の命でさえも奪い去ってゆく残酷さがある。

 それをナーガの創り出した世界で生きる者たちは、時の番神アテュトートという梟の神として想像した。

 

 エルフ族は、エルフェン帝国が樹立するよりも過去の時代に、人間に侵略しようと狙われたことがあるので、怖がって瞬間移動の魔法陣による侵入を拒絶している。

 それはエリザもエルフの王国育ちなのでわかっているから、わざわざ平原を旅をして大樹海に近づこうとしたのに、まさかターレン王国まで転移させられるとは思わなかった。

 こんなに警戒しているなんてエリザは知らなかった。

 エルネスティーヌ女王陛下も、月の雫の花のタネをもらって帝都に戻ってきた白い梟のホーもわかってなかったのだろうと、エリザは思った。


 ナーガは、ランベール王の肉体に宿らされ、令嬢エステルの姿に変身メタフォルフォーゼしたのを、別の傾国の美女ならぬ傾国の美少年の姿になろうとして失敗したので、女神ラーナの世界の摂理は、なかなか手強いと再認識した。


 だが、魔獣の王ナーガに化身していた時に、古代のハイエルフたちから、夢幻の領域へ転移させられたことを、邪神ナーガは忘れていない。

 女神ラーナの世界から渡ってくる亡霊たちの肉欲の願望を叶えてやり、霊薬アムリタに変えたあと吸収しまくった。

 魔獣の王ナーガの肉体に女神ラーナを捕まえる意識を残して、心だけ脱出して新たに創世することで、邪神ナーガとなった。


 女神ラーナの世界の生への未練が強い亡霊たちが、魔獣の王ナーガの封じ込められた領域へ渡って来た。

 ……ということは、女神ラーナの世界の摂理には、夢を司る女神ノクティスの力の影響で何か抜け道があるはずだと、ナーガは考えていた。


 邪神ナーガの心だけは、女神ラーナの世界へ渡って来ることができる。

 辺境の怪異で魔獣の王ナーガの夢幻の領域に、女神ラーナの転生者の肉体と心のどちらも拐うことに成功したのに、心だけ取り逃がすことになった。

 ダンジョンのドロップアイテムとして、転生者の僧侶リーナの心が封じ込められた蛇神の錫杖しゃくじょうが転移し、女神ラーナの世界のマキシミリアンの暮らすダンジョンにて発見された。


 瞬間移動ワープの魔法陣の魔法技術は、聖騎士の試練で使用された夢幻の領域からの召喚、時渡りの秘術、ステータスオープンに使われている正確な情報処理、魔獣の王ナーガを生きたまま夢幻の領域へ渡らせ封じ込めた魔導技術などに関連したものになっている。

 つまり、女神ラーナや邪神ナーガの世界の秩序や法則、摂理の枠に収まらない女神ノクティスのでたらめな混沌の力――夢の力があって実現している。


 瞬間移動の魔法陣によって転移開始。

 利用者の情報が夢幻の領域へ記憶されていくほど、利用者の姿が透けていく。

 異世界の夢幻の領域に渡る。

 移動先に指定された場所や時間の情報を利用者の情報もふくめて参照される。

 この情報処理を時の番神アテュトートが行う。この処理の待ち時間の間に、夢幻の領域での時間は経過していく。

 利用者はこの処理中のことを夢を目覚めた時に忘却する力のおかげで、瞬間移動後にはすっかり忘れる。

 転移先の元の世界へ利用者の情報が追加されて召喚される。

 この時に、転移開始の瞬間の時間と、夢幻の領域での処理に必要だった時間経過によって、ずれが必ずある。

 時の番神は、召喚される瞬間と転移開始の瞬間の一致させる。

 夢幻の領域の時間経過分は、時間を遡ることになる。時の番神アテュトートが飛翔する。

 この時にエネルギーを大いなる混沌の始源の海へと時の番神アテュトートが還す必要がある。

 利用者からこのエネルギーが奪われないように、代わりのエネルギーを捧げる必要がある。

 転移先の世界の情報の書き換えが行われ、召喚――瞬間移動ワープが完了する。

 利用者からすれば、魔法陣の中に立って、一瞬ふわりとした感覚のあと、気づいたら移動先に立っているだけなのだけれど……。


 邪神ナーガの目指している島を神聖教団の古都ハユウの占術の使い手の神官たちに探索させ、場所が特定されたら、瞬間移動の魔法陣で大陸東方のシャーアンの都まで来たのと同じように行けば、わざわざ三人そろって航海をする必要はなかったのでは?

 ……というのが大神官アゼルローゼの意見だった。

 わがままナーガは、一人で好きなところへ勝手に行けばいいのにと、心を許したアゼルにだけは、こっそりとぼやいている。

 アゼルローゼは、教祖ヴァルハザードとあまりにちがうナーガを復活した教祖と認めたくない。


 アデラは自分たちがナーガを教祖認めるかどうかではなく、転生者のランベールという美青年が復活したら、変身して美少女になったという事実から、敵対したクフサールの都のシン・リーが変身した謎が解けるまで、ナーガが教祖ヴァルハザードとはちがって、わがまま放題でも我慢するつもりでいる。

 教祖ヴァルハザードから与えられた、大切な不老不死のヴァンピールの肉体を【浄化の矢】で奪われたことが許せない。

 何か仕返しをしなければ気が済まない。教祖がいなくても、神聖教団はアゼルローゼと自分がいればやっていける。


 海賊ガモウが同じ海域へ以前に挑んだ時は、大嵐に見舞われたことで、水と動力はたっぷり確保できた。そして、エルフ族のセレスティーヌは、現在は神聖騎士団九番隊の隊長になった海賊ルディアナと古代遺跡のある無人島に上陸した。

 海賊ガモウとエルヴィス提督は神聖教団の三人が目指しているのは、同じ無人島だと思っている。


(よし、うまくいったぞ。夢幻の領域に潜入できた!)


 瞬間移動の魔法陣では、夢幻の領域を経由はするが、時の番神アテュトートが介入してくると、夢幻の領域に留まって、夢幻の世界を探検ができない。

 ナーガの創り出した世界から渡れる夢幻の領域は、魔獣の王ナーガの封じられた領域だけなのだ。


 細工師ロエルは、地上のどこかにドワーフ族の聖なる大洞窟があるのではないかと考えて、ストラウク伯爵から昔の伝承を熱心に聞き出して、ドワーフ族の聖地を探している。

 人間のセストを聖地へ連れてゆき、先祖のドワーフ族たちの心に認めてもらい、二人の婚姻を先祖のドワーフ族たちに許してもらいたいと考えているからだった。


 ナーガが神聖教団の瞬間移動の魔法陣を使わず、飛行帆船で世界を渡ろうと思いついた。

 ナーガは自分専用の帆船が欲しかった。

 女神ラーナの心を帆船の中に宿らせて、船長として暮らすのも悪くないとナーガは思う。

 自分専用の帆船の購入には失敗したけれど、神聖教団の幹部の恋人たち、エルヴィス提督や海賊ガモウ、料理長ベラミィ、他の船員たちを巻き込んで、濃霧の海域を航海中である。


 濃い霧に包まれて迷ってしまったあとで、ストラウク伯爵の屋敷にある膨大な数の絵巻物に記された言い伝えの昔話には、不思議なところに行ったお話や、子供の頃に落とし穴の罠から助けたタヌキが美しい女性の姿で、恩人の成長した青年の前に現れて、恩返しで「もう、こうなったら、私をあなたの伴侶にしてくれないと帰しませんよ」と交渉されたりと、山で濃霧には気をつけなければ遭難する荒唐無稽こうとうむけいな不思議な色恋の物語がある。


「おもしろおかしく書き換えられていったのかもしれないが、どれも霧の中で迷った人が出てくるのだよ」

「霧の中で森に入ったら、ユニコーンがいた」

「それも書き記しておこう」

「セスト、絵が上手。スト様よりも上手」

「ほうほう、これはたしかに。セストに絵を習わなければならぬ」


 セストの描いたユニコーンはとてもすらりとしていて美しい。

 ストラウク伯爵はどうも絵を描くのも好きで、手先も器用なのに絵巻物に描く絵は、なぜかぶさいくなのだった。

 ストラウク伯爵の伴侶のマリカやセレスティーヌが、ストラウク伯爵を「スト様」と親しみを込めて呼ぶ。

 獣人娘アルテリスも、この浄化の地で冒険者レナードの治療をフェアリーたちとしながら、ついでにテスティーノ伯爵と武術の修行までしながら滞在していたことがあるので「スト様」と呼ぶ。

 細工師ロエルも、ストラウク伯爵をすっかり「スト様」と呼ぶようになっていた。

 仙人のような風貌で、蓬髪のどこか飄々ひょうひょうとしているストラウク伯爵は、颯爽さっそうとしたいかにも紳士らしいマキシミリアン公爵やテスティーノ伯爵の雰囲気とは、またちがう魅力や親しみを、他人に感じさせる人物なのだった。



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