第309話

 濃霧の海域から抜け出すには、真北に進行するだけでいい。

――食糧と水が尽きるまで無理することはない。

 船長のエルヴィス提督とクォーターマスターのガモウも、神聖教団の幹部アゼルローゼとアデラの意見は一致している。


 約二ヶ月分の酒と食糧を積み込んで欲しい、とアデラから言われていた。

 船員たちの報酬まで、経費は全て神聖教団が出すという条件だったので、ガモウは「太っ腹な客でなによりですな、エルヴィス坊っちゃん」と笑っていた。

 エルヴィス提督は、商人ギルドの掟破りをするのだから、当然そのぐらいは神聖教団で出してもらわなければ困る、とガモウに真顔で言った。


 十日ほどの予定の航海に、二ヶ月分の酒と食糧を積み込んで、神聖教団のアデラは、どれだけ用心深い人物かと、ガモウは感心していた。

 人生と同じで、海では何が起きるかわからない。

 帆を張るために船体に立てた柱であるマストに、嵐の中で落雷を受けることもある。周囲に他に高いものがないのだから。

 このエルヴィス号の帆布は、シャーアンの都で一番丈夫なものなので落雷ぐらいは吸収する。突風なども吸収して動力に変え、航行できる。太陽の光と月明かりも、動力の供給源となる。


(無風で濃霧ときたか。酒と食糧より動力が尽きるというわけだ)


 エルヴィスがしかめっ面で、操舵室の船長の椅子に腰を下ろし目を閉じていた。


 この海域で嵐に遭遇して帆布やマストを損傷したか、この濃霧で飛行に必要な動力が尽きて、帰還できなかった帆船は遭難したということを、エルヴィス提督は理解した。


 海で大蛸オクトパス大烏賊クラーケンが、帆船を襲撃して……という昔話はある。

 船内で船員たちが仲が悪くなって、船員が減少していく方が、昔話の巨大な怪物よりも恐ろしい。

 大事な帆布を人の血でたっぷり染めて、台無しにしてしまえば飛行の動力が供給できなくなる。

 帆布の魔法陣が血でけがれることは、禁忌タブーとされているのには、ちゃんと理由がある。


 今回の航海では費用を気にせずに使っていいとエルヴィスから言われ、船員たちのマトロタージュを認めていなければ、この濃霧の海域の我慢くらべのような単調さにやられていたとガモウは、神聖教団のアデラに感謝の言葉を、食堂室で船員たちの前で述べた。

 船員たちが盛大に拍手をする。困惑しつつも、アデラはごつい手を差し出すガモウと握手をした。


 海賊船でマトロタージュを認めていないとして、この我慢くらべの状況になっていたらと考えるとガモウはゾッとする。

 酒と食糧が船内にたんまりあったとしても、すぐに内海へ引き上げるだろう。

 どれだけ注意喚起の声がけをしても、色恋沙汰や賭け事のトラブルで、船員が減り始めてしまう。


「……アデラの手を握られた」


 ガモウがクォーターマスターとしてのバフォーマンスで船員たちの前でアデラに握手されたのが、アゼルローゼは気にくわない、


 令嬢エステルを名乗っているナーガと、大神官アゼルローゼは大人になりきっていない子供にエルヴィス号では見られていた。

 その方が都合がいいと、ナーガはアゼルローゼとアデラには乗船前に言ってある。

 そして、アデラが船員にちょっかいを出されそうになっても、手加減して殺さずに、エルヴィス提督やクォーターマスターに報告して対応してもらえと、アゼルローゼには警告しておいた。


 相棒ではないが、船長と船内の仕切り役のクォーターマスターには、信頼関係が必要である。


 料理長ベラミィは、マトロタージュの契約を結んでいる相棒がいない。これはクォーターマスターのガモウが料理の腕前もさることながら、彼女を料理長として選んだ理由でもある。

 マトロタージュの契約を結んでいない船員や乗客と、相棒がいる船員との間に、なんとなく話しかけにくいような人間関係の距離ができることがある。

 中立の立場で、そのどちらとも話をしたり聞いたりできるのが、料理長ベラミィの調理以外の大切な役割である。


 大山脈にある人里から離れた古都ハユウで法術の研究に専念しているアゼルローゼとアデラは、特に男性とは関わらない日常生活をしてきた。

 ガモウとの握手で機嫌を損ねたアゼルローゼの嫉妬に、アデラがとても困惑してしまった。

 船室から追い出されたアデラがとぼとぼと厨房室にやって来た。


 ナーガは、船員とのトラブルはエルヴィス提督かクォーターマスターのガモウに相談するように神聖教団の幹部の二人に言い聞かせておいたけれど、今回の二人の痴話喧嘩の原因は、ガモウのパフォーマンスなのである。

 アデラがエルヴィス提督やガモウに相談や苦情を入れたら、アゼルローゼの嫉妬に火に油を注ぐようなものである。

 アゼルローゼがガモウの握手した手を火炎呪で大火傷おおやけどさせるだけでは気が収まらずに、エルヴィス提督まで危害を加えたら、ナーガもとばっちりで、もうご機嫌で航海していられなくなる。


 料理長ベラミィは、アゼルローゼが本気を出したら、エルヴィス号を撃墜できる術師とは気づいていない。

 ただ、大人で美人の落ち着いた雰囲気のアデラが、涙目でおろおろと動揺しているので、酒をおすすめしながら落ち着かせようとしている。


「アデラ、それを飲んだら、船室の扉の前で声をかけてみなよ。たぶん、追い出したけど自分からアゼルローゼがアデラがどこに行ったか探したりもできなくて、船室で待ってるんじゃないかな?」

「アデラさん、アゼルローゼちゃんがまだ怒ってるようなら、ここに戻ってきて下さい」


 ナーガと料理長ベラミィがアデラが落ち込んでいるので、二人でアドバイスをしてみている。


 ナーガが心配しているのは、アデラが船室に戻って来ないので、八つ当たりで、痴話喧嘩の原因のガモウを襲撃したりしないかという展開である。


 二人がヴァンピールの時には、こうした痴話喧嘩は起こらなかった。まず、ガモウが握手しようとしてくることはなかっただろう。

 魔族の威圧感は、並みの魔獣をたじろかせるほどである。アデラに握手を求めるのをガモウは躊躇ちゅうちょしたはずである。

 二人がヴァンピールだったら、エルヴィス号に乗船拒否されていた可能性もあるけれど……。


「エステルちゃん、アデラさんについて行ってあげないの?」

「うん。行かないよ」


 ナーガがついて行ったら、意地悪をしたアゼルローゼがアデラに「ごめんなさい」と言い出しにくいかもしれないと考えたからだ。


「ねぇ、エステルちゃん……相棒マトロを大好きすぎるのも、ちょっと大変だよね」

「他人から見たらそうかもしれないけど、本人たちは気づいてないんじゃないかな」


 ナーガと料理長ベラミィは、この夜、しばらくアデラが戻って来ないか気になって待っていた。


 厨房室にアデラが戻って来なかったのと、アゼルローゼが翌朝にはアデラと手をつないで食堂室にやって来て微笑していたので、ナーガはでかしたぞアデラ、と思ったのであった。


 

 

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