grimoire(グリモワール)編 6

第298話 

 大陸の東方のシャーアンの都には、人魚族の女性であるマーメイドの言い伝えが残されている。


 エルヴィス号は濃霧で視界が悪い海域を、減速して航海中。

 波の上を浮遊しているとはいえど前方に航海している他の船や、海から突き出している岩などがないとは限らない。


 船長室で果実酒を飲んで、ほろ酔いのナーガが、エルヴィスや同行している神聖教団の幹部二人にこう言った。


「マーメイドが絶滅したなんて、誰か確認したのか?」


 絶滅寸前の人型の種族はいくつか上げることができる。


 ドワーフ族。現在は最後の末裔である細工師ロエルという乙女しかいない。

 オーク族。猪頭が特徴。美しい湖と森の夢幻の領域で、人間のルーシという女性の伴侶として、人前からは隠れて暮らしている。


「たしかに、南の海へ向かう貿易ルートで、人魚族の姿を見かけなくなったかもしれない。だからといって、絶滅したと決めつけるのは安直すぎないか?」


 飛行帆船に使われている魔法技術を、シャーアンの都の人々に伝えたのは人魚族だったという言い伝えが、たしかに残っている。

 どれほど昔の話なのかは、エルヴィスにもよくわからない。

 エルヴィス自身は子供に語り聞かせるためのおとぎ話ではなく、実際に飛行帆船で航海をしていると確かな情報が隠されているような気がしている。

 帝都の商工ギルドで、ドワーフ族の細工師ロエルと弟子の青年セストにエルヴィスは会って、その不思議な錬成技術を見ている。

 シャーアンの都の人々に誰かが魔法の帆布に使われている魔法陣や、船の竜骨に使われている人の心や海路を記録する技術を、ドワーフ族のロエルが人間の青年セストに教えたように伝授したと思うようになっていた。


「もう一つ、素朴な疑問がある。飛行帆船を造り出したのに、なぜ遠い南の海への海路まで進出したのに、他の方角へもシャーアンの都の人々は進出して行かなかったのかということ」


 ひっく、と頬を赤らめているナーガが酒杯カップの残りの果実酒を飲み干した。


「平原地帯から戦乱の混乱期には大陸の西方へ、新天地を求めて難民を連れた英雄ゼルキスは旅をしている。

どうして、シャーアンの都の人々は、これだけ広い海と帆船があるのに、新天地を求めなかったのかな?」


 エルヴィスは航海に出たけれど遭難しないで帰還できた海路が、南の海への海路だったのではないかとナーガに答えた。


「単純に外海に出て北へ向かうとなぜか、シャーアンの都に近い内海に戻されてしまうのは、何かの仕掛けがあると思わない?」


 北へ向かうと絶対に遭難しないことで、南の海から北上していくと、シャーアンの都のそばに帰還できる海域がある。

 だからこそ、大陸南方への貿易が可能になっている。


「今、この濃霧の中で、真北に進路を取れば、きっとシャーアンの都のそばの海域に戻れると思うんだけど……ねぇ、エルヴィス提督はどう思う?」

「その考えには、私も同感だ」


 東南へ舵を切っている。真南の海路――大陸南方の砂浜が続く海岸線を目指す海路からわざとズレた結果、南の海でも、シャーアンの都が近い海域でもない海域へ、エルヴィス号はゆっくりと霧の中に浮かびながら進んでいる。


(もしも遭難したとすれば南の海で遭難したか、この海路に嵐などで方向を誤って進んでしまったということだろう)


 南の海で遭難したとすれば、大陸南方のクフサールの都の商人たちから、海岸に遭難した飛行帆船の残骸が打ち上げられたという話が伝わってきてもおかしくない。


 また黒猫の姿から黄金の鎧を身につけた美しい乙女の姿に変化したクフサールの都の統治者の大神官シン・リーなら、飛行帆船の残骸から、自分たちも飛行帆船ぐらい造り出していても不思議ではないとエルヴィスも思う。


(遭難して戻れなかった帆船は、南の海ではなくこの海域に入り込んでしまって、真北へと舵を切って進む前に、何かが起きたと考えるべきだろう)


 浮遊する帆船が甚大な損傷で航行不能になるか、沈没するような危険が、この濃霧の海域で起きるかもしれないと、エルヴィスが思いついている。

 それは、ほろ酔いで微笑している目の前のエステルとエルヴィスに名乗った美少女も同じはずなのに、怯えたりもせず、緊張感の欠片も感じられない。


 神聖教団の幹部のアゼルローゼやアデラは、酒を一滴も口にしていない。

 三人分の酒を目の前の美少女はがぶ飲みしている。


 ナーガはエルヴィス提督にナーガと本当の名前を教えずに、自分はターレン王国の貴族令嬢エステルだと少しすました作り笑いを浮かべて言った。


 ナーガといえば神聖教団の神話では、愛と豊穣の女神ラーナを捕らえようとしている半人半蛇の魔獣の王と伝えられている。

 シャーアンの都では神聖教団の女神ラーナ信仰が、回復ポーションと一緒に普及している。

 だから、ナーガは私はエステルだと自称した。

 神聖教団の幹部二人は、エリザではないので、呪術師シャンリーが処刑を逃れるために養女の貴族令嬢エステルの肉体を奪ったことを知らない。

 また、エルヴィス提督もターレン王国の内情に詳しくない。


 もしもエリザなら、令嬢エステルの姿のナーガを見て、虐げられた女性たちの怨念の化身のような呪術師シャンリーだと思い、悲鳴を上げて怯えるかもしれない。


 エルヴィスは、目の前にいるほろ酔いの自称エステルを、とにかくたんわっている美少女だと、怪訝けげんそうな顔で見つめていた。


 ナーガは海に放り出されて、大鯱おおしゃちが泳いでいて喰われたとしても、苦痛は一時的なもので、自分の世界に帰還するだけだと思っているので、死を想像して怖がったりしない。




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