第286話 

 パルタの都では、マジャールがまだ子供のころに憧れていた淡い初恋の相手である学院の講師ホカリエスのことを思い出している。


 法務官から執政官になり、もうすぐ三十歳になるマジャールは、二十年前の初恋を思い出す必要があった。


 執政官マジャールの花嫁候補オーディションで選ばれたどちらも二十歳の令嬢ハンナとアナは、本気でマジャールを一人の恋愛対象の男性として憧れている。


 その乙女たちの恋心をマジャールが信じられるかは、とても重要な恋の運命の岐路きろとなっている。


 神聖騎士団の団長である聖騎士ミレイユと女神ノクティスの化身である一本のつるぎは、一つの命として婚姻の契約によって結ばれている。


 人の夢の中に姿を現す時は、とても美しい少女であるノクティスは、気まぐれな女神である。


 生と死という意味では、女神ラーナは生を司るの女神、蛇神ナーガは死を司る神として考えられてきた。

 善悪は人が考え出した集団生活していく上で、都合の良いものを善、都合の悪いものを悪として、裁くための判断基準である。

 神々はその判断基準では、逸脱してしまうものである。


 人の集団がこれまで一つにまとまったことがない。

 ある集団では裁かれない許容範囲であっても、別の集団では善悪の基準で裁かれ、追放されたり断罪されて処刑されることがある。  


 恋愛は善か悪か?


 その答えを導き出すことはできない。

 恋愛は、集団行動のための善悪という判断基準という発明の中では人の行動の動機とされている。

 しかし、恋愛は個人としての心の機微きびであり、集団生活や集団行動のためのものとしてあるものではない。

 恋愛を集団生活の維持の判断基準に取り込むために、婚姻という契約を取り交わすことを、人はさらに作り出した。

 約束を守ることは善、破ることは悪と裁くことができる。


 人は礼儀作法や倫理など、本来は集団行動をしていない個人が他人と集団行動をしていくために、いろいろな約束事を決めて、それらの約束が守られているか、破られてしまったかで、善悪の判断をつけてきた。


 他人からの評価や価値観と判断基準をどうやって満たして、集団のなかで追放や処刑されずに生き残れるのか。

 孤独ということを人は集団行動や集団生活をするようになって、怖いものと感じるようになった。


 集団生活のなかで、執政官としての役割とは関係ない個人的な恋愛についてマジャールが考えているうちに悩み、集団のなかでの役割を、一時的に休むことに決めて別の個人になりきってみようとした。


 それに何の意味があるのか、集団のなかで認められている立場を離れることで感じる孤独は恐ろしくはないのか……と言う人もいるだろう。


 マジャールがどれほど悩みをこじらせていたか?


「僕が生きるための意味って、何か占えますか?」


 エリザは、執政官の官邸で暮らしているマジャールに招待されて占いをすることになった。


 聖戦シャングリ・ラのエピソードでは、執政官マジャールは、ランベール王、正確にはランベールに憑依したローマン王の亡霊から、暗殺されたモルガン男爵と、バーデルの都の女伯爵の地位を与えて王都トルネリカから離れてくれたシャンリーの忠実な手下の宮廷官僚と判断されていた。

 権力者に逆らわないようにして自分もおいしい思いがしたいと考えて行動する忠実な手下という意味なら、パルタの都の執政官ベルマー男爵のほうが、そのイメージに近い。

 モルガン男爵やベルマー男爵はシャンリーと一緒に、ローマン王毒殺を実行した。


 法務官マジャールは宮廷議会で権力を握っていたモルガン男爵に逆らえずに、ローマン王が吐血して崩御した現場が、後継者としてモルガン男爵と黒薔薇の貴婦人シャンリーが次の王として推している皇子ランベールを住まわせていた邸宅の平民階級のメイドの部屋の寝所であったことを公表するわけにもいかず、後宮で亡くなったことにせよと命じられた。


 またモルガン男爵から牢部屋で皇子ランベールとは恋仲であったメイドのアーニャは、命がけの取引を提案された。


「もしも皇子ランベールが父王を弑殺しいさつしたと噂になれば、ランベールが王になるのをはばみ、王位継承のめ事を嫌う貴族から、私が何も助けなければ、皇子ランベールは王位を継承されることもなく、ローマン王と同じように殺されるだろう……しかし、お前が罪を認めて処刑を受け入れたら、私は皇子ランベールを次の王として生き残れるように力を尽すと約束しようではないか、どうするかね?」


 生前のローマン王からは身分をわきまえよと言われ、アーニャはこんな提案をされた。


「ランベールのことを諦めれば寵妃の一人としてお前を後宮へ迎えてやってもよい……王ではなく皇子が平民階級の者と恋仲であると発覚すれば、ランベールは次の王とはなれぬ」


 そう言われ、王へのご奉仕を強要され、たとえ身は汚され、ランベールと引き離されても、この恋の火は一生変わらないと一人で涙を流し、皇子ランベールを愛しつづけた乙女アーニャである。


 アーニャは、モルガン男爵の取引を受け入れ王殺しを自供した。

 マジャールは、モルガン男爵とアーニャの命がけの取引について何も知らされていない。


 アーニャが自供した供述書がモルガン男爵から、法務官マジャールに手渡された。

 犯人の自供は、最も有力な証拠として扱われるのが常識である。


 マジャールは突然、王から「妻のレギーネと離婚後、法務官の地位をレギーネに譲ること。そしてベルマー男爵の後任として、パルタの都の執政官として任命する」と言い渡された。


 アーニャの処刑を裁判で決めたことでマジャールは、ローマン王の亡霊から、モルガン男爵やシャンリーの手下と疑われた。


 エリザは、そのことをマジャールに教えなかった。

 教えれば無実の人を処刑した法務官として、さらにマジャールが悩み続けるだろうと思ったからである。


「もし法務官のレギーネという人と復縁できる機会があれば、また一緒になりたいですか?」

「彼女は法務官になるのが夢でした。しかし、家柄の関係で僕が法務官の地位に就任することになってしまいました。復縁すれば、彼女は法務官の地位を失ってしまいます。彼女はそれを望まないでしょう」

「あの、私はマジャールさんの望みがかなうかどうかを占いたいんです。他の人の望みじゃなくて、マジャールさんの望みは何ですか?」


 エリザにそう言われて、マジャールはしばらく黙り込んで、どう自分の気持ちを話せばいいか考え込んでいた。


「僕は自分だけの望みを叶えたいと思うことは、悪いことだと思ってきました」


 マジャールは、ソファーに腰を下ろして、うつむいたまま重いものを吐き出すようにゆっくりと言葉を選んで、エリザとは目を合わせずにそう言った。


「生きていることの意味なんて、貴方には何もないと誰かから言われたら、そうだとマジャールさんは納得できるんですか?」

「努力しても、うまくいかないことが多いと、もう考えたり努力なんてしないで、誰か他の人に合わせて惰性だせいで生きるほうがらくで、あまり苦しくないと思うんですよ」

「マジャールさん、もう一度、人生をやり直せるとしたら、いろいろうまくいくと思いますか?」

「どうでしょう……いろいろなことがありましたが、またやり直したいかと言われると、微妙なところです」


 エリザは、そんなマジャールの返事を聞きなから、占い木札をシャッフルしている。


「つらかったり、嫌だったことだけじゃなくて、生きてきて良かったと思えるぐらい、すごくうれしかったこともあったんじゃないですか?」

「うれしかったことですか。う~ん、あったとは思うんですが、パッとこれっていうことは今、思いつかないですね」


 つらい時や失敗した時、こうだったらいいのに、こうすればよかったと、楽しそうな他人をうらやましいと思ったり、悔やんだりする。

 きっとうまくいくと思ってやったことでも、思ったようにならないことのほうが多い。


「それが当たり前だから、もう期待しないし、がんばらないなら、たしかにつらくないし、悲しくなることも減りますよね。でも、完璧じゃないけど、うまくいってうれしいってことも減っちゃいますよ。すごくうれしかったことがあると、それはずっと忘れられなくなります」


 エリザはマジャールが人前では隠しているけれど、何か悩みをこじらせているのが話してみてわかった。

 エリザのうれしかったことは、転生前、仕事や恋愛、むしろ、人づきあいは、かなりうまくいってなかった気がするけれど、聖戦シャングリ・ラというゲームを、少しずつ攻略できたこと。

 それがうれしくて、転生前にがっつりはまっていたから、ゲームの内容を今も忘れていない。

 転生前の名前まで、すっかり忘れているのに。

 たぶん、自分にとってうれしくてたまらなかったことじゃなかったから、すっかり忘れてしまったんだと、エリザは思っている。


 こんなにうれしいことがあるなら、何回でも人生をやり直してもかまわないと思えることは、みんな、それぞれちがう。


 マジャールは、エリザに占ってもらってから、自分の過去にうれしかったことはなかったか思い出そうとしてみている。


 それはマジャールにとって、パルタの都にいながら、過去の自分に会いに行くような旅をしているような気持ちになる。

 嫌だったことや悲しかった過去の自分を思い出すこともあるけれど、旅人ローレンとして、もう大丈夫だよと声をかけているのを想像してみるのだった。


 その心の旅の話を、マジャールに惚れている二人の令嬢はマジャールが子供の時から、目の前にいる「僕は旅人ローレンだよ」とむきになって言い張る人になっていくまでの物語を聞いている気持ちになり、自分たちの思い出もマジャールに話して聞かせた。


 令嬢ハンナは、料理をしたことがなかったマジャールに三人で自炊して一緒に食べることが、毎日うれしいことを教えてくれることになる。


 令嬢アナは、歌うことだけでなく、いろいろな音があふれていて音色やテンポ、たとえば令嬢二人の寝息も、とても気持ちが安らぎ心地よい眠りにマジャールを誘ってくれることを教えてくれることになる。


 そんなある日、マジャールはどちらか一人を選らばなければならないのがとてもつらいと、ハンナとアナに思いつめた顔で、正直に話した。


「そんなに二人とも大切で、ずっと一緒にいたいなら、もうこれからも三人で仲良く暮らせばいいんじゃない?」


 夢の中でも悩んでいるマジャールを、夢幻の領域にある豪華な邸宅へ招いた少女の姿のノクティスは、彼にあっさり言い切って、微笑を浮かべるのだった。


 ハンナとアナも、マジャールと三人でずっと一緒に暮らす生活をしたいと望んでいるのを、女神ノクティスは夢の中で二人から聞き出していたからである。




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