第272話
旅人のローレン。
神聖騎士団の滞在中は、今までの自分と別人になったつもりで、少し生活してみたくなった。
旅人らしい話ができるように、エリザから聞いた他の伯爵領の村人たちの話を、マジャールは頭の中で何回も繰り返して暗記した。
子供のころから、法務官の地位から外されるまでは、王都トルネリカで生活していた。
執政官マジャールと旅人ローレンは親友で、マジャールが法務官だった時期に知り合ったという作り話まで考えて準備した。
王都トルネリカにも滞在したことがある旅人のふりはできると、マジャールは考えた。
旅人のふりをすることを、学者モンテサンドや他の女店主イザベラや商人マルセロには一切相談しなかった。
パルタの都で、王都トルネリカの宮廷議会に上申できるのは、この執政官マジャールのみで、重要人物なのだが……。
学者モンテサンドがどれだけ生活に必要な知識があり、女店主イザベラと二人で協力して、都の住民たちに慕われていても、マジャールのように宮廷議会へ書状を上申することは許されない。
騎士ガルドや女騎士ソフィアがどれだけ度胸や武勇があれど、遠征軍を指揮する任務を放棄した罪人である立場であり、マジャールのように自分の意見を上申することは許されていない。
商人マルセロが、パルタの都に備蓄されている食糧の量と正確に確認して把握していても、マジャールのように執政官の権限がないので、商人マルセロが隠匿された余剰分の食糧を配布すれば、罪人とされてしまう。
マジャールだけにしかできない役割がある。
エリザを他国からの密入国者として宮廷議会へ密告することで、窮地に追い込むこともできる。
マジャールはそんな立場にある人物だが、その性格から他人の意見を尊重して受け入れられることも統治者には必要な人徳である。
だから、マジャールが旅人ローレンになりきって一時的に普段と異なる行動をしていても、騎士ガルドの仲間たちや住民たちは非難したりせずに、彼の行動を見守っている。
旅人のローレンになりきって、居住区の空き家で、マジャール本人は身分を隠して生活しているつもりである。
住民たちは、マジャールはちょっと変わっているが、自分たちの生活の様子を自分の目で確認しようとしている誠実な統治者の執政官様だと思っている。
さらに、執政官マジャールの妻の座を望む女性たちは、身分の高い貴族で近づき難い存在だった人と交際するチャンスだと、興奮して胸を高鳴らせていた。
とはいえ、それぞれが一斉にマジャールの心を射止めるために押しかけても、マジャールが困惑するだけなので、それぞれ利害の一致から、誰がマジャールを誘惑する権利を得るか、選抜するための方法をこそこそとマジャールに気づかれないように話し合った。
玉の輿を狙う女性たちは、マジャールに知られないように、女店主イザベラや学者モンテサンドにはこの選抜の件を隠した。
もちろん、エリザや参謀官マルティナをこの陰謀に加えようとする人はいない。
執政官の妻の座に少し興味があっても、身分の高い貴族階級の人なりに苦労しそうと考える女性たちや、前任者の執政官ベルマー男爵のように、マジャールが何人も愛人を作るようになるのではと警戒する女性たちと、潜伏中の平民階級であってもお気に入りの恋のお相手の青年たちに夢中の女性たちは、この陰謀の騒ぎから身を引いた。
こんな騒ぎの真っ最中に、神聖騎士団の聖騎士ミレイユが、それぞれが魅力的な戦乙女たちを連れてパルタの都を訪れたのだった。
聖騎士ミレイユの帯刀は、魔剣ノクティス――女神ノクティスが自分の夢幻の世界から、愛するミレイユを護るために、かりそめの分身として降臨した時の姿が、この魔剣である。
障気以上に、この魔剣ノクティスの影響力は抜群である。
ただ破壊力が桁違いの名刀というわけではない。
王都トルネリカの後宮には、アリアンヌ、シュゼット、ミリアというランベール王の三人の寵妃がいる。
踊り子アルバータは王の寵妃の一人という認識で、宮廷議会の貴族官僚たちは考えられていた。
法務官レギーネは、王の寵愛を受けて
聖騎士ミレイユが、旧モルガン男爵邸――幽霊屋敷の噂が囁かれる邸宅に滞在をしていた期間に、魔剣ノクティスを所持していたことによって、王都トルネリカで何が起きていたのか?
魔族ヴァンピールが同族のヴァンピールから吸血したとしたら、ただの人間から吸血した以上に老化の防止の抜群の効果が得られるというだけでなく、甘美な快感も与え合うことができる。
それに気づいていたのは、ゴーディエ男爵に惚れきっていて、他の人間から吸血しないと、法務官レギーネに断言する踊り子アルバータだけだった。
踊り子アルバータにとって、吸血は、ゴーディエ男爵と吸血し合うことは快感を分かち合う愛情表現の行為に等しい歓喜の特別な行為に他ならなかった。
他の後宮にいる四人のヴァンピールの女性たちは、吸血は人間からするものと思い込んでいた。
ヴァンパイアロードになったランベール王以外から吸血されることも、想像していなかった。
しかし、ランベール王の肉体が心の抜け殻の状態の眠りに
それまでの、ランベール王がいる後宮の生活にはなかったさびしさが、まるで心に穴が空いたように寵妃たちにはできてしまった。
法務官レギーネは、王に贔屓されて実力が無いくせに……と非難中傷する噂の囁きに苛立ちもあったので、寵妃たちほど強くさみしさに心が
踊り子アルバータはランベール王ではなく、王の右腕の側近のゴーディエ男爵に惚れきっている。ランベール王の不在に動揺することはなかった。
魔剣ノクティスの影響力――人の夢の中では美少女の姿をみせるノクティスは、同性の美人のミレイユに惚れきってしまっている女神で、人が心を許したり、恋愛対象を選ぶときの心の感性に強い影響力がある。
ランベール王の寵妃の三人は、心を慰め合う相手として、別の男性や贄の少年たちを選ばない。
アリアンヌは、投獄されて亡くなったバーデルの都のバルテット伯爵が再婚した若妻。
シュゼットは、バルテット伯爵の後継者である子爵オーギャストとの結婚式の場で、ランベール王に連れ去られた花嫁。
ミリアは、バルテット伯爵の前妻の産んだ子の美少女。アリアンヌとシュゼットと一緒に、王によって後宮へと拉致された。
この三人は、ヴァンパイアロードになったランベール王に吸血され寵妃になった。
ヴァンパイアロードのランベール王に心を奪われている。
この三人の寵妃たちの心は、女神ノクティスの影響を受けた。
ヴァンパイアロードが吸血して三人に与えた甘美な快感を偲びながら、この三人は、宮廷官僚たちが立入りを禁じられた秘密の後宮で、それぞれの首筋や乳房にヴァンピールの牙を立て吸血し合うことで心と体を慰めていた。
法務官レギーネが、宮廷官僚たちに見下されないようにむきになっていた気持ちから、ランベール王が帰還したら寵妃の一人として法務官の地位を放棄したいと望むようになっていった。
踊り子アルバータは、離ればなれになっているゴーディエ男爵を見つけ出すための旅に出た。
しかし、法務官レギーネの疲れた心を癒したのは、三人の寵妃たちとの吸血し合う戯れだった。
王が寵妃たちやレギーネと戯れ合った寝室で、生まれたままの一糸まとわぬ姿をさらして、抱擁しながらキスを交わす。
愛撫のあとで興奮すると、吸血のためにヴァンピールの牙となる変化が起きる。
鋭い牙を柔肌へ突き立て合い、甘美な快感を分かち合う。
王都トルネリカの貴婦人や令嬢たちの中にも、保身や権力争いに夢中な男性官僚たちとの関係に愛情を抱けない人たちがいた。
地位を保つための道具ぐらいにしか本当は思っていないくせに、と一人の時間に冷静になると、恋する気分でいられなくなった女性たちは、心を許し合える親しい友人に、女神ノクティスの影響からそれとはちがう愛情やときめきを感じるようになってしまった。
そんな心や行動の変化をもたらした魔剣ノクティスを所持した聖騎士ミレイユが、パルタの都に訪れようとしている。
旅人ローレンになりきった執政官マジャールの妻の座を争奪し合う雰囲気ができた理由には、伴侶と離ればなれになってしまうことの心のさびしさがある。
玉の輿を狙う女性たちは、執政官マジャールの伴侶になれば、一緒にパルタの都で暮らせて、さびしくはないと考えている。
執政官マジャールは、エリザたちと同じ旅人になってしまえば、お気に入りのエリザにもっと気軽に会えるのを期待しているだけである。
中流階級の身分と地位の小貴族の女性たちが、ターレン王国の制度の中で望んでいないさびしさを強いられてきたことを、旅人ローレンになりきった執政官マジャールが、酒場で親しくなった女性二人の恋人たちから聞かされて考えさせられることになるのは、神聖騎士団がパルタの都へ訪れたあとのことである。
今はまだマジャールは、自分は旅人ローレンであることを周囲の人にアピールするのに必死になっている。
玉の輿を狙う女性たちは、執政官様の伴侶にふさわしい美人は誰かを五人にしぼって選抜しようと話し合いと投票を密かに行っているのだった。
もし抜けがけしようとする人がいたら、絶対に許さない。そんな思いの連帯感がある。
それは、パルタの都の歴史では今までありえなかった女性たちの強い連帯感なのだった。
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