第202話
「シンリーさん、私は、ひたすら逃げ続けた人が最後まで、生き残ってしまったのではないかと思いました」
エリザの答えを聞いて、レチェがそうだよねと言うように「にゃうっ!」と鳴いて、とてとてとエリザの前に来て見上げた。
エリザは指先でレチェの喉元をそっと撫でた。
「どうして、エリザ様はそう思ったのですかな?」
リヒター伯爵はエリザは「生き残った」ではなく「生き残ってしまった」と言ったのが、なぜか気になった。
快適な状況やほどほどの状況ではない不快な状況で、ひたすら生き残ることだけを最優先にした人だけが生き残った。
けれど、他人との関係性を避け続けた結果、最後には一人ぼっちになってしまったのではなかったか?
安全で快適を求め続けた結果の果てにある孤独。それが、エリザの答えだった。
「エリザの言う通り、少人数で他人に干渉たりされないことを選んだ者たちが、衣食住の不安がない状況で、それぞれが孤立していて平和だが子孫を残すことなく、もう繁栄することはなかった」
シン・リーは、それぞれが孤立している状況になるまでに、途中経過で、他人に過干渉になっている者や、激しく他人を攻撃して排斥する者があらわれ、他人に強い不安を与えている状況が先に起きるものだと説明した。
「エリザ、どんな人も死というものは誰でも孤独なもの。しかし、死や孤独を怖れないようになることは、怖れを抱く他人にはない強さとなることも、不安を軽くすることもある」
シン・リーは、アルテリスと預言者ヘレーネをチラッと見てからエリザにそう語った。
「命あるものは、必ず死を受け入れる日がある。それは、占ってみても変わらぬ条理というもの。
その間にどのように生きるか、自分自身で選択できることを占いは考えさせることができる。
受け入れなければならぬことは受け入れて、そこから何を選択するかを考える時に、人はとまどい悩むこともある」
信仰がなければ、死や孤独を怖れるあまりに、ただ快適で安全だと安心しきっている状況ではしない行動をしてしまう。
そして最後には、死とは異なる他人から逃げ続けた果ての孤独しか、心の平穏が得られなくなる状況を作り出してしまう。
「大陸の南方の守護者という役目がなかったら、わらわは孤独の怖さに耐えられなかったと思う」
エリザにシン・リーは、胸の中にある思いを語った。
それを聞いていた預言者ヘレーネは、シン・リー自身が生き残るために、前世の自分が残したものを受け継いでくれたことを実感して、涙ぐみそうになった。
レチェがエリザの前からうつむいたヘレーネの前に歩き出し、シン・リーは、エリザの膝の上に戻った。
エリザは膝の上で身を丸めたシン・リーの背中をそっと撫でた。
「にゃう!」
ヘレーネも話しかけるように鳴くレチェを膝の上に乗せて、そっと撫でていた。
「あー、もう、二人ともめそめそするな!」
アルテリスは預言者ヘレーネとエリザにそう言った。
エリザはシン・リーを撫でているうちに緊張がほどけて、ほっとしてしまい、ちょっと涙ぐんでいる。
(エリザに占い師なんて、性悪女は無茶ぶりじゃないのか。ちゃんとできるのかな?)
アルテリスは腕を組んで考え込んでしまった。
リヒター伯爵領の状況は、他の伯爵領や直轄領よりも、村人たちが安心して暮らしやすい状況となっている。
その分だけ、リヒター伯爵領の村人たちには他人と比べたり張り合うような気持ちがあまりない。
恋愛をして、相手から自分だけを愛して欲しいと嫉妬したり、他人と張り合ってでも手放したくないと執着したりする感情が芽生えることだってある。
リヒター伯爵領の村人たちは、他の地域の村人たちよりも、嫉妬や執着していることを他人に知られたくないと、恥ずかしがって隠す傾向があった。
言葉や行動で伝えずに、好きな相手にはそれとなく察してわかって欲しいと期待したり、がっかりしたり。
その結果として、恋愛を敬遠してしまったり、おつき合いをしても同棲したり婚姻するまで積極的になれないまま別れてしまう人たちが増えつつあった。
嫉妬して相手を責め立てたり、
リヒター伯爵領では男性と女性の役割に、あまり大差がない。
しかし、相手の気持ちをつかんでおくために、自分のしたいことをちょっぴり我慢をしたり、自分の生活の習慣やパターンを変えたりすることが、どこか効率が悪いと思ったり、自分の自由が妨害されているとさえ感じてしまい恋が長続きしない人たちがいる。
自分が他人から特別な存在ではなく、普通でありたいという思いが強い。
だから、特別な誰かに憧れるという思いもない。
尊敬や感謝の気持ちはあるし、協力しあうこともそれなりにしているけれど、他人から干渉されたりするのは苦手で、また迷惑をかけたくないという思いが強い。
それは村人たちから、野生馬までそういう気分があるところが、リヒター伯爵領なのだった。
何かうまくいかないのは自己責任の問題だと考えがちで、また周囲の他人もそう考えているところがある。
また、他人から頼られたり任されていると感じると、無理をしていても気づかずに、気持ちが疲れきってしまう人も多い。
責任感が強いともいえなくもないけれど、自分の心をうまく休ませたり、いたわるのが苦手で、他人に頼ったりするのも気まずい感じがして苦手な人が多い。
リヒター伯爵領で問題になっていることは、黒旋風が引き連れている野生馬の群れと少し似ている問題を抱えている。
もう子供ではなく大人として認められる年頃になると、恋愛するのが普通という前の世代の考えから、誰か恋愛できないと普通じゃないと思い込み、特別にすごい好きというわけではない相手と交際して安心する。
しかし、恋愛と婚姻まで普通に順調と安心すると、次は子供を育てる親になるのが普通という常識の雰囲気がある。
普通でありたいというだけで、強い愛情があるわけでもなく、恋愛で伴侶とつながっているわけでもない。
なりゆきまかせで、婚姻して出産したあと、母親になった女性がより快適に子供を育てるために別れて、新しい伴侶を探していたりしている。
また、異性の同棲相手よりも、同性の同居人と暮らすほうが気楽だと、同性で集まって暮らしている村もでき始めていた。
同性の恋人と気楽に同棲して暮らしている女性たちも、リヒター伯爵領にはいる。
エルフェン帝国の貴族令嬢たちが、同性の恋人と交際しているのに近いかもしれない。
ベルツ伯爵領やテスティーノ伯爵領と似て、親の暮らしている村の子供は、みんな大人が親のような気分で育てる。
これは、昔の獣人族たちの隠れ里と似ている。
だから、子供の責任は親の責任だという考え方があまりない。
婚姻したら別れるのは恥ずかしいことだという常識が、少し前のリヒター伯爵領とエルフェン帝国の村人たちにはある。
しかし、婚姻した相手と別れても、大人の村人たちが全員で村の子供たちの親なのだから大丈夫という気分は、リヒター伯爵領にはなかった。
子供を育てるのは、産んだ親の自己責任という雰囲気がある。
別れて子供を連れた若い母親たちが村に集まって協力しあっているのは、黒旋風の引き連れている野生馬の子馬を連れた母馬が多い群れと似ていた。
ジャクリーヌ婦人のブラウエル伯爵領では、街暮らしの若い女性たちがルームシェアしている。
異性の恋人ができて、そちらと同棲する人や、そのまま二人にとってシェアしている家が愛の巣になる場合もある。
シナエルは、ブラウエル伯爵領出身なので、こうした恋愛の事情に理解がある。
リヒター伯爵領でも、別れたシングルマザーたちの同性愛があるが、これはこっそり行われている状況である。
預言者ヘレーネが大神官だった火の神殿に集まって、戦に明け暮れていた男性たちから離れ、修行して暮らしていた女性たちは、レズビアンだった。
たしかに、リヒター伯爵領のこうした複雑な事情や恋愛のかたちを、なんとなく理解して恋愛占いできるのは、エリザぐらいかもしれない。
預言者ヘレーネは、リヒター伯爵の一人息子のリーフェンシュタールと婚姻している。
またシナエルも、テスティーノ伯爵の息子の快男児カルヴィーノと婚姻している。
離婚したシングルマザーたちが協力しあって暮らすシェアハウスの村に、既婚者で伴侶と仲良しなヘレーネやシナエルが、占い師として訪れたとしたらどうなるか?
彼女たちの秘密の恋愛にリヒター伯爵領の常識的な忠告などをされるかもしれないと誤解から警戒されて、あまり歓迎されない可能性がある。
預言者ヘレーネやシナエルは、レズビアンの人たちには、とても理解があるのだけれど。
恋愛どころか人みしりなところがあるエリザよりも、ヘレーネやシナエル、そしてアルテリスのほうが他人の相談事に寄り添うのが得意で、占い師の適性がある。
とはいえ、エリザは帝都で、老若男女、大人から子供まで、全ての人たちから絶大な人気がある不思議な魅力がある人物である。
神聖教団が聖女様だと宣伝しているだけでは、まるで満天の星に寄り添う夜空の月のように、帝国宰相として信頼され活躍できるわけではない。
獣人娘アルテリスは、かなりおとなしい性格のエリザに、ちゃんと占い師ができるのか、とても心配している。
だが、相談者の心をつかむという意味では、エリザには占い師以上に、教祖や指導者のような人を魅了する適性があるとヘレーネは感じている。
遠い過去の戦の時代には、恋愛や婚姻をしたけれど、恋人や伴侶と戦で生き別れになって、独り身やシングルマザーになってしまった人たちがいた。
しかし、リヒター伯爵領では、なぜ、離婚して独り身になってしまったり、シングルマザーになろうと決意する人たちが、じわじわと増えつつあるのだろうか?
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