第93話
領域の複雑化。
この奇妙な現象をエルフェン帝国の住民のうち、生活に忙しい人たちは考える余裕はなかった。
長い寿命を持て余し気味な聖獣シン・リーは、これは人の心が引き起こしていることなのだと考えているとエリザに話した。
他人と心を通じ合いたい気持ちと、他人に自分の心をさらけ出すのが怖いという気持ちがある。
だから、適度に距離を置く。
村人たちにとって、帝都は近くて遠く感じるところ。
大樹海については、噂で聞いたぐらいで、想像したこともない場所なのだろうと。
「つまり、耕作地と人が集まっている村が簡単に歩いて行けることや、村の中はややこしくなっていないのはそれが想像の範囲内だからですか?」
「そう考えるとわかりやすいという話じゃよ」
エリザは瞬間移動の魔法陣について、転生前の世界ではゲームの中や「どこでもドア」という秘密道具ぐらいしか実現されていないと思っていて「聖戦シャングリ・ラ」にあるのが不思議だった。
「それはの、この世界が神々の力の均衡が崩れると、たやすく滅びると想像できる者たちがいて、同じような気持ちの者たちと、不安を分かち合いたいと考えているからだろうよ」
神聖教団の神官や僧侶は、蛇神ナーガと女神ラーナの創世の神話を信じていて、それを土台にして物事を考える者ほど、瞬間移動の魔法陣を使いこなす。
またマキシミリアン公爵夫妻のように、世界の滅亡の危機を村人たちや神聖教団の関係者よりも実感している人たちは、瞬間移動の魔法陣を使いこなせている。
「シン・リーさんが、クフサールの都から帝都に瞬間移動で来ることができるのも?」
「そうじゃ、アルテリスがターレン王国からテスティーノ伯爵と瞬間移動の魔法陣で訪れることができたのも、そういうことだと思っておる」
幌馬車の旅で、耕作地の村が見当たらない日もある。そうした日には、エリザはシン・リーと、この世界の不思議な秘密について話し合っている。
(何も疑わずに想像できたら、都合よくいろいろ実現できるってことでしょうか?)
大砂漠のオアシス暮らしの聖獣シン・リーは、飲み水を確保する法術を使いこなしていた。
農作業は手伝わないで寝ているが、エリザの旅に貢献している。
幌馬車には3つの大樽が積み込まれていて、中にはきれいな水が補充されている。
空気中や大地から湿気の原因の水分を大樽に集めているらしい。
「水の法術がなければ、大砂漠では人も干からびてしまうからの」
火の神殿アモスの神官たちは、井戸の水がかれてしまわないように、水の法術を使いこなしていたという。
「あの、シン・リーさん、お水を操って……っていう感じにできたりしませんか?」
「ふむふむ、なるほど。やってみたことはなかったが、やればできるかもしれん」
ウォータージェットは、392MP(メガパスカル)。
つまり4000気圧という非常に高い水圧を使用する。
これは水道水の約2000倍の水圧に相当する。加圧水は音速の約3倍、ものすごいスピードで水が飛び出す。
噴出する水が、物にぶつかって発生する衝突力は、硬い岩でも切断する。200MPa(メガパスカル)を越えると、人体でもたやすく貫通する。
(帝都の敷石は、このウォータージェットの法術で加工されて作られたのかもしれません。でも、今では、水の法術は飲み水の確保が優先と考えて、水を刃物にするウォータージェットとしての使い方をすっかり忘れてしまったということですね。神聖教団の人が、どうやって加工したのか調べるのに敷石を貴重といってありがたがって回収していたのは、加工の方法が知りたかったということでしょうね、きっと)
水に溶けてしまうものは切断には適していない。しかし、硬い岩や木も、聖獣シン・リーが気合いを入れて念じてから「ニャッ!」と鳴くと、小さな針で刺したような水が貫通した穴ができる。
「連続で当て続ければきれいに切断できそうじゃが……水を大樽に貯めるよりも、ちと時間がかかる感じだの。ところでエリザ、これは何の役に立つのかの?」
(たしかに、加工に使うには、まだ実用性は包丁やナイフのほうが使いやすいかもですね)
途中で馬車を停車して、エリザとシン・リーが草原の草刈りをしてみたりして遊び出したのを見ていたアルテリスは、何かを思いついたらしくニッと笑うと、幌馬車から大樽を一つ、野外へ運び出してきた。
大樽の上に黒猫の姿のシン・リーを乗せて、あたしの頭の少し上から、雨粒みたいに、樽の中の水を降らせられないかとアルテリスは言った。
「んー、なかなかいいかも!」
草原で青空の下で大胆に全裸になったアルテリスは、自分の髪や肌を撫でたりしてシャワーのように水を浴びていた。
「ちょっと、こら、猫、水の勢いが強くて、ちょっと痛いよっ!」
「フーッ!」
「おい、痛いってばっ。エリザだったら、水が当たったところが真っ赤になっちゃうだろっ!」
シン・リーは水の法術で水浴びを提案したアルテリスに、ちょっと怒ってパチパチと音がするほど激しく水滴を降らせていたが、エリザの水浴びを想像したシン・リーは、思わず水を降らすのを止めて、エリザの方に振り向いた。
「私は、濡らした布で、あとで自分で拭きますからっ!」
「えーっ、これ気持ちいいのに。夜に、こそこそちまちま布で汗をぬぐうよりサッパリするよ。エリザも裸になれなれ!」
もしも人が通りかかったらどうするのかと、アルテリスにエリザが顔を真っ赤にして恥ずかしいですと言った。すると、アルテリスは爆笑してこう答えた。
「はははっ、そりゃあ、美人二人の裸を拝ませてあげたんだから、見た人には、食糧をたんまり、水と交換で分けてもらうことにすればいいさ!」
美人でも全裸姿の押し売りは、ちょっと見てみたい人はいるかもしれないが、あまり感心しないとエリザは思った。
シン・リーが大樽の上から、アルテリスに飛びついて、思いっきり引っ掻こうとした。
水で離れて攻撃するより、爪で引っ掻いたり咬みついたほうが、やってやった感がある。
だが、全裸のアルテリスは華麗にひょいっと回避した。
「おいおい、あのさ、二人ともそんなに怒るなって。そうだ、あたしが見張りして誰か人が近づいて来たら教えてやるから、水浴びしてサッパリしたらいいよ!」
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