第12話 大人になるということは年齢だけではない

 四月、海は大きな一歩を踏み出した。

 通信制ではあるが、高校を卒業することにしたのだ。


 先だっての企画の成功が社長の目にとまり、一度会ってみたいと面談の場が設けられた。結果、海は顔も上げられない程緊張する時間を過ごしたのだが。

 人のよさそうなおじいちゃん、といった風情の社長は、急かすことなく海の話を聞いてくれた。

「どうすれば、人は生活を楽しめるかな」

 社長に言われて、海は顔を上げた。

「生活を、楽しむ」

「そう。君がどんな答えを持っているか、聞いてみたいんだよ」

 かつて、海の毎日は楽しいものではなかった。

 世間の人と同じように生きられない後ろめたさ、両親への申し訳なさ、どうして自分は皆の様に頑張れないのかという不甲斐なさ。

 それを変えてくれたもの。

 例えば、自宅の小さな水槽で、与えられた環境の中、思い思いに生きる魚達。挨拶が精一杯だった自分を、特別視することなく接してくれた早朝バイトの仲間達。少しずつ、出来ることを増やしてくれた今の職場。無愛想な自分を笑い飛ばしてくれたペットコーナーの人達。

 それから、自分は自分のままでいていいと言い続けてくれる、大智の存在。

「結局、それはモノではないと思います」

「それは、どういう意味かな」

「たった一人、たった一人でも、そのままの自分を受け入れて、変わらなくいいって言ってくれる人が居るだけで、毎日が明るくなると思うんです」

 人から愛されることは自信に繋がる。大智だけではない。両親が決して自分を放り出さないでいてくれたことも、海の自信に繋がっている。そして、それ以上に自分が誰かを好きだと思えることが、世界を明るく変えることを海は知っていた。

「誰かを能動的に好きだと思う力って、凄いと思うんです。少しぐらい嫌なことがあっても、頑張れる。それは、家族でもいいし、ペットでもいいし、その……芸能人とかでもいいのかもしれない」

「恋人というのもあるね」

 あえて言わなかった言葉を返されて、海は苦笑した。それらしい言葉を並べながら、確かに大智のことを考えていた。全て見透かされているのだろうか。

「大切に思ってくれている人を大切に思えること、ここでやっと、モノが必要になってくると思います。その人を喜ばせたい、その人と共に暮らしたい。誰かのためにモノを選ぶのは、自分のため以上に楽しいんじゃないかって思って」

「だから、あのフェアになったんだね」

 社長は納得したと言いたげに頷いた。

「自分の大切なペットのための商品選びでもあったし、あの部屋を訪ねてくる人のための商品選びでもあった。それから、あの展示中の動物を知らせるボード、あれはアレルギーのあるお客様への配慮だったそうだね」

「それは來山さんが……」

「なるほど。彼のやりそうなことだ。來山くんとの仕事は、勉強になっただろう」

「はい。細やかな気配りと、豊富な知識を確かなものにする経験と。真似をしたくても、簡単にはできそうにありません」

 結局何のために社長と話をしたのか、海には分からないままだったが、後日エリアマネージャーに呼び出され、社員登用の話があると聞かされた時、それが面接だったと気が付いた。

「ただ、一つ問題がある」

 海もそれについては覚悟をしていた。新入社員のエントリー条件に、高卒以上と書かれているのを見たことがあった。

「もちろん、中途採用者は新卒と同じ扱いではないけれど、これから先、働いてもらう中で、君が理不尽な責めを受けることがあるかもしれない」

 高校ぐらい出ていて当たり前の世の中で、自分が負ったハンデの大きさを改めて実感する。

 だったら、今の自分にできる精一杯をすればいい。アルバイトとして働き続けながら、自分の道を探していけばいい。

「これは、社長からの提案なのだけど……」

 大丈夫です、と言いかけて、海は口を閉じた。


 海は中途採用の契約社員となった。

 条件は通信制でも定時制でもいいから高校を卒業すること。そして、無事卒業した暁には、正社員として迎え入れられることになっていた。

 まず両親が一番に喜んでくれた。誕生日でもないのに、ケーキを買って来て「海の新しい人生に」と祝ってくれた。

 山根も喜んでいた。自分は高校を卒業している先輩だから、何でも聞いてくれ、と言ってきた。

 大智は知らせを受けた日の夜に、海に会いに来た。自宅から少し離れた場所に停めた車の中でキスをして、手渡されたのは鍵だった。

「学校のこととか、仕事もそう、忙しくなるでしょ。もしかしたら、会える時間も減るかもしれない。だから、俺が留守にしていても、勝手に上がっていいから。今日、海くん来たんだなって思えるだけで、俺、元気になれるから」

「3年は長いですよ」

「それって、少なくとも3年は俺と付き合う気がある、ってことでいいよね?」

「大智さんポジティブ過ぎてウケる」

 大智の部屋には、海もよく行っていた。友達ではない仲になってから、なんとなく外で会うことがもどかしく感じるようになったからだ。

 手を繋ぐのも、寄り添うのも、人目を気にしなくてはならない。それなら大智の部屋で2人きりで居る方が、海にとっても落ち着ける。もっとも、大智は海をあちこち連れて回りたいようなのだが。


「海くん、もうすぐ誕生日でしょ」

 入学式を終え、大量の書類と格闘する海に微笑みかけながら、大智は海を背後から抱えるように座った。

 毎日が慌ただしくて忘れていたが、月末、海の誕生日がやってくる。

「海くんも二十歳になるんだね」

 成人年齢は18歳に引き下げられたが、十代が二十代に変わる節目はやはり大きいものだと感じる。

「誕生日は、ご両親と?」

「たぶん、そうかな。予定、空けましょうか?」

「ううん。俺はその後でいいよ。まず、ご両親を一番にして」

「俺は大智さんが一番なんだけど」

「ありがと。その気持ちだけで十分」

 肩口から手元を覗き込む大智の方を向くと、吸い取るように唇を啄まれた。

 正直な所、これが本当に恋愛感情なのか海にはよく分からないでいた。でも大智に触れられることは嫌ではない。

 キス以上の関係を求めてこないのは、大智の心遣いなのだろう。海にはありがたかったが、このままではいけないとも思っている。大智にばかり我慢をさせて負担を強いるのはフェアじゃない。

「大智さん。今度一緒に休める日、俺、泊まりに来てもいいですか?」

 恥ずかしくて大智の顔を見ることができなかったが、驚いた様子なのは感じられた。

「うん、いいよ。その時に2人でお祝いしよっか」

 大智の声は優しくて震えていた。



「お酒、飲んでみた?」

 メニューを開いて笑う大智は、いつもと変わらない様子だった。

「父とビールを飲みました。でも、苦いだけだった」

「はは。アレを美味いと思えるには、まだ海くんは若すぎるかな」

 2人とも仕事が終わってから合流したので、特別なことをするつもりはなかった。

 大智が「ここはちょっと特別な日に使うんだ」と言って案内してくれた店は、お互いの顔が見える程度に照明が落としてあり、奥の壁にはプロジェクターで古い映画が映し出されている。

「せっかく二十歳の誕生日だし、もっと張り切りたかったんだけど」

「あんまり緊張する店は好きじゃないです」

 ホールには周囲の客の声が溢れていた。それでも大智の声だけは特別に響いて、海の耳に届く。いつもなら周囲の話し声が気になるのに、心地よいBGMのようだった。

「落ち着かない?」

「いえ……逆です。こんなに人が居るのに、人目が全然気にならないって言うか、むしろ居心地がよくて」

「ここはいろんな人が居るからなぁ」

 改めて周囲を見回すと、男女のカップルだけではなく同性のカップルもいる。一人の者も居れば、4、5人のグループも居る。国籍も多様なのか、英語ではない、聞き慣れない言語も聞こえた。

 雑多に集う人の中で、自分や大智もこのうちの一例でしかない。

「個室の店でも良かったんだけど、コソコソするんじゃ、いつもと変わらないって思ってね。たまには俺達付き合ってます! って世界に言いたくなるじゃん」

 店員にオーダーをしてから、大智はメニューをテーブルの端に置いた。

「まぁ、この店じゃ、俺達付き合ってます! って言っても、みんな、ふぅんで終わっちゃうけど」

「わざわざ宣言しなくても、人目を気にしないでいいだけで充分です」

 店の片隅にあるテーブル席で、海は壁を背に座っていた。店内を見回す形になるが、他の客と目が合いそうになると壁の映画に視線を逸らせばいい。

 何もかも大智の方が上手だ。最初から分かっているはずなのに、大智がこれまで他にも恋愛をしてきていることを改めて感じて、胸が痛くなる。

「乾杯しよ」

 大智の声に顔を上げた。

「グラスの方がおしゃれなんだけど、コイツは瓶のままの方がいいからさ」

 目の前に置かれた、青いラベルの透明な瓶は、飲み口にレモンが刺さっている。

「ジーマだよ。アルコール度数低いし、飲みやすいから。レモンは絞って入れる人も居るけど、俺はこっちの方が好き」

 大智はレモンを外して一口飲むと、レモンを瓶の口から指で押し入れた。海も見よう見まねでレモンを落とすと、涼やかな音と共に炭酸の気泡が上がる。

「海くん、誕生日おめでとう」

 持ち上げた瓶をぶつけ合って、口の中に液体を流し込んだ。モヤモヤした気持ちを晴らす様に、レモンの香りが鼻腔を抜けた。

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