第11話 世界が輝いて見える理由

 ペットコーナー撤退の日はあっという間に来てしまった。

 大智は忙しく駆け回っているようで、ほとんどその姿を見ることはなかったが、会えてもいつも通りに見えた。ただ、挨拶程度で以前の様に話しかけてくることはない。

 少しずつ減っていく動物達を見ながら、海は大智のことばかり考えていた。

 過去に自分が負った心の傷は消えてはいない。思い出すだけでも吐き気がする。それなのに、大智の言葉を自分の心が拒絶していないことに戸惑っていた。拒絶どころか、喜ばしく感じていた。

 フトアゴヒゲトカゲの水槽が空になっているのを見た時、山根が慌てた様子で海の手を引いて事務所に押し込んだ。

「え、何?」

「ちょ、海くん! お客さんの前でマズいって!」

「え? 何が?」

 山根はトリミング用に畳んで置いてあったタオルを手にして海の顔に押し付けた。

「そんなにあのトカゲが欲しかったの?」

 顔から離したタオルはしっとりと濡れていた。

「まぁ、本当に欲しいのはトカゲじゃないんだろうけど」

 ふらふらと椅子に腰かけ、タオルで再び顔を覆う。

「ね、山根さん」

「何?」

「なんで俺、泣いてんの?」

「は?」

「なんか、胸がチクチクする」

「……そんな、初めて心を持ったロボットみたいなこと言わないでよ」

「山根さん時々面白い事言う」

 隣に山根が座る気配がする。

「來山さんに告られた?」

 海は顔を上げたが言葉が出てこない。

「來山さんさ、海くんがこの店に入ってすぐの頃から、ずっと海くんのこと見てたから、分かり易かったよ」

「でも、俺、男だよ」

「來山さんは、男の人を好きになる人だから」

 山根がいつになく抑えた声量で話している。周囲に聞こえないための配慮が、余計に話の信ぴょう性を裏付けていた。

「海くんは? 好きな人いる?」

 海は首を振った。好きな人どころか、これまで誰かを恋愛対象として見たこともない。そもそも、人を避けて生きてきたぐらいなのだ。

「私ね、前に來山さんに告白したことがある」

「えっ……」

「断られたけどね。でもあの人、言わなくてもいいのに、自分は好きになるのが男の人だから、って。私のせいじゃないって言うの。別に來山さんが男の人を好きなのも、悪い事じゃないのにね」

「山根さんも凄い……」

 ぐずぐずとタオルで顔を拭いながら、海は言った。

「フラれても、仕事はちゃんとしてる……」

「まぁ、ビジネスとプライベートの切り替えはちゃんとできるし。それにね、來山さんて、ちゃんと見ていてくれるって言うか、私の仕事をちゃんと評価してくれているって言うか」

 見守ること、評価すること、來山の人柄は海にも痛いほど分かっている。

「いい人だと思うよ、來山さん。私はおススメするけどな」

「山根さん、ありがと。山根さんもいい人だよ」

「当然」



 ペットコーナーの慰労会は、思いの外大人数だった。若干女性が多いのは、店を離れる來山との別れを惜しんでいたからなのかもしれない。

 山根に背中を押されはしたが、この人気ぶりを目の当たりにすると、自分は來山にとって唯一絶対の存在ではないように思える。二次会に流れようとする皆の輪から抜けて「明日早いので」と帰ることにした。

「海くん、ちょっと……」

 一人先に店を出て、歩き始めようとした時、背後から声をかけられた。

「大智さん……」

 慌てて追いかけてきたのだろう。上着も羽織らずに大智が追いかけてきた。

「海くん、この前は、その……ごめん」

「え?」

「俺の気持ちを押し付けたなぁって。海くんのこと、ちゃんと思い遣れていなかった。本当に、ごめん。だから、もう忘れてよ」

 腰を折って深々と頭を下げる大智に、海はオロオロするばかりだった。

「もう連絡とかしないから。だから、安心して」

 もう連絡をしない?

「でも、海くんと過ごした時間は俺の宝物なんだ。すごく楽しかった。だから、海くんはもっと自分に自信を持って。君は今のままで居ていいんだよ」

 もう、大智とは会えないと言うのか。

「本当に、ありがとう。……さよなら」

 踵を返して店に戻ろうとする大智の背中に、海は慌てて抱きついた。

「嫌だ」

「……海くん?」

「もう、会えないなんて、嫌だ」

 大智はゆっくりと振り向いて、遠慮がちに海の身体を両腕に収めた。

「俺、俺、大智さんとずっと一緒に居たい」

「でも俺は、海くんのこと、そういう目で見てるんだよ」

「そういう目で見てください」

「どうしたの、海くん」

「だって、大智さんに会えなくなると思ったら、胸が痛くて、勝手に涙が出てきて、苦しくなるんですよ。何なんですか、コレ」

「初めて心を持ったロボットみたいなこと言わないで」

「それ山根さんにも言われました」

 大智の背後から大智を呼ぶ声が聞こえる。名残惜しそうに、大智は海の身体を離した。

「本当は海くんと居たい」

「ダメです。みんなが呼んでます」

「今すぐキスしたい」

「は?」

 冗談だよ、と笑いながら、大智は海の頬を指の背で撫で、後で連絡するよ、と言って店に戻っていった。


 海のメッセージアプリには、両親と大智の他にもう一つアイコンが増えていた。

 あまりにも真っ黒でよく分からないから「タヌキ?」と聞いたら、見た事もないような怖い顔で「ポ、メ、ラ、ニ、ア、ン!」と叱られた。

 大智はもちろんだが、山根と会えなくなることも不安に思っていた海は、山根の方から連絡先を交換しようと言ってくれたことに安堵した。

『ちょっと!!』

 海が家に着くと同時に、そのタヌキが叫んでいた。いや、厳密にいえばタヌキのアイコンだし、タヌキではないのだが。

『ちょっと、海くん! どうなってるのよ!』

 山根は皆と一緒に二次会に行ったはずだが。

『來山さんがずっとデレデレなんだけど!』

 海が帰ってから、來山がずっと一次会の居酒屋に背骨を忘れてきたのでは、と思う程フニャフニャしているのだという。

 明言は避けているものの、片想いの相手から良い返事をもらったという内容のことを口走っていて、女性陣が一斉に引き揚げていったらしい。

『こんな來山さん見たことないし、鬱陶しい!』

 散々文句を叫び続けたタヌキは最後に

『でも、よかった。おめでとう、海くん』

 と、やはり海の背中を押してくれていた。



 次に大智に会えたのは、それから一か月後だった。

 閉店後の残務処理などで時折顔を出すことはあったが、ゆっくり話す時間は取れなかった。毎日の様にメッセージは届くが、それが深夜だと海は眠ってしまっていたし、忙しいであろう大智を気遣って返信が翌日の昼になることもあった。

 何より、甘い言葉が並ぶ文面に、どう返せばいいか、海には見当もつかなかったのだ。

 駅での待ち合わせに、両親はもうついて来なかった。大智の名前を聞くと「それなら大丈夫だね」と笑顔で送り出してくれるようになっていたのだ。

 いつかは両親に話す日が来るのだろうか。その時、両親はどんな顔をするのだろう。

「海くん」

 こちらに向かって手を振る人に駆け寄った。

 今はまだだ。人を好きになることがどんなことなのか、海自身が分かるまでは、まだ。


「あれ? コイツ前にも居ましたっけ?」

「居たよ。スベスベマンジュウガニ、インパクトある名前だと思うけど……。もしかして、あっちのチンアナゴも覚えてない?」

「全然……」

「そっか……緊張させちゃたね。ゴメン」

「いや、大智さんのせいじゃないんで」

 初めて一緒に出掛けた時と同じ水族館で、海は見るもの全てに驚いていた。珍しい魚が居たのではない。前にも見たはずなのに、全く記憶にないのだ。

 それだけではない。水の中が明るく輝いて見える。まるで自分がこれまでとは別の世界に来たかのようだ。これが、人を好きになるということなのだろうか。

 大型水槽を見上げていると、背中がじわりと温かくなった。

「デートなんだから、本当は手ぐらい繋ぎたいんだけど、やっぱり、人目とか気になるから、ね」

 大智が少し残念そうに微笑む。想いが通じ合ってもなお、海が理不尽な思いをしないようにと気遣っているのだ。

 世界は不自由だ、と思う。

 自分にとっても、大智にとっても、何か一つ生き難さを持っている者にとって、この世界はあまりにも不自由だ。

「ね、大智さん」

 呼べば自分に笑顔が向けられることを、海はもう十分理解していた。

「いいですよ」

 何が? と言いたげに大智は首を傾げた。

「いいですよ、キス、しても」

 自分は何を言っているのだ。キスなどしたこともない。それをこんな公衆の面前で。

 でも、いいと思った。大智となら。

 大智が首を振って周囲を見回す。平日の水族館。周囲に人は居ない。

 海の首の後ろに回した大智の手が顎に添えられ、大智の方を向かされる。海は堪え切れずに目を閉じた。

 それは、一瞬だった。柔らかく、温かいものが唇に触れた。

 何かが横を通った気がして薄っすら目を開けたら、ウミガメが悠々と横を泳いでいた。

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