第10話 フクロモモンガが袋から出る時

 新生活応援フェアと題されたフェアの期間は1ヶ月。店内のあちこちで新生活に向けての提案がされていた。海の企画にはそのうちの2週間が与えられていた。

 企画はおおむね好評で、ペットコーナーも山根、野田の他に本店から応援が加わって忙しそうにしていた。

 シングルベッドに敷かれた布団はウォッシャブル、シーツも抗菌防汚加工がしてある。室内フレグランスはペットにも安全なもので、床に敷いたパネルマットもペットの足に負担をかけないものになっている。

 六畳ほどのスペースに家具も配置したので、客もケージを置くスペースをイメージしやすくなる。これなら大丈夫だと新たにペットを迎え入れる客だけでなく、家具を買い替える客の参考にもなっているようだった。

 大智は初日に顔を出してくれていた。忙しい中、無理に時間を作ったのだろう。慌ただしく海に「おめでとう」と声をかけて、いつもの温かい手を背中に添えてくれた。それから、コーナーの小型水槽を覗き込んでコリドラスを見つけると、零れるような笑顔を見せた。

「海くん、上々じゃない?」

 そして、海くんなら大丈夫だよ、と言うとすぐに店を出て行った。


 フェア終了を翌日に控えた閉店間際、片付けをする山根が笑顔を見せた。

「生体もかなり減ったし、ウチとしては海くん様々だよ」

 大智の言うように、本社に戻すより新しい家族に迎えられる方がいい。だが、自分が撤退準備に手を貸しているようで、海の胸中は晴れなかった。

「あの、すみません」

 仕事帰りであろう女性が声をかけてきた。

「このフクロモモンガ、見せてもらえませんか」

 はい、と近寄った山根がしまった、という顔をする。

「ちょっとこの子は……出てこないかも……」

 ガラス戸を開けてケージの中を見て、山根は声のトーンを落とした。

「フクロモモンガ、お好きなんですか?」

 海は無意識に声をかけていた。自分から見知らぬ人に声をかけるなど、これまでしたことはなかったのに。

「飼っていたんです。でも、半年前に……。もう、ケージとか処分しなきゃって思いながら、でも捨てられなくて。やっぱり、家族に迎えたいなって、何度かここに見に来ていたんです」

 残念そうな女性の横顔に、海は自然と身体が動いた。ちょっと待ってください、と声をかけて、海は山根の横にしゃがみ込んだ。

「山根さん、ちょっとケージ開けてもらってもいい?」

「え……いいけど」

 山根がケージの扉を開けると、海は身を乗り出した。

「モモちゃん、モモちゃん」

 大智の真似をして入り口を叩く。

「モモちゃん、俺だよ、海だよ」

 横で山根が呆れた顔をして見ていた。構わず海は声をかける。

「モモちゃん、ちょっと出てきて」

 再び入り口をトントンと叩く。だが、動かない袋を見て、やはり大智でないとだめなのか、と海は項垂れた。

「あ……」

 山根が声を上げる。海が顔を上げると、袋がモゾモゾと動き、あの大きな瞳がこちらを捉えた。

「モモちゃん、モモちゃん、おいで」

 驚かせないように、優しい声音で、海は再び入り口をトントンと叩いた。すると、袋の縁に捕まって身体を乗り出し、モモンガは勢いよく飛び出して海の胸元に張り付いた。

「うわ……さすが海くん……やっぱりフクロモモンガ……」

「意味分かんない事言わないでください」

 モモンガを女性の両手に乗せてやると、ガラス細工を扱うかのように優しく両手で包む。

「モカちゃんにそっくり……」

「え?」

「この子、連れて帰ります」

 慌ただしく山根が餌や物品を揃える間、海はレジ締めを待ってもらうよう伝えに行った。

 自分が直接何かを売ることができたのは初めてだった。いや、売ったと言うにはあまりに力不足だったが、それでも海の心には大きな自信となった。



 フェアが終わって2日後、居酒屋に担当者が集まってささやかな打ち上げが開かれた。海は気乗りしなかったが、途中から大智も参加すると聞いたのと、山根も来ると言ったので顔を出すことにした。

 未成年だから酒は飲めないが、酒に飲まれた大人達を見ているのは悪くない。いつも厳しい顔の人も大人しい人も、仲が悪いと思っていた人も、皆楽しそうに笑っている。

 もしかしたら竜宮城はこんな場所なのかもしれない。この人達はもしかすると鯛や平目なのかもしれない。気づくと、海も笑っていた。

 いつまで経っても大智は現れない。だが、いつも大智の陰に隠れて、頼ってばかりではいけない。少しでも大智に近づけるように、同じ目線で話ができるように成長したい。

「この度は皆さんありがとうございました」

 企画立案者の一人として挨拶しろと言われ、立ち上がった海は深々と頭を下げ、精一杯の声で気持ちを伝えた。全員が拍手でそれに応えてくれた。

「來山さん来なかったね」

 お開きになる前、山根がため息とともに言った。

「海くん、悪く思わないでね。本当はここに来れる訳ない位忙しいんだけど、どうしても来たいってずっと言ってて」

「大丈夫です、分かってるんで。話なら、いつでもできるし」

「いや、まぁ、そうなんだけど」

 いつになく山根は歯切れが悪い。

「何て言うか、こう、2人を見てるとモヤモヤするんだよね」

「俺と大智さん?」

「そう。まぁ、厳密に言えば來山さんなんだけど」

 その意図を知りたかったが、山根はもう帰ると言うので、海は真意を知ることができなかった。

 二次会に誘われたが、山根の居ない場所ではやはり不安だった。両親が心配するから、と理由を取り繕って帰ることにすると、皆が惜しみながら見送ってくれた。


『ごめん、まだ帰ってないなら、今からちょっとだけ会えない?』


 大智からのメッセージが来たのは駅に向かいかけた時だった。海はすぐに『今どこですか』と返信した。



「ごめんね。せっかく今日、海くんの晴れの席だったのに」

「気にしないでください。それに、俺の祝いじゃないし」

 大智が指定したのはショットバーだった。店名を何度も確かめて、恐る恐る重いドアを開けると、カウンターに座る大智が駆け寄って手を引いてくれた。

 背の高いスツールによじ登って、周囲をキョロキョロと眺めていると、目の前にオレンジ色の液体が入ったグラスが置かれた。

「大丈夫、お酒じゃないよ。じゃ、乾杯しようか」

 自分のグラスと大智のグラスをコツンとぶつけてから一口含むと、オレンジジュースだけではない何かの風味がする。ノンアルコールカクテルです、と目の前でバーテンが言った。

「フェア成功、おめでとう」

 大智は笑顔を作っているが、疲れは隠せない程になっていた。

「気を遣わせちゃって、すみません。大智さん、疲れてるのに」

「俺は海くんに癒されてるからいいんだよ」

「でも、撤退の話は止められなかったし……」

 結局大智の店は来月中に撤退することになっていた。フェアの反響は大きかったが、定着する程ではないと判断されたようだ。海は自分の無力さを感じていた。

「まぁ、ウチの会社の方針でもあるし。結果はどうあれ、俺は海くんの気持ちが嬉しかった。……モモちゃん、いい飼い主さんの所に行ったんだってね」

 大智の横顔は嬉しそうでもあり、寂しそうでもある。商売なのだから、ショップの小さなケージの中に居るよりも、早く新しい家に迎え入れられる方がいい。そんなことは大智も当然分かっている。だから個々の動物にあまり思い入れてはいけないのだが、どの子も皆可愛い我が子、というスタンスの大智には、ドライに接するなど無理だ。だからこそ、あの店の生き物は全て穏やかな顔をしているのだが。

「フトアゴヒゲトカゲは売れませんでしたね」

「あぁ、あの子はいいんだよ。爬虫類に強いヤツが居る店に任せることになったから」

「山根さんや野田さんは?」

「山根ちゃんはトリミング中心の店に移ってもらう。もっと勉強してサロン開きたいって言ってたから。野田さんはペットにこだわってる訳じゃないから、ホームセンターの方でパートに入ってもらうことになったよ。ウチより時給いいしね」

「じゃあ、本当に後は片付けだけですね」

 何とか店を続けられないかと駆け回りながら、同時に店を閉める準備も進めていく。きっと大智のことだから、一人で背負って厳しい言葉も一人で受け止めてきたのだろう。

 自分では力不足だと分かってはいるのだが、大智の力になりたかった。

「それで、大智さんは閉店してからどうするんですか」

「俺は当分本社かな。次の店が決まるまでは、しばらく何でも屋だよ」

「そう……ですか」

 背中がじわりと温かくなる。大智の手がいつの間にか添えられていた。

「大丈夫。また休み合わせて遊びに行こう」

「それもそう、なんですけど……」

 意外なほど寂しいと思っている自分に、海自身が驚いた。毎日の様に会っていた人に会えない寂しさ。自分と他の人を繋いでくれていた人が居なくなる不安。いつも背中を押してくれた人を失う心細さ。どれも海にとって初めての感情だった。

「ねぇ、海くん」

 大智が目配せをすると、目の前でグラスを拭いていたバーテンがカウンターの反対側に移った。

「俺さ、海くんが好きなんだ」

 驚いて顔を上げると、大智は俯いたままだった。

「ごめんね。海くんが昔嫌な思いをしたことは知っているんだけど……だから、言わないでおこうって決めてたはずなんだけど……その、一目惚れだったんだ。水槽を見上げる横顔が、嬉しそうで、優しい目をしていて。どうしても仲良くなりたくて」

 グラスを持つ大智の指先が震えている。

「ごめん。こんな下心あったなんて、思わなかったよね。もうしばらくは、また顔を合わせることもあるだろうけど、すぐに居なくなるから。少しだけ、我慢してよ。絶対に海くんに触れないから。嫌なことはしないから」

 背中にあった温かな手はいつの間にか離れていた。

 独りぼっちになった背中を、海は寒いと感じた。

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