第7話 世界が広いなんて教えてもらわないと分からない
お互いを下の名前で呼ぶようになると、不思議と2人の距離も縮んだようだった。出かける先も水族館や熱帯魚店だけでなく、食事に行き、買い物に出かけることも増えた。大智の行きつけの美容院で髪を切り、大智の見立てで服を買うと、周囲からの視線も変わっていったように思えた。長かった前髪を切ったことで、世界が明るく見えるようだった。
髪型と服装を変えただけなのに、以前よりも人の顔を見て話をすることができるようになってきた。相変わらず言葉に詰まったり聞き返されたりすることは多いが、心配したほど厳しい扱いを受けることはなかった。
「だから俺言ったじゃん。海くん、本当は人と繋がりたいと思ってるって」
「でも、人の目を見るのはまだ怖いです」
「相手の目を見て話そうとしてる? そんなこと、みんなしてないって。ビジネスマナーでよく言うのは、ネクタイの結び目辺りを見ると、よそ見してると思われないらしいよ」
呆気にとられる海に、大智は不安そうな視線を返す。
「俺、何か変な事言ったかな?」
「いや……大智さんからビジネスマナーなんて言葉が出てくるなんて思わなくて……」
「ちょっと! 俺、これでも社会人の先輩!」
笑いながら大智は店舗に戻っていった。
ちょうど夏休みのシーズンが終わり、人手が不足してきたこともあり、海は勤務時間を増やしていた。
休憩時間は相変わらずペットコーナーの事務所で過ごしていたが、山根の他にも大智や山根が休みの日に応援に入るパートの野田とも話せるようになっていた。
「ウチの子も、海くんみたいに可愛ければいいのに」
休憩を終えた大智と入れ替わりに、野田が入ってきた。
「高校生でしたっけ、娘さん」
「そう、2年生。勉強もしないで毎日遊び歩いてるのよ。将来どうする気なのかしら」
「高校で自分の将来決まってる人なんて半分も居ませんよ。それに……」
俯いた視線の先に、プリンがことりと置かれた。
「おばちゃんから差し入れ。みんなに一つずつあるから、遠慮なく食べて」
ありがとうございます、と会釈をして、ビニールの蓋を開ける。スプーンですくって口に運ぶと、香ばしいカラメルの香りと甘ったるいバニラの匂い。
「毎日ちゃんと通ってるだけ偉い、って言うんでしょ?」
野田は向かい側の椅子に座ると、海と同じようにプリンを口に運んだ。
「まぁ、ご両親の気持ちを考えると、頑張って卒業してくれた方がいいとは思うけど……辞めてもちゃんと自分が進む道を考えて、前に進んでるじゃない。海くんって立派だと思うわよ」
「そう、ですかね」
プリンを平らげた野田が、スプーンで容器の底をこそげる音がする。
「何があっても、どんな選択をしようとも、生きてさえいればその後の人生でいくらでもリカバリーできるのよ。生きてることが大事なの。ほら、海くんだって人生変わったなぁって思うでしょ?」
父に連れられてホームセンターに行っていた頃は、自らの不自由さを魚に投影して、少し優越感すら覚えていた。
大智と出会ってからは、それが大智と自分を繋ぐツールとなり、大智が外の世界と自分を繋いでくれた。
「どんな遠回りしても、自分の足でちゃんと前に進んでる海くんは立派よ。うちの子が遊びまわってるのは、現実逃避。みんなで遊べば自分だけじゃないって気分になるでしょ。赤信号、みんなで渡ればなんとやら、ってことよ」
「いや、遊びに行かないのは、俺が人付き合いできないだけですよ」
「そうかしら」
空容器を手に野田は立ち上がった。
「あんまり理想は高く持たない方がいいと思うわよ。普通に暮らしてる人だって、みんな大したことないんだから」
空容器を洗い、ごみ箱に捨てると、お先に、と会釈して野田は出て行った。
「魚は見ても楽しいけど食べても楽しい」
と大智に誘われたのは、肌寒い風が吹く頃だった。
モスグリーンのマウンテンパーカーに黒のスキニーパンツで現れた大智は、黒いSUVの助手席側ドアを開け、海を招いた。
「これ、大智さんの車?」
「って言えたらカッコいいんだけど。レンタカーだよ」
運転席に座ると、海を見て目を細めた。
「やっぱそれ似合う」
大智に勧められるまま買ったネイビーのオーバーサイズのニットベストは白いシャツと合わせた。ボトムはベージュのチノパン。これも大きめをロールアップして穿いている。
「大智さんが選んだんだから、そりゃ大智さん好みでしょ」
「まぁね」
混み合う市街地を抜け、高速道路に上がると、程なくして海が見えてきた。海なんていつぶりだろう。
「海に行くの、久しぶり?」
「小学生の頃に海水浴に行った……きりかな」
「じゃあ、夏になったら泳ぎに行く?」
「子供扱いしないでください。……まぁ、いいですけど」
しばらく走った先のICで高速道路を下りると、海に向かう道を走る。大智に断ってから窓を開けると、潮の香りが車内を満たす。
「で、何食べに行くんですか」
「何でもあるけど……とりあえず海鮮丼食っとけば間違いなくない?」
「正解」
やがて古い定食屋の駐車場に車は滑り込んだ。かなり年季の入った木造の平屋建てだが、駐車場が異様に広い。
「ここ、よく来るんですか?」
「最近は忙しくてご無沙汰だけどね。見た目はアレだけど、味は保証するよ」
まだ昼には少し早い時間だが、既に10人ほど並んで列を作っている。
「ここね、朝は市場の人のために開けてて、昼だけ一般の人も入れるんだよ」
「へぇ……それは楽しみです!」
嬉しそうに店の入り口を見る海を、大智も笑顔で見つめている。
「何なんですか、大智さん」
「いやぁ、海くん、ずいぶん変わったなぁって。初めて会った頃は目を合わせるどころか、いきなり逃げられたからさぁ」
「そうでしたっけ?」
今でも正直、大智以外と話す時は緊張する。それが単に慣れだけではないことも分かっている。
大智が細やかに心配りをしてくれるから、安心して話せる。大智が周囲と繋げてくれたから、海は怖くなかった。
「……なんで、ここまでしてくれるんですか」
「なんでって……そりゃ、俺、海くんのこと好きだもん」
「またそれですか。あんまり好きを安売りしないでください」
「だって好きだもぉん」
抱きつく大智を押しのける。周囲にはきっと仲の良い兄弟に見えるかもしれない。……兄弟だろうか。自分と大智はそんな関係とも少し違う気がする。
じゃあ、自分達は一体?
「ほら、海くん。順番回ってきたよ」
大智に促され、海も慌てて暖簾をくぐった。
「どうしてあんな店に行くと、無性にラーメンとかカツカレー食べたくなるんでしょうね」
「ちなみに冬限定メニューでホワイトシチューもあるんだよ」
「もう絶対美味い……」
「じゃあ、寒くなったらまた来よう」
再び車に乗り、沿岸を走る。役目を終えた灯台が観光地として公開されているので見に行こうと大智に誘われたのだ。
平日だからか、駐車場に他の車は居ない。入館料も不要なため、常駐スタッフは居ないようだった。
ぐるぐると螺旋階段を上がり、最上階に到着する。事故防止のためバルコニーには出られないが、目の前に真っ青な海が広がっていた。
「初めて海くんの名前を聞いた時、ここの景色を思い出した。いつも隠してるけど、海くんの目、本当はこの海みたいに綺麗だなって」
背中に手が添えられる。いつもの温かな大智の手。
「海くんは大丈夫。あの海みたいな広い場所で、自分が思うように泳いでいいんだ。どんな君でも、君は君だよ」
ふらりと身体が傾いて、気付くと大智に抱き寄せられていた。いつかと同じ、甘いコロンの香り。
「ごめん、これは俺のための時間。少しだけ、許して」
大智の心の中にも、何か錘の様な物が入っている。それを分かってやれない自分が、海はもどかしかった。
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