第6話 水の中で生きていかなくてはならないなんて誰が決めた
せっかくの水族館なのに、
外出などここ数年ほとんどしておらず、前に水族館に来たのもいつだったか思い出せない程だ。だからこそ、今日を楽しみにしていたはずだったのに。
「ちょっと座ろうか」
メインの大型水槽がゆっくり鑑賞できるように、いくつかベンチが設けられていた。平日の昼間ということもあって、座っている人は居ない。
「海くん、底もの好きだよね」
「えっ?」
「いつもウチのコリドラス見てるから。違う?」
「いや……好き、です、けど」
來山は一体何を話そうとしているのか。相手の考えることが分からない不安に、言葉が続けられない。
「じゃあ、あそこのネムリブカとか好き?」
來山が指差す水槽の一角に、おおよそサメらしくない緊張感に欠けた顔が幾つも重なっている。
「嫌いじゃないけど……どっちかと言うと、アイツの方が好き……かな」
海が見上げた方向では、ウミガメがこちらに腹を向けてヒレをジタバタと動かしながら泳いでいる。
「へぇ、魚じゃないんだ。意外」
來山はそう答えると、何も話さずウミガメをじっと見つめていた。
どうして何も言わないのだろう。怒らせてしまったのだろうか。当然だ。自分には何の面白みも無い。今日誘ったことも後悔しているのだろう。やはり、自分には人付き合いなんて無理だ。詫びを言って今すぐ帰ろう。
「あ、あの……」
來山の方を向くと、來山も同時にこちらに顔を向けた。
「ね、どうして好きか聞いてもいい?」
「は?」
突然のことで、海はとっさに目を逸らすことができなかった。優しく來山の目が細められる。
「好き?」
誰が、誰を?
「海くん、どうして好きなんだろうな、って、知りたくなっちゃって」
俺が、誰を? 來山さん? いや、それこそ何でだよ。人として尊敬はしているけど。
「え、俺、別にそんなつもりじゃ……」
うろたえる海の様子を不思議そうに見つめてから、來山は堪え切れないように吹き出した。
「ちょ、海くん、カメだよ、ウミガメ。何と勘違いしたの?」
水面近くまで上がったウミガメが潜ってきて、ゆっくりと目の前を横切っていく。
「……カメ」
「そう、ウミガメ。あれはあれで癒されるけど、海くんはアイツに何を思うのかなって」
みるみる顔が赤くなっていく。鏡など無いが、見なくとも分かる。背中を冷たい汗が流れる。自分が何を勘違いしたのか、來山はきっと分かっている。顔は笑っているが、きっと内心呆れているに違いない。
「ごめん、困らせちゃったかな」
來山に申し訳なさそうな表情をされ、海は余計に焦ってしまった。ぐずぐずしている自分が悪いのに、來山に気遣わせてしまった。
「りゅっ……竜宮城……」
慌てた海が口走った言葉に、來山は目を丸くした。
「竜宮城?」
來山が繰り返して言ったのを聞き、今度は海の顔が青ざめていく。慌てて余計なことを口走ってしまった。
「海くんは、浦島太郎だったのか……」
やってしまった。散々來山に嫌な思いをさせた挙句、意味の分からないことを口走るなどと。情けなくて、対人スキル皆無の自分が悔しくて、目の前の景色が歪んでいく。
「海くん?」
來山の顔もぼやけてはっきり見えない。堪えられずに俯くと、腿に置いた手の甲に雫が落ちた。
「海くん、海くん……ごめん、そんなつもりじゃなくて……あぁ、もう、なんで俺、こんなデリカシー無いんだよ」
來山の左手は自分の背に添えられている。右手は整った前髪をグシャグシャにかき回している。
「その……海くんをバカにしてるとか、子供っぽいって思ってるとかじゃなくて……まぁ、ちょっと、可愛いなって思ったけど……あぁ、だから俺、一言多いんだって……」
來山の声がだんだんと弱くなっていく。情けない物言いに、海は徐々に落ち着きを取り戻してきた。
「海くんて、人との繋がりとか、明るい場所とか、賑やかなシチュエーションが嫌いなのかなって思ってたけど、案外そうでもないんだ、って思ってさぁ」
「え?」
「だって、竜宮城って、鯛や平目の舞い踊りでしょ? 宴会でしょ? パリピじゃん」
「……でも、人じゃない」
「……そっか……」
がっくりと項垂れる來山の姿に、海の頬は緩んだ。どこまで本気なのか分からないが、自分を励まそうとしてくれている気持ちは伝わってきた。
「俺こそ、ごめんなさい。なんだか、ガキっぽい自分が嫌になっちゃって」
「海くん……あぁ、よかった。笑ってくれた」
來山に笑顔を向けてから、海は再び水槽に目を向けた。
「浦島太郎はこっちに戻ってきちゃいましたけど、俺だったらずっと竜宮城に居るのに、って思うんです」
「どうして?」
「人間の煩わしさとか、そんなの気にせず楽しんでいられそうだなって。まぁ、逃げてるんですけど」
來山は「そっか」と答えて、海と同じように水槽を見上げた。
「……どうしてそんな風に思うのか、理由、聞いてもいい?」
來山は水槽を見上げたまま言葉を続けた。
「俺にはね、海くんが本当は人と繋がることを好む人に見えるんだ。だけど、今の海くんは人と繋がること、もっと言うと、人そのものを怖がっているように見える。きっと、そこには俺なんかじゃ予想もできない、苦しいことがあったんだと思う」
來山があえて自分を見ないでいてくれている、と海は感じた。
「嫌なら話さなくていいよ。でも、話すと気持ちが楽になることもあるじゃん。荷物を半分こ、みたいなね」
「どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「そりゃ、俺、海くんのこと好きだもん」
「なんですか、それ」
「ずっと友達でいてよ。海くんと一緒に居ると、俺、気持ちが安らぐんだ」
ゆったりと泳ぐウミガメを目で追いながら、海は水の中に居るような気分だった。暖かくて、柔らかくて、雑音が耳に入ってこない。聞こえるのは來山の声だけだった。
「……俺、小さい頃、可愛い、女の子みたいって言われてて」
來山になら話してもいいと思った。
「そのせいで、誘拐されそうになったり、男に襲われそうになったり」
來山は茶化すことなく「うん」とだけ返してくる。海はこれまでのことをポツリポツリと話して聞かせた。
「みんながみんな、悪いヤツじゃないって頭では分かってるんですけど、でも、人が何考えているかなんて分かんないから、だから、俺、そのうち誰のことも信じられなくなっちゃって」
他人が自分をどう感じているかよりも、自分が他人に対してどんな感情を抱いているのか。それは恐怖なのか嫌悪なのか、忌避なのか。來山に話すうちに、まずは自分自身の心と向き合わなければならないのではないかと感じ始めていた。
「海くんはさ、もうあの頃の海くんじゃないんでしょ」
來山は変わらず、水槽に目を向けたままだ。
「学生の頃ってさ、学校っていう小さな水槽の中で、似たような年齢のヤツばっか集めて、その中で上手く呼吸できないヤツって弾かれちゃう。でもさ、世の中ってそんな年齢別の枠組みって基本的に無いじゃん。だから、学校って水槽では上手く呼吸できなくても、外に出れば新しい水の中で本来の自分で居られるヤツもいると思うんだ」
背中がじわりと温かくなる。來山の手は海の背中に添えられたままだ。
「あの水槽にも、いろんなヤツがいるじゃん。上層、中層、低層。岩陰に居るヤツも自由に泳ぎ回るヤツも居る。でも、誰が偉いとか凄いとか無くて、みんなそれぞれ居心地の良い所に居る。俺はそれでいいと思うんだ。生きてることが一番大事」
こちらを向いた來山の笑顔が、困った様に歪んでいく。
「もぉ……ごめんって……泣かないで。俺、今日、海くん泣かせてばっか……」
違うと言いたいのに声が出ない。気づくと來山の胸に抱き寄せられていた。コロンが甘く香る。
「來山さん……」
肩で息をしながら、途切れ途切れに海はようやく言葉を絞り出した。
「俺、來山さんのこと、好きです」
「えっ……」
「ずっと、友達でいてください。俺、來山さんになら、本音で話せると思う」
なだめるように背中をトントンと叩かれてから「そっか」と優しい声が降ってきた。耳に当たる心音が、海の心を落ち着かせていく。
「友達なら、もうちょっとフレンドリーに付き合おうよ」
「え?」
「まずは下の名前で呼んでほしいかな」
「下……」
「そ、大智って呼んでよ」
「無理です。年上の方にそんな無礼な呼び方は」
「侍かよ。いいじゃん、友達でしょ」
「山根さんだって、來山さんって呼んでます」
「山根ちゃんは名前以外一切敬意無いじゃん。顎で使われるのよ、俺」
押し問答の末、結局、海が「大智さん」と呼ぶことで折れた。
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