第5話 手の届く距離に

 そこは何もかもが新しくて、海が落ち着ける場所がどこにも無かった。

 昨日、店から出ようとしたところを、店長に呼び止められた。

 家からそう遠くない所にできる新規店に応援を頼まれたと言う。週末のオープンまでに商品の陳列が間に合わないらしい。

「高速道路の事故にトラックが巻き込まれて、荷物が遅れたんだよ。各店から慣れたスタッフが応援に入るから、皆戸くんにも行ってもらえると助かるんだけど……どうかな」

 そのまま店長に押し切られる形で、新店舗の荷捌き場に海は立っていた。

 先程店内を見に行ったが、あと3日でオープンだと言うのに棚はガラガラだった。さすがの海も、これは何とかしなくては、と感じるほどだ。そして、遅れを取り戻すべく次から次へとトラックが到着する。

 結局、海は荷捌きに追われ、オープンの日もギリギリまで品出しを手伝い、翌日にもらった休暇は何もせず寝て過ごした。

 他店からの応援が段取り良く仕事を回してくれたおかげで、海は最小限のコミュニケーションで仕事をこなせたが、あれだけ沢山の初対面に囲まれると、身体より心が疲弊する。

 翌朝、いつものロッカー室に入ると、海は大きく深呼吸をした。やっぱり慣れた場所がいい。ここに居る人は見知った顔ばかりで安心する。

 いつものように店内を見に行こうとした時、背後から駆けてくる足音が近づいてきた。

「海くん」

 珍しい声に思わず振り返る。

「ずっと姿が見えなくて、心配したよ。新店舗の応援に行ってたんだって?」

 背中に添えられる來山の手は温かかった。

「あの店、ペットコーナーはウチじゃないんだよ。海くん、あっちに異動になるの?」

「いえ……今回だけです。あんまり家の近くで働くのは、ちょっと」

 言われてみれば、あの店には水槽が無かった。犬、猫と小動物。あまりペットコーナーの印象が無かったのはそのためか。

「ね、海くん。連絡先、交換しない?」

「え?」

「スマホ、今持ってる?」

「あり、ます、けど……」

「今回さ、海くんのことが心配だったのに、俺、連絡先も知らないんだなって気が付いて。もし、迷惑じゃなければ……どう?」

 両親以外に自分の心配をする人が居るなんて思いもしなかった。來山に心配されるのは悪い気がしない。

「いい、です、けど」

 來山とメッセージアプリのIDを交換すると、來山のアイコンはフトアゴヒゲトカゲだった。そして、友達欄に両親以外の名前が入ったことが、くすぐったいような嬉しさだった。

 その日から、來山のメッセージが毎日届くようになった。熱帯魚の話ばかりだが、面と向かって話さない分、いつもよりスムーズにやりとりができる気がした。メッセージでのやりとりが増えるにつれ、対面でのやりとりも以前より気負いが無くなってきた。ただし、來山と話す時だけではあったが。

 相手がどんな人で、どんなことを考えているのかが分かれば、人と話すのは怖くないのかもしれない、と海は考えられるようになっていた。



「やっぱり、俺、先にご両親に挨拶をしておくべきだったかな……」

 海の両親が乗る車が去っていくのを見送りながら、來山は戸惑いを隠せないでいた。

「いや、そんな結婚の挨拶じゃないんだから……」

 さすがに海も吹き出してしまった。

 今度休みを合わせて遊びに行こうと、先週來山に誘われていた。ちょうど翌週の休みが重なっていたため、水族館に行く運びとなったのだ。

 明日、職場で仲良くなった人と水族館に行く、と両親に告げると、明らかに動揺しているようだった。相手は男性だと言うと少し落胆したようだったが、それでもやっと友人ができたと喜んでくれ、あろうことがその人に会ってみたいと言い出したのだ。結局、父がフレックス出社することにし、母と共に海を待ち合わせの駅まで連れて行き、わざわざ車から降りて來山に丁重に頭を下げた。そして「息子を頼みます」と握手をして去っていった。

「大事にされてるんだね」

「いや、心配させて、迷惑かけて……ちょっと過保護なんですよ」

 そっか、と笑う來山の手が背中に触れる。エスコートし慣れた様子に、今更ながら住む世界が違うと感じた。

 スモーキーピンクのサマーニットにグレーの半そでシャツを羽織り、黒のスキニーパンツに黒のスニーカー、ボディーバッグはたすき掛けにせず、肩に掛けている。

「いつもはコンタクトレンズなんですか?」

 珍しく黒いセル縁の眼鏡をかけている。來山の整った顔がより知的に見える気がした。

「頭良さそうに見えない?」

「かっこだけですか?」

「かっこだけだよ。俺の脳内9割ぐらい、どうやったらモテるかってことだけよ?」

 來山が本当にそんな人間なら、こんなにも心を許したりしない、と海は思っていた。動物達に向ける眼差しは穏やかで優しく、豊富な知識は動物達がよりよく暮らすためのもの。來山が常に外見だけを気にしているような人間ではないことは、海にも分かる。そもそも、外見だけなら苦労しなくてもそれなりに人目を引いているのだ。

 どうしてこんな人が、自分をこんなにも構ってくれるのだろう。

 水族館入り口のガラスに映った自分の姿を見た時、海は我に返った。

 夏でも露出を避けて、白いオーバーサイズの長袖シャツを首元のボタンまで留め、ゆったりとしたストレートジーンズをロールアップして穿き、足元はずっと履いているグレーのキャンバス生地のスニーカー。大した荷物もないのに、大きな帆布のリュックを背負って、自信なさそうに背中を丸めて俯いている。

 よく見ると周囲の女の子達がこちらを見ているが、それが自分に向けられたものでないことは明瞭だ。

「さ、入ろうよ、海くん」

 來山の声に顔を上げる。笑顔の來山の手にはチケットが2枚握られていた。

「あ……すいませ……お、俺、払います……」

 リュックの肩ひもを外そうとする手を止められた。

「いいよ。今日は俺が誘って付き合ってもらったんだから、俺に出させて」

「でも……」

 渋る海の手を引いて、來山は迷わずエントランスに向かった。

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