第3話 始まりの出会い
店に着くと裏口の警備員にスタッフパスを見せる。タイムカードを押してロッカールームに入ると、2人ほど既に着替えを済ませてスマートフォンを見ていたり缶コーヒーを口にしたりしている。
「……はよございま……」
俯いたまま口の中でごにょごにょ呟き、小さく頭を下げて横を通り過ぎる。2人とも特に気に留めるでもなく会釈で返した。
店の制服であるポロシャツとチノパンに着替え、時計を見る。勤務開始まで15分。
「時間まで店内見てきます」
これもいつものことだ。黙ったまま2人は頷いた。
この店も他店と同じくペットショップが入っていた。
照明が点いていない暗い水槽が壁一面に並ぶ。海は毎朝この水槽を見るのが日課だった。
煌びやかなネオンテトラも、色鮮やかなグッピーも、ライトが点いていなければ存外地味な存在だ。光が当たらなければ、どの魚も同じように見える。
そして、暗ければコリドラス達も逃げ回らない。そっとステルバイの水槽に近づいて、中を覗き込む。まだら模様にオレンジの胸鰭。つぶらな目はキョロキョロと動いている。ナマズらしく短い髭が、辺りを調べているかのように動く。
「あぁ、おはよう」
背後から声をかけられ、海は少し飛び上がった。振り向くと長身の男がこちらに笑いかけている。
「荷捌きのバイトくんだよね。たまにウチの水槽、見てくれてるだろ」
周囲を見回しても他に人は居ない。初対面のはずなのだが、何故か自分を知っているかのように話す。
所謂、イケメンというタイプだろう。身長は180を超えていそうだ。細身で手足が長い。カーキのカーゴパンツにベージュのマウンテンパーカー。髪は明るい色合いで、緩くウェーブした前髪は自分と同じように目を覆っているのに自分とは全く印象が違う。切れ長の目は強い光を放つけれど優しい印象で、すっと伸びた鼻筋の下には薄い唇が弧を描いている。
「今からケージ掃除と餌やりなんだよ。バイトちゃんが風邪でダウンしたから、俺一人でやるの」
あぁ、だから今日はいつもより早いのか。
肩に掛けていたボディバッグを作業台に置きマウンテンパーカーを脱ぐと、下には店のロゴ入りのTシャツを着ている。
「朝は着替えるのが面倒でさ。帰りはちゃんと着替えるよ」
ばつが悪そうに笑ってみせてから、店のロゴが入ったエプロンを首に掛けた。
「いつも水槽見てるけど、何か飼ってるの?」
水槽を見上げながら横に並ばれた時、やっと海は自分の立ち位置に気が付いた。
「あっ、おっ、俺、し、仕事、しなくちゃ……」
逃げるように走ってその場を離れた。
背後で「ちょっと待って!」と聞こえたが、振り返りもしなかった。
海は、人と話すのが苦手な点以外は真面目でよく働いていた。夏の訪れを感じる頃には、店内の商品補充も任されるようになり、勤務時間も昼頃まで延ばされていた。
棚の間で作業していると客から声をかけられることもある。商品のことは社員を呼ばなくてはならないが、売り場を尋ねられたら案内するぐらいは海にも可能だった。荷捌きのバイトをしたおかげでどんな商品があるか把握できているし、商品補充をしていれば大体の売り場も分かるようになった。DIYと言うには本格的過ぎる、職人が使うような工具や、外に置いてある木材などはよく分からないが、見ていると自分もいつかフォークリフトの免許を取ってみたいと思うようになっていた。
人と話すのは相変わらず苦手だった。客から声をかけられても「少しお待ちください」と「こちらです」以外話せない。俯いたまま案内をして、無言のまま一礼して持ち場に戻る。それでも「ありがとう」と言われると、胸が温かくなる気がしていた。
バックヤードへの大きな扉はペットコーナーの水槽と並んで設置されていた。出入りの時に水槽を見ることができるのも楽しみの一つだった。
あのペットショップの社員とも時折目が合って会釈する程度の仲になっている。
そう言えば名前も知らないままだった、と今更海は気づいた。
その日は午後の勤務も頼まれていた。夏休みの時期は、子育て中のパートの人の出勤が減る。逆に学生のアルバイトが入って融通できるのだが、シフトが安定するまでは皆でフォローすることになる。
海は早朝からの勤務なので夕方には上がれるのだが、昼食を職場で摂ることだけは苦痛だった。
早朝の荷捌きは皆、海のことを知っているし、人数も少なく、海を程よく放っておいてくれる。だが、昼間は人数も多いし、賑やかな人も多い。初めて午後まで残った日に食堂で昼食を摂っていたら、物珍しさに集まってきた人達に囲まれてしまい、逃げるようにその場を離れた。それ以降、どんなに暑くても海は屋上で昼休憩を過ごすことにしていた。
階段室の脇にある僅かな日陰に腰を下ろし、朝、母から渡された弁当を広げる。朝早いから作らなくてもいいと言うのに「高校生の頃、作ってあげられなかったから」と笑顔でトートバッグを渡される。
父も母も、自分が外に出て働くこと喜んでくれているようだった。そして、その期待に応えられる人間になりたい、とは思っている。
「あれ、お疲れさま。こんな暑いトコでメシ食ってんの?」
背後から声をかけられて、卵焼きを頬張ったまま海は顔を上げた。
タオルでいっぱいの重そうなカゴを両手で抱えた、あのペットショップの店員が笑顔でこちらを見ている。無言のまま、ひょこっと頭を下げた。
「トリミングでさ、タオル、結構使うんだよ。この時期はここに干すとすぐ乾くからね」
タオルのカゴを置き、階段室に戻って簡易物干し台を片手に、店員は再び姿を現した。
「俺、店長なのに一番下っ端扱いよ」
むぅ、と顔をゆがめて見せるので、海も少し吹き出してしまった。
「ねぇ、熱帯魚、好きだよね?」
タオルの皺を伸ばしながら物干し台に次々と掛けていく。店長は海の方を見ることなく言葉を続けた。
「よく水槽見てるよね。いつも俯いてるのに、水槽見る時は顔を上げて嬉しそうにしてるから、好きなのかなぁって」
自分の顔を見ずに話しかけてくれるのはありがたかった。だが、それでは頷いても相手には見えていないと気づいてしまった。
「は、は、はい……」
消え入りそうな声で返す。早朝バイト以外の人と、業務外の言葉を交わすのは初めてかもしれない。
「名前、聞いてもいい?」
空になったカゴを抱えて、店長が近づいてくる。海はぎゅっと身体を縮こませた。店長は構わず近づいてきて、海の横に座った。あえてなのか、30センチほど間があけてある。
「俺はね、
きやまだいち。人から名乗られたのは初めてだ。何故か大切なものになると感じたその名前を、口の中で転がした。
「君は? 名前で呼ばせてよ」
そうか。大切な名前を貰ったんだから、俺も名前を返さなくちゃいけない。でも、声が出ない。
「……カイ」
精一杯力を振り絞って声を出し、それだけを言うのが限界だった。
「カイ? 苗字?」
首を振る。
「下の名前?」
頷く。
「そっか、カイくんか。……カイくんって呼んでいい?」
少し躊躇ってから海は頷いた。今日名前を知ったばかりの相手から下の名前で呼ばれるのは馴れ馴れしい気もするが、もうフルネームを名乗る気力も残っていない。
「じゃあ、名前を教えてくれたお礼に、いい場所を教えてあげるよ」
海の弁当に蓋をさせ、來山は海の手を引いて階段を下りた。
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