無理やり生かして、ごめん

 翌日、土曜の朝。俺は家でも学校でもなく、市内の病院に来ていた。


 なにか患ったわけではない。家族に会いに来たのだ。


「来たよ、母さん」


 白いベッドに横たわる色素のない体。


「花、変えるね」


 返事はない。発することができないのだ。俺の声が届いているのかも分からない。俺の母は、数年前から昏睡状態にある。


「最近ジメジメしてきた。梅雨が始まったのかな。梅雨ってどうも嫌いだな。早く明けないかな」


 個室に響くのは俺の独り言に呼応する電子の心臓音だけ。母の心臓の鼓動が力なくぴ、ぴ、と波を打つ。


 たまに、危うく錯覚してしまいそうになる。この電子音が母からの返事なのかと。


「ねえ——」


 何を、言いかけたのだろうか。

 やめた。


 俺はあまりにも、一方的に語りすぎてしまった。言葉が返ってこないことをよく分かっていたはずだ。


 それなのにどこかで期待していた。俺の言葉に呼応し、指がぴくりとだけ動いて、その長く閉ざされた門を開けてくれることを願ってやまなかった。


 その願いすら、母にとっては酷なことなのかもしれない。


「——もう、辛いよね。ごめん、母さん」


 その無機質な付属品を外せば。母は楽に逝けるのに。


「ごめん……」


 ああ、また。

 またこぼれていく。


「外せなくて、ごめん、母さん……! 無理やり生かして、ごめん……なさい……」


 もう疲れているはずだ。

 もう苦しくてたまらないはずだ。


 そんなことはずっと前から分かっているのに、俺のわがままとエゴがその選択を拒んだ。


 もうやめようと何度も思った。母をここに縛りつけるのはもうやめにしようと何度も考えた。


 けど、まだ限りなく希薄な望みを捨てきれないでいた。


 だって、たった一人、生き残った家族なのだ。

 独りはいやだ。辛くて、寂しい。


 その痛みに耐えかねて俺は、もう二度と目を開けることはないでしょうと医者に言われながらもこうして母親を現世に繋ぎ止めているのだ。


 弱い。情けない。惨めだ。


 何度も悩んで、何度も迷って、結局自らの安寧のために母親を生かしている。


 三年待った。でもダメだった。もう、いっそ殺してしまえば母もきっと喜んでくれるんじゃないか。そんな考えが頭をよぎった。


 三年待った。でもダメだった。もう、この先十年待ってもその目は開かないんじゃないか。そんな考えが頭をよぎった。


 母の口元に手が伸びる。ゆっくり、ゆっくり近づいていく。そしてその無機質な物体に指先が触れた瞬間、


「黒木さーん」


 若い看護師の女性が部屋に入ってきた。俺はハッとして、咄嗟に手を引っ込める。今、俺、何しようとしてたんだ。


 息苦しくなって、逃げるように病室を出る。看護師の女性が「海都くん!?」と驚いた様子で俺の名前を呼んだ。だけどあの部屋に戻れなかった。


 ダメだ、俺は今あそこに戻ったら、母親を自らの手で殺してしまう。

 そんなのはダメだ。それだけはダメだ。


 涙が出てきた。

 誰も俺を、救ってくれなかった。

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月の凪ぐ海 夜海ルネ @yoru_hoshizaki

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