やめてくれ
その空間は静かな静寂に包まれていた。先生も、月輝も、生きているのかを疑いたくなるほど一ミリも動かず、呼吸音すら聞こえない。
どれだけの時間が過ぎただろう。やがて静寂を切り裂いたのは月輝だった。
「大切な人ですか」
俺と先生は、ほぼ同時に月輝の方を凝視した。月輝はというと、偽りのない目でまっすぐ先生を見ている。
「その女子生徒は、大切な人だったんですか」
「僕は──」
先生の苦しげな声が聞こえた。狭いところに押し込まれ、閉じ込められたかのような窮屈な声音。喉を締め上げられているかのような声音。
「何も、知らないんだ」
その目には色がなかった。ただ茫然と、一点だけをじっと見つめている。
「何も知らなかった。知らなかったし、分からなかった」
何かを後悔しているようにも聞こえた。
「先生……その人と知り合いだったの?」
俺は尋ねるが先生からの返事はない。だけどもしそれが本当なら、先生は高校時代に知り合いを亡くしていることになる。それも自殺で。
先生と出会った日のことを思い返す。もしかしたら、すでにあの時先生は──。
「彼女は…………いや、何でもない。この話は忘れてくれ」
「けど」
「やめてくれ」
先生の声は、俺の胸までをも締め付ける。それはきっと月輝も同じはずだった。だから何も言えなかった。
先生から過去の話を聞いたことはなかった。その過去が、救いようがないくらい膿んだ傷だとしたら。
そのことを考えると、俺は、俺たちは何かを言うことなんてできなかった。
「空気を悪くして申し訳ない。はぁ、けど……ごめん、ちょっと部屋で休ませてくれ。白石さん、ゆっくりしていってね」
先生はどうにかそれだけを言って、逃げるように部屋を出ていった。俺たちは後を追うこともせず、ただその背中を見送る。
「余計なこと、言っちゃった……ごめん、海都」
しばらくして月輝が俺に向かってそう言った。
「いや。月輝は悪くない。誰も悪くないから」
宥めるように言ったけれど、その言葉が月輝の心に届かないだろうことは知っている。他人の言葉など、届かない。
「悪いのは、俺だ。先生に話を聞くことを提案したのは俺なんだし。月輝はただ、気になったことを聞いただけ。それにあのタイミングで月輝が言わなくても、いずれはこうなってたんだ」
女子生徒飛び降りの真相を尋ねた時点で、先生は様子がおかしかった。あれは、トラウマを抱えた人間の表情だ。
「だから気にしないで。あ、お茶飲む?」
あくまで気丈に振る舞ったが、月輝の顔が晴れることはない。
「ごめん……ちょっと、今はそういう気分になれないや。私、今日は帰るね。お邪魔しました」
月輝もそそくさと一息に言い切って、荷物を手に小走りで部屋を出て慌ただしく家を出ていった。
まぁ、そうだよな。そう思いながら、俺は先生に話を聞く提案をしたことを後悔した。
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