もういいんだ
少女は時計を睨んでいた。針がコチ、コチと無感情に時を刻み続ける部屋の中、時計とスマートフォンの画面とを交互に見てはため息をつく。
「そろそろかな……」
少女が独りごちて数秒後。家の玄関からガチャリという音と同時に男の焦ったような声が聞こえた。
「ただいま!」
どたどたと激しい音を立てて、その男は少女のいるリビングへと入ってくる。
「遅いよ、お兄ちゃん。ご飯冷めちゃう」
「ごめんって。思いの外レッスン長引いてさ」
現れたのは、少女の四歳年上の兄、奏である。少女が時計を睨みながら帰りを待っていた相手というのが、奏だった。
「はぁ……罵っていい?」
少女は目の色も声の色も変えて、兄に向かって低い声を投げた。奏はそんな妹の態度を叱る──わけではなく。
「いいんですか……!」
目をキラキラ輝かせ、そう言った。少女の目には奏が尻尾を振る子犬のように映る。
「うん……いっぱい罵ってあげるね、お兄ちゃん」
妹の名は
対して兄の奏は、そんな妹とは相対する性癖を持っている。
「たくさん……たくさん罵倒してください!」
奏は被虐嗜好の持ち主、つまりドMなのである。
この兄妹の関係を知るのはお互いと彼らの両親、そして海都だけ。そしてそのことを悲観するのは両親であり、面白がっているのは海都。
おまけに奏は重度のシスコンでもある。彼が女性と付き合っても長続きしない所以こそがまさにこの二大性癖だった。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
美音は突然口調を変えて、兄の目を見た。奏も彼女の目を見返して首を傾げる。
「彼女作らないの?」
その一言で、奏は息を止めた。
──俺は、そんなに酷い顔をしていたのか……?
「しばらくは、いいかな」
「──」が唯一、自分のことを理解してくれる存在であったことを奏は知っている。
「でも、忘れられないんでしょ? 私知ってるんだよ。未だにあの人の」
「いい」
小学六年生の妹から放たれる言葉はなお重く、苦しい。極限まで研いだ刃のごとき鋭さが胸に突き刺さり、赤い血が吹き出して止まらなくなる。
それほどあの痛みは奏にとって衝撃だった。何にも例えることのできない、形容し難い無慈悲な痛み。
ああ、あの一件で責められるべきは自分なのに。今まで何度そう思ったことだろう。
その数すら数えきれなくて、奏はきつく目を閉じた。
「いい、もういいんだ」
美音は口をつぐんだ。そして「自分は間違えたのだ」と思った。弱冠十二歳の少女が抱く思考にしてはそれはあまりにも大人びているが、彼女をそうたらしめたのは数年前のとある事件。
自分の兄を現世に繋ぎ止める方法を、美音はひとつしか知らない。それがあの加虐嗜好なのだからいかがなものかと、美音は幼いながらに考える。
もともと兄には被虐趣味があったが、それはあの日からさらにエスカレートした。誰がどう見ても、奏が壊れているのは明らかだった。
痛ましいのは、奏本人がその事実に気づいていないことだ。周りはみんな知っている。両親も海都も、奏の心の傷の深さを知っている。
その傷を、奏は無理やり埋め立てていた。自分の歪んだ性癖と趣味でどうにか精神の安定を図っていた。そうすることによってしか、自分を守れないから。
「あいつの話はもう、やめよ。終わったことだろ」
いつまでそのままでいるつもりなの? 美音の口からその言葉が出てくることはとうとうなかった。
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