目で見てなくたっていい

 付き合ってないんだ。

 ピアノを弾きながら、蒼山奏は考えていた。


 今朝、学校に着いた時にはすでにクラスの何人かがその件について話していた。噂が広まる速さにはいつも驚かされるばかりだ。


「奏、お前黒木と中学一緒なんだろ? なんか聞いてないのかよ」


「なんかって?」


 普段は滅多に話すこともないクラスの男子が、むき出しの興味を顔に貼り付けて尋ねてくる。わざととぼけて見せると、もったいぶんなよーと奏の肩を軽くつきそのクラスメイトは言った。


「黒木と白石さんが付き合ってるって話だよ。もう学校中で噂になってる。何でも、昨日あいつと白石さんが一緒にいるところを見たってやつがいてさ」


「それなら、そいつに聞けばいいだろ。俺は知らない。海都からは何も聞いてない」


 奏がキッパリ言い放つと、クラスメイトの彼は明らかに不機嫌そうな顔で小さく舌打ちをした。


「んだよノリ悪いな。女子にモテるからって調子乗りやがって」


 それとこれと何の関係があるんだよ、と思ったが言わなかった。彼は背を向けて歩き去っていく。その背中を見ながら、奏は内心思った。俺だって。


 ──俺だって、好きでこんなことやっているわけじゃ。




「奏」


 ハッとして、奏は指を止めた。いつの間に思考がどこかに飛んでいた。


「……ピアノを弾いているときは、しっかり鍵盤を見るんだ」


 紅井先生の方を見ると、冷静な目で奏を見下ろしていた。彼はピアノに対して真剣だ。今の奏の行動は、彼に対してもピアノに対しても冒涜だった。


「すみませ」


「先生、目を閉じて弾くのはダメってこと?」


 奏が謝ろうとしたのを、青年の声が遮った。


「鍵盤をずっと見てなきゃダメなの?」


 犯人はもちろん海都だ。奏はグッと眉根を寄せて海都の方を見る。あいつ……。


「別に目で見てなくたっていい。目で鍵盤を見なきゃいけないなんて言うのは、辻井つじい伸行のぶゆきに失礼だ」


 全盲のピアニスト、辻井伸行。彼の演奏には心を奪われる。魂まで吸い寄せられるような不思議な引力がある。


「僕の言う見るっていうのは、心でってことだよ。ピアノを弾いているとき、演奏者は常に心を鍵盤に向けなければいけない。考えごとをして演奏が疎かになるなんてことはあってはならない」


 奏は今度こそタイミングを得て、紅井先生の目を見て言った。


「すみません、気をつけます」


「何か悩みでもあるのか?」


 それが紅井宗一という人間である。そのことは、奏も海都も知っていることだった。彼はとにかく、他人ひとに寄り添う。包容力さえある。


 そう。だからこそ、二人は彼にピアノを教わっている。もちろん紅井先生の弾くピアノが好きなのはそうなのだが、それだけではない。

 先生の人柄だってちゃんと見ている。その上で二人は彼にピアノを教わることを決めたのだ。


「悩み、ではないです。ちょっと、朝学校であったことを思い出してしまっただけで」


 それは悩みと呼ぶにはあまりに小さく、話題性のかけらもなく、奏の口から出すほどのことでもなかった。


「ほんとに小さなことなので。気にしないでください。空気悪くしちゃってすみません」


 そう。そうやって笑っていれば、痛みなんてそのうち忘れることができる。


 ──笑え。笑え、蒼山奏。俺はできる。俺は、繕うのが上手い。


「練習、再開しましょう。俺、どうしても克服したいところあるんですよ」


 しばらく黙って聞いていた紅井先生は、「ああ」と短く言ってまた奏にピアノを教え始める。


 ──これでいい。そう思うたびに心に空いた穴が広がっていく感覚。俺はあとどれだけこの感覚を味わえばいいんだろう。

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