もうずっと、忘れてた

 そこから先は、もう俺の知っていることだった。


「ある意味、お父さんも気の毒な人なの。お母さんが家を出て行って、その喪失感に畳み掛けるように仕事がお父さんを忙殺していった。今日も多分、家に帰ってこないと思う。だから私、帰っても一人なんだ」


 静かに、囁くように発せられた声でもそれはかすかに震えている。今までずっと気持ちを押し込んでいた容器にヒビが入るかのごとく、感情がこぼれだす。


「……はぁ、誰かにこんな話をしたの、初めてだよ。聞いてくれてありがとう」


 そう言って彼女は笑うけれど。それが表面上の偽物であることは俺も彼女自身もよく分かっているはずだった。


 ふと気になったけど、彼女の父親、世界的に有名な指揮者である白石拓実は、果たしてそんな状態でオーケストラの団員を前に指揮棒を振ることができているんだろうか。


「失礼なことを聞くかもしれないけど、お父さんはそういう精神状態で仕事できてるの……?」


「できてるよ。逆に、お父さんには指揮者としての仕事がないとダメなの。あれがなくなってしまったらきっと、本当に抜け殻になっちゃうから」


 月輝の母親が家を出て行った。その理由が気になるのはもちろんだが、不可解なのは父親の方だ。母親が家を出るのは夫婦喧嘩とかそういった要因が考えられるけど、喧嘩して出て行ったとしてなぜ父親はそこまで絶望に陥るのだろうか。


 そこには何かきな臭い事情があるように思えて、俺はしばらく考え込んでいた。


 月輝の父親にも何かしらの事情があるとしたらそれは何だろう。月輝に聞けば何か分かるかもしれないと思ったけど、他人が介入するにはあまりにややこしい問題だから俺は黙らざるを得なかった。


「なに難しい顔してるんだ、海都。カレー、早く運ぶの手伝って」


「ああ、ごめん」


 先生の声で考え事をやめた途端、いつの間にスパイスの香りが空気を満たしていることに気づく。


「あ、私も何かてつだうこと……」


「いや、いい。白石さんは客人なんだから座ってて」


 俺に向ける冷静な目とは裏腹に、先生は月輝の方を見てにこやかに告げた。先生があんなふうに笑うんだ、と俺は少し意外に思った。


「はい、どーぞ」


 目の前にカレーを置かれた月輝は星にも負けない光を目に散りばめた。


「おいしそ……」


「だろ?」


 俺が言うと、先生が軽く睨んできた。


「お前が作ったみたいに言うな。カレーあっためることもできないだろ」


「あっためるくらいできるよ!」


「海都、この前鍋焦がしただろ!」


 この前……と記憶を遡り、俺はひとつ思い当たる節を見つけた。


「あ、あん時か。あれは仕方ない、ちょっとトイレ行って帰ってきたら勝手に焦げてただけだから」


「だからなんで火を止めないんだ君は! 小学生でも分かるだろ!」


「ふふっ、ふふふ……」


 男二人でやいやい言い合っていたところへ急に聞こえてきた笑い声に、俺も先生も動きを止めた。


 月輝が可笑しそうに、腹を抱えて笑っているのだ。だけどそれは学校で見た偽りの彼女ではないと直感した。


「はあ……食べるか」


 先生は盛大なため息をついてダイニングテーブルにつき、俺もその隣に腰を下ろす。


 月輝はその向かいに座り、俺たちが声を揃えていただきますと言うと遅れていただきますとつぶやいた。


 彼女はスプーンでゆっくりカレーを掬うと、遠慮がちにそれを咥えた。大切に大切に、咀嚼する。


 ごくり。彼女の喉元が動いて、月輝はほんのわずかに口を開いた。


「……あったかい」


 また、瞳を潤ませている。


「こんなにあったかい食卓は、もうずっと、忘れてた…………」


 涙は流れなかった。ただ月輝は、心底満たされたような表情で口元に淡い微笑を浮かべていた。


「おいしいです」


 先生の目を見る。桜の蕾が花開くさまは、開花時期をとっくにすぎた五月でもお目にかかることができるのだと、俺は今日はじめて知った。

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