気づかない親

 ありがとうと告げただけなのに、目の前に座る海都はほっと安堵の息をついた。その様子に白石月輝もまた、自然と口元の緊張を解く。


 おかしいな。話し始めてまだ二日なのにな。今までそれとなく人と関わってきた月輝ではあるが、こんなに他人に心を許したのは初めてだった。

 他人の前で流す涙などなかった。いつの間にか、涙を流せなくなっていた。


 月輝の心を覆う氷の壁を溶かしたのは、間違いなく海都のピアノだ。あの曲が月輝をありのままの姿へと導いた。


 月輝は気づく。


 ──あぁ、私は。

 本当はずっと、泣きたかったんだ。


「えっと、何があったのか……話したい?」


 彼は私に無理やり聞くことはよくないと判断したのかそう尋ねてきた。


「いや、言い方……。うん、まぁ、話す。聞き苦しかったらごめんね」


「大丈夫だよ」


 短くそれだけ言って海都は淡い微笑を浮かべる。

 ──君がそう言うなら、私も正面から誠意をもって対峙しよう。


「ありがと。あのね──」




 月輝の家は、いわゆる父子家庭だ。母親はいるが、月輝が中学に上がる前に家を出て行ったきり帰ってこなくなった。

 それ以来ずっと、月輝は父親に男手ひとつで育てられてきた……わけではなく。月輝を育てたのは、ハウスキーパー──いわゆる家政婦の女性だった。


 月輝の父親の名は白石しらいし拓実たくみという。世界的な指揮者の一人だ。


「えっ、あの白石拓実の実の娘!?」


「うん……そんな驚く?」


 海都の驚愕ぶりに月輝は平気な顔して返す。月輝にとっては、世界的な指揮者である前にただの父親なのだ。

 その事実は生涯を犠牲にしても消えない。


「じゃあ、さっき言ってたその……一日中帰らなくても気づかない親っていうのは」


「うん。私の父」


 父親は、母親が家を出て行ってからどこか様子がおかしくなった。月輝と話している時、目が合わなくなった。話もまともに聞いていないことがよくあった。


 その時ちょうど父親の多忙っぷりは絶頂を迎え始め、彼は家に帰らないことが多くなっていった。その忙しなさと反比例に、彼の月輝に対する興味は失せていった。


 中学生のとき、月輝は学校が終わってから一人で映画を見に行って、本屋に寄って、ゲームセンターで時間を捨てた。日頃の鬱憤を晴らしたかったというのと、父親が自分が帰ってこないことを心配してくれるのではないかという期待。


 理由はそれだけで十分だった。警察に見つかる前に帰ろうと夜の八時まで遊び倒してから家の玄関の前に立ってインターホンを押した。


 ドアが開き、父親が顔を出す。

 ──怒ってくれる?

 ──心配だったって泣いてくれる?

 ──私のこと、ちゃんと気にかけてくれてる?

 心臓がどくどくと脈を打った。 


「なんでそこにいるんだ? 帰ってたんじゃなかったのか」


 父親は、月輝が中学校から帰ってきていないことに気づいてすらいなかった。中学生ながらに否応なく悟る。自分はとっくの昔から、父親に愛されてなどいなかった。


 ──ああ、自分は必要とされていないのか。


 それからの日々は、自分を取り巻く環境がずっと恨めしくてたまらなかった。相談できる人もおらず、自分で無理やり抱え込んで、咀嚼して、消化した。消化したつもりでいた。


 だけど本当は、真っ黒な塊として内奥に蓄積しているだけだった。ダストボックスはとっくに満たされていて、歪んだ気持ちのやり場に困り溢れ出てしまった物はピアノに全部押し付けた。


 ピアノが月輝の全てだった。ピアノを弾いている時だけが本当の自分でいられる気がした。悩みも憂いも全てを忘れて、ただ目の前にある旋律と音に向き合っていられる。


 唯一の救いだった。ピアノだけが月輝を求め、月輝もまたピアノだけを求めていた。


 高校に入学すると、旧校舎の音楽室に入り浸るようになった。あるクラスメイトから「旧校舎の音楽室の幽霊」の噂を聞き、これは利用するしかないと思った。


 「放課後」という文言を付け足したのは少しでも家に帰るまでの時間を稼ぎたかったから。愛のない家より、ピアノの在る音楽室の方が居心地が良かったから。一人でピアノに向き合っていたかったから。


 そんな日々を過ごして、五月に入ったとき。学校内で徐々に幽霊の噂が広がりつつあるのをしめしめと思いながらまた旧校舎でピアノを弾いていた月輝のもとに、一人の青年が訪れたのだった。

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