落ち着くまで

 夜の空気には、なんとも言えない緊張感があった。ひょっとしたら風がひとたび強く吹くだけで目の前にいる彼女がわっと泣き出してしまうのではないか。


 そんな危うさを纏う月輝を見て、俺も先生も一歩も動けず、一言も喋れなかった。


 やがてその沈黙は、彼女によって破られた。


「ごめんなさい……だけど私、帰りたくないんです」


 俯いた拍子にぽろり、ずっとずっとあふれだすのをこらえていたその感情の片鱗が形を変えて彼女の目からこぼれ落ちた。


 風が吹く。木々の葉がざわめきあって薫風を届けてくる。


「それで、君はどうしたいんだ」


 心の奥にまで染み込んでくるような落ち着きのある声で、先生は言った。月輝は顔を上げて先生の顔をまじまじと見つめる。


「君にどんな事情があるのかは知らないが、帰りたくないと言われて一晩泊めてあげられる部屋がないわけではない。ただ。若い男の家に君みたいな子を泊めるわけにもいかない。僕だって、捕まりたくないんだ」


 それはもちろんその通りだった。こんな状態の月輝を置いて自分たちだけ帰るなんてことはとうていできないが、かと言ってあの男二人暮らしの家に彼女を一晩泊めてやるなんてことはできるはずがない。


 月輝は静かに俯いた。彼女もまた、どうすることもできずにいる。だけど本当に、このまま彼女を家に帰すのか? 家に帰りたくないと涙まで流す彼女を。


 その涙は、どうしても嘘には思えなかった。だから俺は。


「うち、寄ってくか? 少し落ち着くまで」


 彼女の藍に濡れた目を見て、そう告げた。月輝は戸惑いを含んだ目でこちらを見返す。


「よし。帰るか」


 先生はそれだけ言ってくるりと踵を返し、歩き出した。言葉をもってして伝えられなくても分かる。先生は月輝を家に招くことを、承諾したのだ。俺は彼女に向き直って言う。


「ついてきて。家、すぐそこなんだ」


「え、ちょ、ちょっと待って。二人は同じ家に住んでるの……?」


 たしかに、俺と先生は家族でも親戚でもない。それを月輝は察したのだろう。そして疑問に思ったはずだ。なぜ赤の他人が、一緒に住んでいるのかと。


「あぁ、うんそう。またあとでゆっくり話すよ。でも今は、お腹すいただろ?」


 ぐうぅ、まるで俺のセリフに呼応するかの如く、彼女は思いがけず空腹を主張した。バッと手でお腹をおさえてきまりの悪いような表情をする。


「うん……あの、ありがとう」


 月輝は消え入りそうな声でつぶやく。俺はうん、とだけ返し、二人で先生の後を追った。

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