心配なんてしません
静かな風が吹いていた。彼女の黒髪がゆらり、意思を持ったかのようにうねうねと煽られる。
空はすでに夜の色に染まりだし、小さな星の瞬きがちらほらと見受けられる。
「え……と、それってどういう」
「君なら、分かると思うけど」
小さく開かれた口が余裕のないかたちに歪められる。
「わかんないよ……私、別に全然、何にも、どこも変じゃないじゃん」
また偽りを重ねていく。キャンバスに何度も何度も色をのせるように。月輝は軽率に偽りの上に偽りを乗算していった。その様は、見ていてなんだか心苦しかった。
キャンバスが黒く染められていく。
「私は……普通。普通なんだよ?」
言うべき言葉が見つからなかった。彼女は俯き、追い詰められたように小刻みに震える。
俺は、間違えたかもしれない。
「ごめん、月輝。俺の勘違いだ。月輝は変なんかじゃないよ。落ち着いて」
話し始めてまだ二日。俺は言うべきタイミングを間違えてしまった。
「大丈夫だから。安心して」
もはや自分のかける言葉が本当に正しいものなのか、俺まで不安になってくる。空気が錆びついていく。まるで俺たちに、一生その場にとどまれと命ずるかのように。
体も、口も動かなくなる。
「海都? こんなところで何してるんだ?」
知り合いの声がして、俺は声の主を見た。
「……そちらの方は?」
そこにいたのは先生だった。あぁ……三年前と同じだ。どうすることもできなかった俺の、俺たちの目の前に、現れてくれる。
「先生……」
俺はただそれしか言えなかった。目の前の少女は先ほどよりは落ち着いたらしく、俺と先生の顔を交互に見比べて終始頭に疑問符を浮かべているようだった。
「海都、この子は……っ」
俺のクラスメイトだよ。そう告げる前に、だけど俺は口をつぐんだ。先生の表情が一気に青ざめたからだ。
「先生、どうかした……?」
「君、名前は」
先生は小さな声でそれだけ言う。月輝に向かってそれだけを言った。月輝は状況が理解できないらしく、わずかに首を傾げて先生のことを見つめ返している。
「名前を教えてくれないか」
それは単なる問いというよりは懇願だった。先生の様子が明らかにおかしい。月輝の顔を見た瞬間から、食い入るように月輝を見つめている。
「えっと、白石、月輝です」
「白石……」
ボソリ、月輝が戸惑いながらも自分の名前を呟くと先生ははぁ……と掠れた息を漏らした。
「そう、か。白石さんか」
「先生、月輝を知ってるの?」
「いや。今日会ったのが初めてだ」
「それじゃあ何で……」
問うと、先生は何かを言おうとするけど咄嗟に目を伏せて口を閉じる。いつもは冷静な先生だから、今の彼は余計に取り乱しているように見えた。
「これはおいおい話すとして、もう六時近い。白石さん、君も早く家に帰ったほうがいい」
先生は左腕にはめた腕時計をチラリと見て、俺、そして月輝にそのように告げた。だけど月輝は何故か、その首を縦に振らなかった。
「あの……まだ、まだ大丈夫です。帰らなくても」
「……もうすっかり暗くなった。親御さんも心配するだろうから」
「心配なんてしませんっ!」
夜の公園に突然響き渡った声に、俺も、きっと先生も驚愕した。
「うちには、娘が一日中帰らなくても気づかないような親しかいません」
その声を出した張本人。月輝は、今にも泣きそうな表情で俺と先生を見つめ、そう訴えたのだった。
瞳を色濃く、潤ませて。
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