綺麗だった
俺と月輝は、二人であの公園に来ていた。家でも学校でもなく、自由にピアノが弾ける場所。真っ先に思いついたのがこの場所だった。
「すごい……このピアノ、勝手に弾いていいやつなの?」
「そうみたいだよ。たしか市長の趣味がピアノなんだとか」
「へえ……全然知らなかった、こんな場所」
ふと空を見上げると、太陽が沈む準備を始めているところだった。俺は当たり前のように月輝を連れてきたことを少し悔やんだ。
「え、ていうか時間。大丈夫か? もう五時は過ぎてるんじゃないか?」
「え? あぁ、大丈夫。門限とか、ないし」
月輝はそう言ってへえぇと辺りを見回す。なんとなくその行為が気になる。
「月輝が大丈夫なら、いいんだけど」
なんとかそれだけ伝えて、俺はピアノのもとに向かった。
「えへへ、なんか楽しみだなぁ。こんな素敵なステージで、海都の生演奏!」
「持ち上げないでくれよ」
苦笑気味に眉尻を下げると、月輝は読んで字の如く嬉々とした表情で俺の演奏を待っているようだった。
勿体ぶるわけにもいかないなと思い、鍵盤に指を置く。ピアノを弾く寸前のこの瞬間。俺はいつも、ひとつ息を吸って数秒とめ、細く吐き出す。というルーティーンをやっていたりする。
ルーティーンと呼ぶには少し、大それたものではあるが。
「す、はぁぁぁ。──」
「……」
俺の奏でる音に、月輝が息を呑む音がかすかに聞こえた。俺は藍色に染まりつつある空に絵の具の色を置くように、深い、深い絶望の底から掬い出した音を空中に刻みつける。
空はだんだん濃くなっていく。俺の音も、また。
月輝の月光を希望に例えるなら、俺の月光はいわゆる絶望の音色だった。ベートーヴェンが愛する女性と結ばれない嘆きを旋律にのせるなら、俺はその旋律から、ベートーヴェンの遺志を読む。
それが俺のピアノだった。音楽理論なんてことさら興味はなく、それよりもかつての先人たちが遺した名曲の数々を解釈することのほうが好きだった。
月光を聞くと、泣きたくなるの。
誰かが言った。誰のセリフかは、あまり覚えていない。
第一楽章を弾き終えて、俺はピアノの放つ音粒の余韻を名残惜しく思いながら月輝の方に目を向けた。
そして、驚愕した。
「えっ、なんで泣いてるんだ?」
透明な雫が二筋。あらゆる力に逆らうことなく、自然に頬を滴り落ちていく。その様はひどく神秘的で、俺は思わずかすかな嘆息を吐いた。
「あ……」
月輝は細々とした声でほんの一瞬声を漏らし、やがてハッとして頬を伝う涙を拭う。
「ごめん、なんか、なんでだろ。すごく、綺麗だったから」
「綺麗……?」
月光を弾いてその感想をもらうのは初めてで、俺は思わず聞き返す。
「あ、変な意味だったらごめんね? その、皮肉みたいなものを言ってるわけじゃなくてええと、その……わたしは好きだよ! この、月光!」
突然涙に濡れた顔をずいっと寄せてくるのを俺が退く。そして月輝は、一瞬顔を赤くしてからさっと距離を取り直した。
「ご、ごめん。なんかいいピアノを聴いて興奮しちゃって……。はぁ、私だけカッコ悪い……」
「カッコ悪くなんかないよ。むしろ俺は嬉しいけどな。だから……」
彼女が俺の続く言葉を待ち、首を傾げる。
ずっと、それこそ同じクラスになって初めて見た時からなんとなく思っていたこと。
「つくらなくていいよ」
「…………」
大きな瞳がより一層見開かれる。
ずっと気になっていたこと。
白石月輝は自分を偽っている。
のではないか、ということ。
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