すっごく自由なんだ

 音楽室を出て、俺はずっと言いたかったことを彼女に話した。


「なあ、月輝」


 俺の先を歩いていた彼女が立ち止まり、振り返る。見つめ返す藍色の大きな目が色濃く、俺の目の奥に刻みつけられる。


「月輝の月光って、不思議だよな」


「不思議……?」


 彼女はきょとんと首を傾げた。急にこんなことを言われれば、その反応は至極当然だが。


「いや、なんていうか。短調なのに、絶望感がないみたいな……。全体的に暗いんだけど、でもその中に光が……希望が、感じられるっていうか」


 先ほど聞いた調べを、再び頭の中に蘇らせる。月光というのはベートーヴェンが愛する者と結ばれない悲しみ、だんだん聴覚が衰えていく恐怖、そういった負の感情から生まれた曲なのだと思っていた。


 だから月光は、どこまでも暗く、重く、儚い。そんな固定観念を打ち破ったのが、彼女の月光だった。もちろん全体的な雰囲気は夜の闇とかを彷彿とさせるものだけど、でもたしかにそこには“光”がある。


 夜の公園でひとりピアノを弾いていた少年に降り注ぐ光の雨のように。薄明るい月の光が、差し込んでいる。そんな雰囲気が曲全体に漂っていた。


「希望か……たしかに、月光と言えばもっともっと暗くて重いもんね。私のはちょっと、珍しいかも。……けど」


 月輝はそこで言葉を切って、改めて俺の顔をまっすぐ見つめる。


「この月光を弾いているときは、すっごく自由なんだ」


「自由?」


 そこまで言うと月輝は、


「うん、自由。すごく自由になれる。なんて言うか、ピアノ弾いてる時の私が、いちばんのありのままの私なんだよね」


 と少し気恥ずかしそうに笑う。


 ああ、そうか。

 やっぱり、本物はこっちなんだ。


「って、ちょっと。何をニヤついてるの?」


「いや別に、ニヤついてなんかいないけど?」


「嘘だぁ! なんかちょっとふふって、笑ってたもん!」


「それニヤつきじゃなくて微笑だと思うんだけど……」


 それなら、普段の彼女は? あれを偽物、と仮にも呼んでいいのだろうか。それは少しばかり違う気がする。


「ねぇ? 聞いてた?」


「え?」


 彼女が一歩二歩と近づいて、俺の顔を覗き込んでくる。ふわりと香った名前も知らない匂いに、心臓が跳ね上がる。


「そっちはどうなのかって。月光」


「月光?」


「うん。私、海都が弾く月光気になる」


 月輝は藍色の瞳に無数の星を散りばめてこちらを見つめてくる。俺のピアノなんて、彼女の目を輝かせるほどの価値はないはずなのに。


「けど、もう帰るんだろ? 音楽室は使えないし」


「どこか……あの、あ、海都の家とか!!」


 俺はびっくりして思わず硬直し、まじまじと目の前の少女を見返した。本人も、「言ってしまった」みたいな顔をして気まずそうなにこちらを見ている。


 ほんの少しの間、沈黙が流れる。それを破ったのは月輝の方だった。


「あっ、ご、ごめん!! 変なこと言って、困らせたよね。その、咄嗟になんか、出てきちゃって……深い意味とかないの全然! そういうアレじゃなくて、だから」


「ちょ、一旦落ち着いて」


 淡々と言葉を連ねていく月輝の舌鋒を制そうと、俺は彼女の顔の前に人差し指を立てた。彼女は言葉を遮られ、きゅっと口をつぐむ。


「えっと、俺の家、ちょっとした事情があって月輝を招き入れることは難しいと思うんだ。だから代わりに、学校でも家でもない、ひみつの場所を教えてやる」


「ひみつ……?」


「ああ。今から一緒に行こう」

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