音楽がなければ

 放課後になり、掃除を終えて旧校舎に向かうと、月輝は先に音楽室に着いていた。ドアをガラガラと開けて、開口一番に俺は言う。


「ごめん、掃除で遅くなった」


「ううん、私も今きたとこだよ」


 彼女は窓を開けて、五月の風に長い黒髪を靡かせていた。その姿は、さすがクラスの中心に立つだけの雰囲気というか、カリスマ性があった。

 そんなことを思っていた拍子、彼女はなぜかクスクスっと笑い出す。


「え、何。どうしたの」


 俺が尋ねると、彼女はおかしそうに目を細めて「だってさ」「いやぁ」とか言っている。


「いやほら、なんか今のやりとり、恋人みたいじゃん」


 くくくっ、と彼女は何が面白いのか腹まで抱えて笑っている。


「えっ、何なのほんとに。どこにその要素を感じたんだよ」


 俺が言うと、彼女は笑い過ぎて潤んだ目をこする。


「『ごめん、遅くなった』『ううん、今きたとこ』って、もうこれ完全にそうだよね?」


 はぁあ、おっかし。彼女はそう言ってようやく落ち着いたみたいだった。


「あ……うん、それ恋人の会話? なのか?」


「ええ? そうっぽくない? 昨日まで全然関わりなかったのにさ。もうこんな、名前で呼び合う関係になったんだなって思うとなんか不思議だよねぇ」


 月輝は感慨深げに間延びした声でつぶやく。いや、名前で呼び合うというか、そうなったのはどう考えても彼女が起因なのだが。


 だけどたしかに、昨日俺がここを訪れなければ、今朝も今も彼女と言葉を交わすことなんてなかっただろうと思う。

 そう考えた時に、やはり俺たちを引き合わせた因果とか縁とかいうものがあるんだなぁと彼女が感慨深げな顔をするのにも納得がいった。


「まぁ、音楽がなければ繋がってなかったしな」


「それ、素敵」


 彼女の声音こわねが変わった。透明で、朝靄みたいに実体はなく霞んでいる。だけどそれは彼女の心象の透視で、「これは本当に彼女が心の底から思っていることなんだろうな」と思わせる何かを纏っている。


 こっちが本当なんだろうか。


「音楽が、ピアノが私たちを引き合わせたって、何だかすごく不思議で、でも素敵だね」


 俺は邪推をやめて、彼女の藍色の瞳を見つめ返す。


「ま、そうだな」


 彼女は柔らかく、ただ微笑んだ。やっぱり、そうなんだろうなと思った。


「さ、ピアノ弾くんだろ?」


「あ、うん。昨日は月光を弾いたんだよね」


「……あ、そういえばちゃんと聞いてなかった。月輝の月光」


 純粋に興味がある。彼女が弾くピアノ。彼女が弾く月光。月光は俺にとって、クラシックの中でも特別な意味を持った曲だ。だから彼女が果たしてどんな月光を弾くのかというのはすごく気になった。


「じゃあ、今日も月光を弾くよ。もしかしたら幽霊さん、私の月光に反応してきてくれたのかもしれないし」


「そうだな」


 彼女はピアノの前に座り、ほんの少しのあいだ目を閉じる。そして開いた瞬間。



 音が、咲き乱れた。


 その音色には光があった。それはさながら幻想的でいて歪な、仄暗さをともなう淡い月の光のようだった。ほぼ無意識に、白く光る霊的な月が脳裏によぎる。


 神秘的でいてどこか危うくて、だからこそ思わず惹きつけられてしまう。


 思わずその音に吸い寄せられてしまう。その旋律には、濁流のような圧倒的な引力があった。


 この曲は本当に月光なのか? 旋律は同じなのに、そこに漂う雰囲気がまるで違う。それは深い湖の底に沈んでいくというよりも逆に浮遊し、水明から這い出して月の光を浴びるような。そんな音だった。


「っ……」


 そして。

 俺がまばたきをした瞬間にまた。

 彼女が現れた。


「月輝、そのまま弾きつづけて」


 月輝は一瞬こちらに視線をやり、すぐにその視線を鍵盤に戻す。


「あの、君は誰なんだ……?」


 ピアノを弾く月輝の隣。昨日と同じく、月輝そっくりの少女が立っている。


「……壊さないで…………」


「え?」


 真っ白な頬に、一筋の涙が流れた。少女はこちらを静かに見つめ、掠れた声でまたつぶやく。


「……が、泣いてる…………」


「それは、どういう」


 言い終える前に、気づけば少女は姿を消していた。


「あっ、おい……! まだ聞きたいことがっ」


 放った言葉は宙に溶け、微かな余韻を残して行き場を失う。


「海都……、どう?」


 月輝は演奏の手を止めて、不安げにこちらを見た。


「消えた、もういない」


「その、何か言ってた?」


 どうやら月輝には、少女の発した声なんかも届いていないらしい。


「『壊さないで』『泣いてる』……て、言ってた」


 少女はあまりにも儚かった。何が壊されるのか。何が泣いているのか。

 それが何なのかは分からないが、彼女がそれに対して心苦しさや痛みを感じているのだろうことは分かる。


「……壊さないで、か。難しいね」


 彼女は眉根を寄せ、少し寂寥を漂わせる。


「きっとこの音楽室に、特別な何かがあるんだよね。その正体はまだ何も分からないけど」


 救ってあげたい。彼女は最後にその一言だけを吐いた。俺もまた、そう思った。

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