止まってる
それからどのようにして先生が俺にピアノを教えてくれることになったのか、その経緯を回想する前に、俺は夢から覚めていた。
枕元でアラームが鳴っている。朝の目覚めは月光。先生には、どんだけ月光好きなんだよと軽く突っ込まれたことがある。
だけど、好きというよりは縛られているだけかもしれないとも思った。
「おはよう」
俺がリビングのドアを開けたと同時に、先生がキッチンから声を投げてきた。俺もおはよう、と返してキッチンに向かう。
先生は男のくせして料理がうまい。いや、男のくせにと言うと今の時代、やれジェンダーがどうとかそんな意見が飛び交う。
今は多様性の時代だ。男だからという固定観念はそろそろ捨てるべきだろう。
「何作ってるの?」
「今日はハムエッグ。スープも昨日のうちに作っておいたから」
先生は器用に数品の料理を提供する。毎食毎食、先生が食事を用意してくれる。俺は料理ができないので手伝えることは何もないが、そのかわり風呂掃除なんかは俺の担当だ。
俺は冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。
「先生、牛乳飲む?」
「いや。僕はコーヒーでいい」
冷蔵庫に牛乳をしまって、ダイニングテーブルに腰掛け牛乳を飲む。そういえばなんで朝は牛乳、そんな観念が生まれたのだろう。例えばこれが朝はコーラ、とかじゃダメなんだろうか。
なぜか牛乳と聞くと朝、腰に手を当ててグビグビ飲み干すものみたいなイメージが勝手に湧いてくる。
腰に手を当てて牛乳飲んだことなんかないのに。
そんなくだらないことを考えていると、先生が俺の目の前にハムエッグとパン、スープを置いた。
「ありがと。いただきます」
先生はコーヒーを注いで、俺の前の椅子に座る。
「……先生、食べないの?」
「あとで食べるよ。海都、急がなくていいの? 時間大丈夫?」
「あ、やっべ」
時計を見ると悠長に談笑しながら朝食をとるほどあまり時間に余裕はなく、ガツガツと用意されたものを貪る。
「ごちそう……」
パンを無理やりスープで胃のなかに流し込んで、ごちそうさまと手を合わせようとしたとき、むせ返って俺は胸を押さえる。その様子を、先生は呆れ顔で見ていた。
「もうちょっと落ち着いて食べなよ……」
「ごちそうさま、行ってきます!」
「気をつけてねー」
俺はリュックを背負って、家を飛び出した。
紅井宗一は台風のように家を出て行く青年の後ろ姿を見送って、ふぅとひとつ息をつく。
昨日は久々に月光を弾いた。しばらく弾かなくなっても、指が旋律を覚えている。それは宗一にとって皮肉そのものだった。
あの日々が失われても、この感覚は消えることはない。ある意味での戒め。ある意味での呪縛。
生涯ピアノから、月光から離れることなどできない。
あの日。海都と出会った日から、もう三年になる。海都はあの日の宗一と同じ年になり、そして自身もあれから三つ年を経た。
……何が、変わっただろうか。ずっと時が止まっている。三年前から、宗一の時は止まったままだ。少年との出会いも、環境の変化も、自分が変わるきっかけにはなり得なかった。
いいや、そもそも他力本願で変わろうとしていることが宗一にとって何よりの汚点だった。
コーヒーを一口飲んで、ふと時計の方を見る。
「ん?」
針の位置が、先ほどから変わっていない。
「これ……もしかして昨日の夜から止まってる?」
先ほど海都が時計を見た七時四十分で時計は止まっていた。スマホを取り出して時刻を確認すると、ロック画面に表示された時刻はまだ七時を過ぎていなかった。
「ああ……やらかした。ごめん、海都」
家の中で、宗一は小さく独りごちた。
俺が異変に気づいたのは、学校に続く坂道を登っている時だった。生徒の姿が見当たらない。いつもなら数人の生徒がちらほらと見えるはずなのに、今は俺一人しかいない。そして、やけに辺りが静かだ。
不安感をおぼえながら教室に向かうと、そこには案の定生徒の姿が見当たらなかった。……いや、いる。ひとりだけ。
開いたままの教室のドアから顔を出すと、教室の真ん中の席の方、このクラスの中心人物が然るべき場所に座っている。
俺は違和感を覚えた。なんというか、色がない。ふだんの彼女からは全く想像できない横顔。何も考えていないような、魂が抜けたみたいな顔をしている。
「白石」
俺が名前を呼ぶと、彼女ははっと肩を震わせてこちらを振り返った。
「あ……おはよう、海都。早いね」
その時にはもう、彼女は普段となんら変わらない表情を貼り付けていた。
「うん、おはよう。そっちも早いね」
「なんか……早く目が覚めちゃって。学校着いたはいいものの、ちょっとぼーっとしちゃった」
えへへ、と彼女は苦笑する。何なんだろう。そう思いながら俺が一番後ろの自分の席に荷物を置くと、白石は急に「あ!」と声をあげてこちらを見た。
「ねぇ、何で私は海都って呼んでるのに、そっちは月輝って呼ばないわけ?」
彼女はそう言って頬を膨らませる。
「そう言われても……そっちが呼びたいように呼んでるだけだろ? 俺も好きに呼ぶよ」
「……はぁ!?」
俺の返事に、彼女はなぜかキレ気味に言葉を連ねた。
「いやいや、ふつう片方が名前で呼んだらもう片方も名前で呼び返すでしょ!? 何で海都ってそう……あれなの!?」
あれって何だよ。呼び方なんて、大してこだわることでもないだろうに。けど、これ以上彼女を怒らせるのも面倒だなと思い、俺は素直に従うことにした。
「……分かったよ、月輝」
彼女は数瞬、固まってからすぐに笑顔を咲かせた。
「ふふふ、そうそう。それでいいんだよ! あ。今日の放課後、さっそく来てね」
思い出したように月輝は言葉を足す。
「え? どこに?」
俺が首を傾げると、彼女はまた眉を吊り上げた。
「もう、決まってるでしょ! 旧校舎の音楽室!!」
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