第5話 被疑

 顧客の到着を待つ間、新家は我が物顔で角田のデスクを漁っていた。よほどたしなめようかと夕美も思ったのだが、新家なりのやり方で協力をしてくれているのだと思うと、無下にはできない。

 ファイルを開いたり封筒の中身を取り出したりしていたが、そのうち彼は一冊のバインダーを手に腰を下ろした。

「さすが、仕事が丁寧だ」

 何のことかと振り向くと、彼の手にあるファイルの背表紙には「顧客情報」とある。依頼主のフェイスシートのことを言っているのだろう。

「興信所という性質上、中には質の悪いお客様もいるので。角田さんはうちが悪用されないよう、細心の注意を払っていました」

「身分証のコピーに顔写真、直筆の署名まで。なかなかできることじゃない」

 新家が誰かのことをここまで手放しに称賛するのも珍しい。自分が褒められたわけでもないのに、夕美は面映ゆくなった。

 車のエンジン音が聞こえた。どうやら、一人目の依頼主が――新家からすれば「被疑者」だろうか――到着したようだ。夕美は気を引き締める。

「肩が上がっているよ。呼吸を緩めて、息を吐いて」

 新家に言われ、そのとおりにする。肩と首周りから、ゆっくり力が抜けていくのを感じた。

「自分の責務を果たしてくれればいい。僕はここで見ているから」

 依頼主と話すブースから少し離れた位置のデスクに、彼は落ち着いている。

「ええ。ありがとうございます」

 夕美が言い終えると同時に、事務所の扉が開いた。


 一人目の依頼主は、温和そうな男性だった。名前は「黒川」で、依頼内容は妻の浮気調査。これまでにも数度、浮気をされた経験があるらしい。そして最近、再びその兆候が見られるようになったのだそうだ。曰く、スマートフォンを隠すようにして誰かと連絡を取り合っているだとか、仕事を理由にした残業や出張が増えたとか。

 夕美は努めて事務的に、所長の訃報と、調査の継続が難しい旨を伝えた。

「それは、何と言っていいか……」

 黒川は言葉を失っているようだった。至極一般的な反応であるように思える。

「依頼については申し訳ございません。いただいていた前金等は払い戻しいたしますので」

「いいんです、いいんです。そんな大変なときに、こちらこそすみません」

 手を振って言う。穏やかな人柄が透けて見えた。

 そのまま必要な書類等の記入を済ませてもらい、夕美が話すことなどは早々に終わってしまった。

 ――どうしようか。

 新家はこれでよいのだろうか。自分の仕事に専念すればよいと言われているが、さすがにこれでは何の手掛かりにもならないだろう。かと言って、これ以上会話を引き延ばすのも不自然だ。

 黒川は、「では」と言って立ち上がってしまう。少し物分かりがよすぎる気もするが、それはこちらが必要以上に構えてしまっていたせいもあるだろう。依頼のキャンセルにさえ納得してしまえば、先方がここに留まり続ける理由などどこにもないのだ。

「どうも、こんにちは」

 唐突に、声が降って来る。いつの間にかブースの衝立に並んで、新家が立っていた。

 黒川は怪訝な顔で、「あ、ど、どうも」と返事をしている。

「この度は、こちらの都合ですみませんね」

「いや、そんなことは」

 黒川はどうやら、新家のことをここの調査員だと心得たようだ。新家はぞんざいに手元のファイルをめくる。そして、一枚の写真をつまみ上げてみせた。依頼の際に受け取っていた、黒川の妻の写真だ。

「奥さん、お綺麗ですね」

 黒川は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、わずかにその頬へ赤みが差したようだった。

「こんなに美人な奥さんがいたら、さぞご不安でしょうね。いいなあ、僕も狙っちゃいたいくらいだ」

 黒川の上半身がわずかにぐらついたように見えた。鼻の穴が膨らみ、顔の赤みは先ほどよりも増している。

 なぜ新家がこんなふうに相手の心を逆撫でしているのか、夕美には理解できなかった。妻の浮気を疑っている男に、こんなふうに言えば、気分を害して当然だろう。

 何も言えずにいる黒川の隣で、何かフォローをしなくてはと考えながらも最善手が分からず、夕美も固まってしまった。

 新家はふっと笑みをこぼし――夕美には鼻で笑ったように感じられた――とりなすように首をかしげてみせた。

「なんてね。冗談ですよ」


 黒川は、そのまま狐につままれた表情で帰っていった。

「ちょっと、どういうつもりですか?」

 さすがの夕美も、新家を咎めた。彼は何も意に介していない様子で、ファイルをぱらぱらやっている。

「確かめたいことがあったからね。さ、次だ次。あと二件あるんだろう?」

 相変わらず手の内を明かさない。そもそも、先ほどの不愉快極まりない軽口で何を確かめられたと言うのだろう。

 ただ、それについて深掘りしている時間はなさそうだった。新家の言ったとおり、断りを入れなければならない依頼はあと二件残っている。幸運なことに依頼主全員の都合がついたため、今日一日で全ての案件を片付けられることになっているのだ。

「えーと、次は何々? 病院の先生か」

 新家が面倒そうに呟いた。


 二人目の依頼主は、個人経営の病院で院長をしている。名を南城と言う。医療事務として働いているパートの一人が、どうやら患者に個人的な連絡を送り付けているらしい。カルテをもとにSNSで連絡を寄越すなど、院としての信用にも関わることから、こうして調査を依頼したとのことだ。

「そんなことがあったんですね。お悔み申し上げます」

 南城は慇懃にそう述べた。もう六十は超えているのだろうが、髪は黒く染められ、スマートなスーツを着こなしている。老紳士という言葉がぴったりに思えた。

「手続きだったり、引継ぎだったりでお忙しいでしょう。依頼の件は引き下げますので、ご安心ください」

 一件目と同様、こちらも物分かりがよさそうだ。夕美はてきぱきと事務手続きを進める。ちらりと横目で盗み見ると、新家は何やら難しい顔をしてファイルを見つめていた。少なくとも、今回は茶々を入れる気がないらしい。

 全ての作業を終え、南城はマフラーを首に巻き付けながら立ち上がった。夕美も見送るために腰を上げる。

「角田さんには本当に、親身になって話を聞いてもらいました。感謝してもしきれないくらいです。何か分かったことはあるんですか? 犯人とか」

 犯人、と聞いてぎくりとする。今まさにその犯人を探っているところです、などとは口が裂けても言えまい。

「まだ何とも。警察の報告を待つのみです」

「そうですか」

 南城は深いため息を漏らす。

「それでは失礼します」

「御足労お掛けしました」

 南城が扉を開け、外へ出ていこうとする。と、夕美の隣に新家が進み出た。

「娘さんにも、どうぞよろしくお伝えください」

 彼の言っている意味が分からず、夕美はぽかんとする。南城も同じだったようで、何が何だかという顔をしたまま立ち尽くしていた。

「では」

 新家は扉を閉めてしまう。すりガラスの向こうで、南城は口を「は?」の形に開けたまま固まっていた。

 ふたたび入って来るかとも思われたが、しばしの時を挟んで、南城の影は駐車場の方向へと消える。

「娘って、どういうことですか? もしかしてお知り合い?」

「いや」

 新家は首を振る。

「後で説明する。さあ、次の準備だよ」

 にべもない。彼はそのままデスクの方へと戻ってしまった。新家の考えていることが何も分からない。微かな苛立ちを感じながら、それでも夕美は身体を動かす。やるべきことはいくらでもあるのだ。


 三人目の依頼主は、夕美でも名前を知っているシステム会社の人事担当者だった。名前は吉岡。何でも、近年はライバル会社との引っこ抜き合いが激化しており、目を付けたシステムエンジニアの素行を調べておきたいのだと言う。この興信所にも依頼を繰り返しており、本件が六件目だった。

 吉岡はビジネススーツに身を包んだ壮年の女性だった。

 一通り夕美が説明を終えると、聡明そうな目で見返してくる。

「大変な状況下というのは重々承知の上で申し上げますが、本社はこれまでに何度も依頼をさせていただいておりますよね? それなのにこれといった救済策もなく『キャンセル』だけを求められるのは、いささか不親切なのではないでしょうか」

 夕美の胸に、何か鋭利なものが突き刺さったようだった。こういった反応が返って来ることも予想はしていたし、相手の言うことももっともだ。しかし、これまでの二件があっさりと終わったことから、夕美自身油断していた部分もあったのかもしれない。

 改めて、興信所の現状と、どうしても人員が割けない旨を説明する。夕美たちも、決して彼女らのような「得意先」を無下にしたいわけではなかった。ただ、現実的にこの案件を滑り込ませる余地を見つけられなかったのだ。

 申し訳なさ、これまでの感謝、そういったものを誠心誠意言葉にする。もし依頼を続行するとすれば、それはせいぜい半年後になってしまうことも申し添えておく。

 知らず知らずのうちに、夕美の目には涙が溜まっていた。

「そうね。もういいわ」

 つっけんどんに吉岡は告げる。苛立ちが、所作の節々から感じられた。

「別に、あなたを泣かせたいわけじゃないの。ただ、うちにもうちの事情があるわけ。それは知っておいて。さ、それで、どの書類を書けばいいの?」

 夕美はあたふたと書類を準備する。記入する順番通りに並べておいたはずなのだが、頭が真っ白になってどれがどれだか分からない。落ち着かなければ、と思うのだが、その「落ち着かなければ」という言葉ですら大写しになってわんわんと頭の周りを飛び回っているようだ。

 吉岡はこれ見よがしにため息をついてみせた。

「あなたねえ、これくらいのことでパニックになっていてどうするの? うちの会社だったら絶対にやっていけないわよ」

 正論だ、と思う。自分がずっと温室で育ってきたとまでは言わないが、それでもあからさまな矢面に立ったことなど無かった。今までは、火種を感じると必ず角田が間に入ってくれていたのだ。そして、その彼がもういないのだということを、今まさに痛いほど感じている。

 とん、と足音がした。

 椅子を引く音、そして、鈍い着席音。安いパイプ椅子がギシリと鳴った。

「お手数をお掛けしております。ここからは私もお手伝いさせていただきますね」

 新家の手が、柔らかく、しかし素早く書類の束を夕美から受け取った。

「まず、こちらの御署名から確認いただきまして――」

 興味がない素振りばかりだったが、その実、夕美の仕事を見ていたのだろう。新家は過不足なく手続きを進行していた。

 普段の傍若無人な態度は鳴りを潜め、例の「目が笑っていない」営業スマイルで接客する。夕美は少しして我に返った。自分は今、新家にかばわれたのだ。

 うまくいかなかったことは仕方がないが、いつまでも消沈しているのは違う。立て直しを図らなくてはならない。呼吸を整えて、肩の力を抜いた。

 書類が多いと吉岡がぼやいている。新家は「どうもすみません」などと口先だけで謝り、次に渡すべき資料を整理し始めた。

 その様子を見ながら、少しずつ冷静さを取り戻しつつあることを自覚する。このまま新家に頼りきりではよくない。少なくとも、最後の挨拶くらいは自分から発しよう。

 夕美のそんな覚悟は、脆くも崩れ去ることになる。

 書類がひと段落したところで、吉岡が再び、夕美の対応のまずさについて難癖をつけ始めたのだ。

「お兄さんはここの調査員かなんか? まあ、それはどうでもいいんだけど。この人、いつもこうなの? せっかくこっちが提案を受け入れようとしているのに、勝手におどおどしちゃって。まるで私が悪者みたいじゃない」

 夕美の思考は、再びまとまりを欠いていく。吉岡の吐いた一語一語が、頭のてっぺんから爪先までを去来し、じんじんとした痺れが全身を伝う。

 吉岡は、いよいよ不満を垂れ流し始めた。話が巻き戻り、そもそもなぜ自分たちがキャンセル扱いになるのかというところから、再び文句が始まる。

 新家の方を見上げると、彼はいつかの町内会と同じ、微笑を浮かべていた。

 そして、吉岡の話を見事に断ち切った。

「もう黙ってもらって結構ですよ」

 その言葉に、吉岡は唖然とした表情を浮かべる。

 新家はにこやかに立ち上がった。

「必要な書類はいただきました。お手数をお掛けし申し訳ございません。お忙しいところ、弊社まで御足労いただきまして誠にありがとうございました。それでは、お引き取り願えますでしょうか」

 そこまでを一言で言い切ってしまう。

 吉岡は「今までの恩をあだで返すのか」「これが顧客に対する態度か」と息巻いていたが、長身の新家に見下ろされるのはそれなりの威圧感があったと見えて、コートを抱えると表へ飛び出していった。


「情けないところを見せてしまって、すみませんでした」

「そうだね」

 その返事を聞いて、自分が新家と話していたのだということに改めて気付かされる。むしろ、優しい返しを期待していた自分が愚かだったのだ。

 夕美と新家は、誰もいない興信所内でコーヒーをすすっていた。新家は足をぶらぶらさせながら、手帳に何かを書き綴っている。

 夕美は、彼の手帳に「吉岡○○」と書かれている様子を想像した。物部のように、新家の不興を買った人間は、名前を書き込まれる。そして、何らかの制裁を受けるのだ。裁かれた者の名前には、「完了」の文字が添えられる。

 そんな妄想を振り払い、改めて新家の様子をうかがう。先ほど夕美のことをかばってくれた人間と同一人物とは思えない、尊大でぞんざいな態度。少なくとも、吉岡との攻防を見ていたにも関わらず、慰めの一言もないのはさすがだ。ただ、不思議なことに新家からそんな態度を取られても、夕美の胸は痛まなかった。むしろ清々しいまである。

「なんだか、よく分からなくなっちゃいましたね。私としては当初の目的は達成できたのでいいんですが、新家さんにとっては――」

「僕にとって? どういうこと?」

「その、犯人捜しのヒントなんて、きっと見つからなかったですよね? それが申し訳ないなって」

「何言ってるの?」

 本当に何を言っているのか分からないらしい。眉間にしわを寄せ、夕美の方をじっと見つめてくる。

「犯人、いたよ? あの中に」

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