第4話 葬送

 角田は、夕美の「合格」を我がことのように喜んでくれた。

 喫茶店を出たその足で、興信所に戻ったのだ。角田には、一刻も早く、結果を伝えたかった。茶封筒に入った書類を難しい顔で睨みつけていた彼は、夕美の表情からすべてを察したらしい。封筒を脇へ放り出し、柄にもない拍手と万歳三唱を繰り出した。

 甘いものが苦手なくせに、ケーキでも買ってこようと言うので、夕美は「大げさですよ」と固辞する。

「課題は、檸檬関係だった?」

 角田にそう聞かれ、夕美は即座に頷く。やはり角田も「試験」を受けていたのだ、そしてやはり檸檬がらみの課題だったのだ、と合点する。

「でも結局、出題意図みたいなものは聞けずじまいでした。私の何がよかったのか」

「まあ、気になるだろうな。でも合格は合格だ。卑屈になる前に、とりあえず喜んでおこう」

「そうですけど」

 合格そのものは当然嬉しいのだが、もやもやとした気分が残る。どことなく、「サイコロを転がしたら奇数だったからあなたは合格です」と言われているような、そんな感じだ。夕美がやったことと言えば、檸檬の絵を描き、梶井基次郎の「檸檬」のあらすじを述べ、檸檬への購買意欲を削ぐようなキャッチコピーを書き出しただけ。絵の出来がよくて、あらすじに過不足がなく、キャッチコピーが秀逸だったと言われればそうなのかもしれないが、それと夕美への信頼感がどうつながっているのか。いまいち、あれが新家にとってどんな意味合いのあるものだったのかが掴めない。

「角田さんも、檸檬の課題を成し遂げられたんですよね?」

「まあ、うん」

 角田は曖昧に頷く。

「俺のときは、八百屋に連れていかれて、『握ってみてしっくりくる檸檬を一個選べ』とかって言われたな。他にも一、二個の課題があったと思うが、忘れた」

 握ってみてしっくりくる檸檬。それもまた不思議な課題だ。

 夕美が釈然としていないことに気付いたのか、角田は曖昧な笑みを浮かべた。机上に放り出したままの茶封筒と書類を丁寧にまとめながら、「心配ないさ」と言う。

「課題の意味は、いずれ新家本人が教えてくれる。ただ、これは俺が勝手に話していい類のものではないんだ。彼が坂本くんに自分の口で説明する。そのことに意味がある」

 角田の言っていることの半分はよく分からない。しかし、「いずれ新家本人が教えてくれる」という言葉は大いに励みになった。つまり、あの課題にも意味は確実にあるのだ。新家は明確な意図のもと、あの課題を出した。そして夕美はそれを乗り越えたのだ。

「一つだけ言えるのは、新家が坂本くんに対して『得るものがある』と思ったということだね」

「得るものがある、ですか」

「そう。彼のような人間から、信頼を勝ち取るのは難しい。言葉を弄せば弄するほど警戒される。正直、ちょっとサイコパスな感じがするだろう?」

 それは大いに頷ける。自分が世界の中心であるかのような態度。行動の唐突さ(喫茶店で他の客に水を掛けるなんてことは、どう逆立ちしても夕美にはできそうにない)。そして、恐怖心の(あるいは感情全般の)欠落。

 そうした特徴を、いわゆるサイコパスの必要十分条件として結び付けるのは短絡的かもしれない。ただ、「サイコな人物」というレッテルを想起するには十分と言えた。

「彼が見出そうとしているのは、坂本くんが自分にとって有益な人材かどうかだよ。彼が依頼を解決する対価として、こちらはいくらかの金銭を渡す。そこにプラスアルファで、彼に対して、何らかのメリットをもたらす。そのメリットのことを、彼は『信頼』と呼んでいる」

 分かるような分からないような話だった。これほど抽象的な言い回しを角田が用いるのは珍しい。しかし、その表情は真剣そのものだ。

「つまり、間違いなく坂本くんは新家の信頼を勝ち取ったんだ。君とつながりをもつことでメリットがあると、彼に思わせたわけだよ」

「そんな。でも、ありがとうございます」

 角田の言っていることがどこまで本当かは分からない。もしかしたら、幾分のリップサービスも含まれているのかもしれなかった。しかし、夕美は十分に自尊感情を回復したし、場をおかしな空気にすることなく、素直に角田の称賛を受け入れることができた。

 新家のノートに、物部の名前が書かれていたこと。そして、銀色のセダンが――物部の乗っていたものと同じ車が――高速道路で炎上する映像を見たこと。それらが一瞬、夕美の脳裏をよぎったのだが、すぐに霧散した。ただの偶然だ。新家のノートに書かれていたのは、あの物部ではなく、同じ苗字の別人だ(きっと依頼人の一人だろう)。それに、銀色のセダンなんてものは、世にありふれている。物部の車と決まったわけではない。

 角田は上機嫌で、普段は飲まない高級なドリップコーヒーの袋を取り出した。やっぱりケーキを買って来よう、なんて言う。

 だから、いいですって。甘いもの苦手でしょう?

 夕美がそう言うと、いやいやこんなときくらい、と相好を崩している。

 また新家も含めて三人で、喫茶店でお茶をしよう。そのとき、ケーキをおごるよ。

 角田の台詞に、夕美は笑ってしまう。

 新家さんはやっぱりレモンケーキかしら? それに、三人でお茶をするなんて、どうせまた何かを依頼するときでしょう?

 確かにな。もしかしたら殺伐とした雰囲気かもなあ。

 二人でそう笑い合う。他の調査員も相談員も出払っていて、二人きりの社内。遠慮のない角田の笑い声が、いつまでも反響していた。

 結局、ケーキの約束は果たされることがなかった。

 翌日の夜、角田が殺害されたのだ。


 雨が降っている。

 夕美は傘をさして立っていた。コートの肩を雨粒が伝い、幾筋かの跡を残す。

 クラクションの長鳴り。ステーションワゴンを基とした洋型の霊柩車がゆっくりと進み出した。

 参列者たちは傘を一列に並べ、それを見送る。

 黒塗りの車体が少しずつ遠ざかっていく。

 静かだった。

 雨音以外に何も聞こえない。車の音も、人々のざわめきすらも。

 隣に立つ相談員が、ハンカチを口元に当てている。

 普段は陽気でよくしゃべる調査員たちも一様に黙りこくり、いつしか見えなくなった霊柩車の方向をただ見つめ続けていた。

 雨が降っている。

 ただ雨が降っている。

 角田が連絡もなく姿を消し、その二日後に、山中で彼の遺体が発見された。

 視察と見られるらしい。胸と脇腹に複数の刺し傷があり、そのうちのいくつかが肺と肝臓にまで到達していたとのことだ。

 夕美の「合格」を祝ってくれたのが、角田との最後だった。

 ――ケーキを食べておくんだった。

 脈絡なく、そんなことを思う。

 角田の言葉に甘えて、一緒にケーキをつつけばよかった。そうすればもっと、彼の柔らかい声を聞けたのかもしれない。広い肩幅の上に乗った、あの横顔をもっと長く見つめられたのかもしれない。

 雨が降っている。

 その上空に、分厚い雲が天蓋みたいに吊るされている。

 雲の脇に建つ廃ビルへと、夕美は視線を転じた。

 壁は黒く煤け、やぐらが影だけ残して消え去ってしまったような建物。その屋上に、人影が一つ佇んでいる。

 ――新家さん。

 訃報を伝えた電話で、彼は短く「そうか」とだけ言った。葬儀には参列しないとも。

 その彼が、傘もささず、角田を見送っている。

 遠目であるにも関わらず、夕美にはその表情がよく見えた。

 濡れそぼった髪から水を滴らせながら、口を真一文字に結んでいる。ついぞ笑ったところを見せることのない眼が、静かに、角田を運ぶ車を追い続けている。

 夕美たちが屋内に移動するときも、彼は微動だにせず、雨に打たれ続けていた。


 十分に悼む時間も取れないまま、夕美たちは興信所の今後に関する対応に追われた。社長の死に伴う事務手続き。今受けている依頼の整理。そして、この興信所を畳むか、存続させるのかの検討。

 古株の調査員たちが額を突き合わせて、何とか古巣を守れないかと模索してくれている。これについては、わずかずつではあるが希望が見えてきた。

 継続中である依頼についても、分担体制を見直すことで中止せず進められそうだ。

 しかし、角田が相談に乗っていた三つの新規依頼については人員が割けず、断るほかなさそうだった。依頼主に来所してもらい、事情を説明する役目を夕美が担うことになった。

 新家から連絡があったのは、そうした方向性がおおよそ固まったころだった。

「そちらはどうです?」

 電話口からは、これまでと変わらない淡々とした声が聞こえた。

「ようやく一段落、といったところでしょうか。まだやるべきことは山積みですが」

 夕美はかいつまんで現在の状況を説明する。

 新家はいつになく丁寧に、うん、うんと相槌を打った。

「それ。その、依頼を断るってやつ」

「ええ」

 実のところ、断らざるを得ない依頼について、新家に協力を願い出ることも考えた。しかし、受けてもらえるかどうか不透明であることに加え、夕美以外の所員は新家と面識がない。ともすれば、彼のような外部の協力者が存在すること自体、知っているのかどうか怪しい。

 ここで新家が協力してくれると申し出てくれるのであれば、あるいは依頼を断らずに済むのかもしれない。しかしそのときは、他の所員にどう説明したものか――。

 しかし新家の発した言葉は、夕美の予想とは異なるものだった。

「同席できますか?」

「えっと、新家さんがその場に同席するということでしょうか?」

「そう」

 夕美は考えを巡らせる。所員たちは依頼や事務処理のために方々へ出払っていて、依頼主の来所には夕美が一人で対応することになっていた。つまり、新家がいたとしても、他の所員に見咎められることはない。しかし、夕美の一存で部外者を同席させてよいものだろうか。

「それは、なぜ?」

 新家の意図が見えない。夕美は努めて落ち着いた調子を保ちながら、そう尋ねた。

「少しでも可能性があるならば、一つ一つ確かめておきたいんです」

 可能性。何の可能性があるというのだろう。

 それについて夕美が質問を重ねる前に、新家は言った。

「犯人の可能性です」

「犯人?」

「そうです」

 新家ははっきりと言い切った。

「角田さんを殺害した犯人。僕が見つけます」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る