第3話 試験
「試験」当日も、新家は十二時きっかりに扉を開けた。
「こんにちは」
「どうも」
相変わらず目は合わない。一直線に席までやって来て腰掛ける。
「早速ですが、今日は三つの課題に取り組んでもらおうと思います」
言いながら、ビジネスバッグの口を開け、スケッチブックとペンケースを取り出した。無駄のない、さっさとした動きだ。本人にそんなつもりはないのかもしれないが、どこか苛立っているようにも見える。
夕美は身構えた。どんな課題が待っているのか、全く予想できない。新家が夕美の反応をどう評価するのかも分からない。今の時点で理解できているのは、ここで新家に「不可」を突きつけられれば角田の顔に泥を塗ることになるということだけだ。角田自身は気にしないだろう。むしろ、夕美を労わってくれるはずだ。しかし、そんな風に気遣わせてしまうことに、夕美自身が耐えられそうにない。
新家はてきぱきとスケッチブックを広げた。その横に鉄製のペンケースを並べる。蓋を取ると、その中にはぎっしり色鉛筆が入っていた。
それで説明を始めようとしたのだろうが、あまりにもしゃちほこばった夕美の姿が面白かったのだろうか、少しだけ表情を軟化させた。
「緊張していますか?」
「ええ。とても」
取り繕っても仕方あるまい。夕美は正直に答えた。
「大丈夫です。僕の専門領域は電子工学と高エネルギー物理ですが、そんな類の問題を出すつもりはありません」
だから緊張せずにやってみてください、という彼の言葉が、どこか白々しく聞こえる。
新家は改めて、スケッチブックと色鉛筆を指した。
「一つ目の課題です。今から檸檬の絵を描いてください。可能な限りリアルに」
夕美は面食らった。檸檬? なぜ?
「檸檬ですか…?」
余計なことは言うまいと思っていたが、気付くと口から漏れていた。否定的な響きに聞こえたのでは、と上目で見たが、新家の方は別段気にする素振りがなかった。
「そう、檸檬です。勝手に輪切りなどにしないでください。皮のついた檸檬を丸ごと描く。時間は問いません」
「分かりました」
自分が何をさせられようとしているのか全く分からない。バウムテストのようなものだろうか? 描画から、その人間の心理を読み取るような――バウムテストで描くのは「木」だが。
ペンケースの中に黒の鉛筆を見つけ、まずは下書きを、と手に取る。
新家はカバー付きの文庫本を開いた。どうやら、描いている過程には興味がほとんどないようだ。
夕美は特段器用な方ではない。しかし、模写には多少の自信があった。目で見えるものを見えるままに――半ば機械的に――紙上に表すのは、彼女にとって分かりやすい作業だった。しかし、自分でアイディアを出したり構図を決めたりする活動は壊滅的と言える。どう頭を絞れば、オリジナリティやら柔軟な発想やらを掘り当てられるのか分からない。
今回は模写ではないものの――明言されていないがおそらく画像検索はご法度だろう――頭の中で檸檬を思い描き、それを紙面に写し出せばいい。大丈夫、できる。
夕美はそれから三十分間、黙々とスケッチブックに向かった。
新家は、出来上がった夕美の「檸檬」を様々な角度から眺め回した。かと思えば檸檬の上に手を置いて、大きさを確かめている。
思いがけず真剣な様子に、やっぱり新家にとって何らかの意味があったのだ、と今さらながら夕美は思う。それを汲むのは不可能だったので、夕美はひたすら指示どおり、リアルさを追求した。大きさや色合いはもちろん、光源の位置を考えて、立体的に見えるよう影も付けた。後は信じて待つしかない。
「うん、悪くない」
新家が、そう言ったとき、夕美は長い呼気を漏らした。知らず知らずのうちに息を止めていたらしい。
夕美の絵を彼はスケッチブックからはがし、大事そうに折りたたんで胸ポケットへ入れた。
「では、次の課題です」
コメントやテストの種明かしがあってもよさそうなものだが、そうではないらしい。新家はちらりと夕美に目をやって、手に持った文庫本を掲げた。
「梶井基次郎の『檸檬』は知っていますか?」
再び面食らう。今度は小説に関する課題、それもまた「檸檬」だ。新家は先ほどからレモンティーを飲み続けているが、檸檬好きなのだろうか。
「すごく短い話ですよね。学生時代に授業の課題で読んだことがあります」
「それでは、梶井基次郎の『檸檬』についてあらすじを説明してください」
あらすじ、か。夕美は頭を捻る。文学専攻の学生たちであれば、嬉々として語り始めるのだろう。あいにく、夕美にはそんな芸当など不可能だ。当然、作品のテーマも理解していなければ、自分なりの解釈なども持っていない。だから、考察や解釈を盛り込むような無謀な真似はせず、自分の知っていることを端的に話すしかないだろう。そう腹をくくった。
「主人公は精神的に不安定で、憂鬱な気分や不安のようなものを常に感じていました。ある日、ふと立ち寄った果物屋で檸檬を買います。その後、文具書店に行き、本を――画集だったかしら――積み上げて、そのてっぺんに檸檬を置いて店を出ます。そうして、あの檸檬が爆弾だったらどうだろう、と想像する、という話だったと思います」
話しながら、思った以上に自分が内容を覚えていることに驚いた。同時に、思った以上に説明がこれほど短く済んでしまったことにも面食らう。簡単にまとめすぎたのではないだろうか? しかし当然、後の祭りだ。
「檸檬」を読んだ当初は、何を伝えたい話なのか全く分からず、首を捻った記憶がある。一方で、主人公の感じる憂鬱の描写には心惹かれるものがあった。憂鬱という感覚は、非常に曖昧で、無形で、全体的なものだ。それを果物屋の暗い情景描写や、主人公の危うい独白に託して描いてあるのは面白い(そしてこれらは教授の話の受け売りである)。
「うむ」
新家は頷いた。相変わらず淡々とした反応だ。彼の反応からは、自分の答えが的を射ていたのかどうかも読み取れない。
「では、最後の課題です」
拍子抜けとはこのことだろうか。一つ目の課題には三十分以上の時間を掛けたのに、この二つ目の課題は二分足らずで終わってしまった。そしていよいよ、課題の出題意図が分からない。これらの課題に何かの意味があるのだろうか。それとも、適当な課題を設定して、それに対する取り組みの度合いでも見ているのだろうか。分かるのは、どうやら新家が檸檬という果物に執着しているらしいということだけだ。
「これも、絵と同じでどれだけ時間を掛けてもらってもいいので」
相変わらず何を考えているのか分からない調子で、少しだけ目線を夕美の方へ寄越してから、新家はてきぱきと言う。そして、ペンとノート一冊を取り出し、夕美の前へ置いた。ノートには革のカバーが掛けられていて、中ほどまで使われているらしい。開かれた新しいページは白く、見るからに高級そうな材質だ。
「檸檬を買いたくなくなるようなキャッチコピーを考えてください」
夕美は笑い出しそうになり、すんでのところで押しとどめた。また檸檬だ。しかも「買いたくなくなるようなキャッチコピー」を考えるらしい。ここまでくると、やはり新家にからかわれているのではないか、という気さえしてくる。「試験」の結果がどうであれ、彼は夕美を信頼するつもりなど毛頭ないのかもしれない。
新家の方へ視線を向けると、驚くことに彼はじっと夕美のことを見つめていた。今度は、夕美の一挙一動を観察するつもりらしい。見られている状態では落ち着かず、冷めたコーヒーを一口含んだ。
檸檬を買いたくなるキャッチコピーなら考えやすい。檸檬の良さを強調し、あるいは比喩的でインパクトのあるフレーズを(それが夕美の頭で創り出せるのかどうかは置いておいて)模索すればよいのだ。しかし「買いたくなくなるようなキャッチコピー」である。
新家の視線を感じながら、夕美は卓の一点を見つめ、考え続ける。
何かを禁止、あるいは注意喚起するようなポスターを想像するとよいだろうか? 「檸檬ダメゼッタイ」「檸檬購入注意」「檸檬撲滅キャンペーン」。
「いくつか、メモで書きとめてもいいですか?」
「ええ」
とりあえず、思い付いた三つを書き出すと、新家が短い鼻息を漏らした。数秒遅れて、笑われたのだと気付く。上目遣いでにらむと、彼はすでに無表情へと戻っていた。
にわかに腹が立つ。好きで「檸檬撲滅キャンペーン」なんて文言を書いているわけではないのだ。課題を提示した張本人(諸悪の根源とも言える)に、笑われる筋合いなどないはずだ。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。角田も言っていた。新家に振り回されていてはいけない。目の前のことに集中するのだ。
一度、「撲滅キャンペーン」からは離れた方がよかろう。他に、どんなやり方があるだろうか? ペンの先で、何度か額をつつく。創造性を求められる課題。夕美にとって、天敵とも言えるタイプの「試験」だ。
新家は「檸檬を買いたくなくなるようなキャッチコピー」と言った。つまり、ただ禁止するだけでは意味を成さないのかもしれない。檸檬を買いたくなくなるような罰を設定してはどうだろうか。たとえば、「飲酒運転をしたら罰金〇万円」みたいに。もちろん現実に、檸檬を買ったら罰金なんてことはあり得ない。実行可能な例としては、筋力トレーニングのような罰ゲームだろうか。
とりあえず、「檸檬を買ったらスクワット百回」をメモしておく。
「ぶふ」
新家が、らしくない声を上げる。笑われている。
今度こそ、夕美は顔を上げて正面から非難の目を向けた。
完全に小ばかにした表情をしていた新家は、咳ばらいをして真顔に戻り、「続けて」と言った。
夕美は深呼吸し、作業に戻る。
あるいは、不気味さを前面に出すのもよいかもしれない。海外では、煙草のパッケージに臓器の画像(長年に渡る喫煙で毒されたものだ)を記載する国だってある。そんなふうに、檸檬に嫌な感じを纏わせることができれば――でもどうやって?
夕美は頭の中の檸檬を(先ほど檸檬の絵を描いたときに、記憶から引っ張り出してきたものだ)、眺め回す。
分厚い皮は、これでもかと明るい黄色に染まっている。その表面は、なだらかに波打っていて、わずかな窪みが並ぶ。皮をむくと、白い繊維がちぎれ、中に瑞々しい(そして唾液の分泌を促進するような)果肉が見える。
――繊維。
夕美はそこへ目を留めた。白く、うっすらと通った筋。果肉の一切れ一切れを隔てる薄い壁。
ペンを握り、ノートへ書きつける。
「神経の通った檸檬をかじる」
知らず知らずのうちに、小声でそう読み上げていた。
白くて大きな前歯が、果肉を齧り取る。繊維の一本一本には神経が通っていて、それらが引きちぎられすり潰される痛みに、誰にも聞こえない悲鳴を檸檬は上げる。
「もう一度」
気付くと、新家も身を乗り出すようにしてノートを覗き込んでいる。
「神経の通った檸檬をかじる」
「うん。それで行こう」
何が「それで行こう」なのか知らないが、新家は夕美からペンをひったくり、もうそれ以上の作業を認めなかった。
「うん。いい。とてもいい」
どうやらお眼鏡にかなったらしい。だが、ここまで肯定されるとむしろ反応に困る。
「試験は終わりです。合格」
さらっと言ってのけ、夕美は「合格」の言葉を危うく聞き逃すところだった。
――合格。
変わり者の新家に認められた。その事実が、現実感なく漂う。結局、夕美の何が要因となって合格できたのか、一切分からない。当然喜ぶべきなのだろうが、どんな反応をすればよいのかどうか、夕美の頭は混乱を極めた。
新家は、少し待っているように言い残し、伝票をもって会計へと向かった。ちょうど昼食を食べ終わった工事関係者と思しき一団が会計中で、やや時間が掛かりそうだ。
ふとした出来心で、夕美はノートの頁をめくった。新家がどんなことを書き綴っているのか気になったのだ。
「キーワード、『金持ち』、『主婦』、『抑止力』」
これは以前、角田と夕美が相談を持ち掛けた事件に関するメモだろう。三つのキーワードのうち、「抑止力」にぐるぐると丸がつけてあり、そこから矢印が引かれ、「薬物?」と添えてあった。
さらにページを遡る。そこを見て、夕美は眉をひそめた。
「堤圭一 完了
酒井理子 完了
東出稔 完了
厳島寛太 完了
城嶋静香 完了……」
名前が何ページにも渡って、ずらりと並んでいる。その下に「完了」の文字。
――何だろう、これ。
最初思い浮かんだのは、依頼人の名前ではないかということだ。新家は、フリーで調査協力や取材協力をしている。だから、興信所なり出版社なりから依頼を受け、依頼内容の達成あるいは金銭の授受が済んだ時点で「完了」なのではないか。
しかし、ざっと見たところでは、角田の名前がなかった。まあ、取り立てて気にするようなことではないのかもしれないが。
目を落としたところで、夕美は自分の違和感に気付いた。
「物部誠人」
その名前が、最も新しく書かれたもののようだ。そして、「完了」の文字はまだない。
物部。夕美はそのフルネームに見覚えがある。町内会長について調査を興信所に依頼した(そしておそらく、会長いじめの主犯である)男。先日の町内会で、新家に対して暴言を吐いた男。
店内のテレビには、ニュース映像が映し出されていて、中年の男がつまらなさそうにそちらを眺めている。
高速道路をヘリコプターから撮った画。どうやらリアルタイムの映像であるようだ。
道路上では、一台の車が炎上していた。事故でも起こしたのだろうか。
夕美は目を細める。画質がよいとは言えないが、何かが引っ掛かったのだ。
駆けつけた消防車が消火活動に当たっている。弱まった炎と煙の隙間から、事故車の全貌がちらりと見えた。
見覚えのある、銀色のセダンが燃えていた。
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