第2話 邂逅
興信所のブースで夕美は相談者と対面していた。昼過ぎにやって来た四十代の女性は、かれこれ一時間以上話し続けている。
「だからね、あの人は浮気している、そうに違いないって思うのよ。あなたもそうでしょう?」
この問い掛けを、夕美はすでに七回耳にしていた。そうですね、と曖昧に頷きながら、終わりの見えない彼女の話に耳を傾ける。
女性が来所するのはこれが三度目だ。夫の行動が疑わしい。だから調査を頼みたい。そんな思いを、延々続く愚痴とともに吐き出す。しかし、彼女が正式に依頼をしたことはなかった。いつも話の最後には、「聞いてくれてありがとう。でも、私の思い違いかもしれないから、もう少し様子を見るわ」などと言って帰っていく。
毒を発散したいだけなのだ。安っぽいプラスチック製の目隠しに囲われたブースで、自分の言葉を(もはや家族や知り合いには相手にされないであろう言葉を)聞いてくれる相手がいる。彼女の目的はそこにあるのだろう。
「それで、ご依頼の方はいかがなさいますか?」
意を決してそう尋ねるも、その意図が女性に伝わっている様子はない。
「依頼ねえ。今度こそは、って私も思うけど、それには根拠がいるでしょう? 根拠と言えばね、この前あの人ったら――」
女性がこの後何を話そうとしているのか、夕美には想像がつく。何せ、彼女の話はいつも堂々巡りで、同じ話ばかり繰り返すのだ。一回の相談で、彼女の言う「疑わしい」エピソードは同じものが三、四度も顔を出す。しかもそんな話が複数個あるのだから始末に置けない。
相談者に悟られないよう腕時計に目を走らせてから、ため息を心の中で漏らす。この後の展開も、おそらくテンプレートどおりだろう。話を打ち切ろうとしたところで、女性は「私の話なんて誰も聞いちゃくれない」と激昂し、涙を流す。よくぞと思うほどに被害的な妄想を並べ立てた挙句(「みんな」「いつも」「絶対に」が彼女のキーワードだ)、突然しおらしくなって自虐に走り(「全部私が悪いの」)、最終的に「聞いてくれてありがとう。でも依頼は――」だ。
――あと一時間ってところかしら。
夕美は逆算し、どのタイミングで「そろそろお時間が」と切り出すか算段を立てる。相談の上限は三十分、延長しても一時間と定められていて事前に相談者にも念押しをしているが、こうなってしまうとなし崩しだ。
結局、解放されたのは相談開始から二時間が経過した後であり、そこまでの流れも夕美の予想どおりであった。
「お疲れさん」
肩をほぐすために腕を回していると、角田が缶コーヒーを差し出す。
「毎度毎度、困っちまうな」
「いや、私もよくないんです。いつもずるずる聞き続けてしまうから」
「誰が担当したとしても、ああいう手合いは同じだよ。気にすんな」
少しばかり気持ちが軽くなる反面、角田の優しさに甘えている自分が嫌になった。あの女性の話を聞き続けていたためか、どうにも最近、自己嫌悪に走りがちで困る。
もとから自信のある方ではない。角田は自分を買ってくれているようだが、私のどこが、と思ってしまう。
昔から「器用貧乏」という言葉が自分の代名詞だと考えてきた。何をやってもそこそこ。学校の成績はオールB。定期テストでは暗記で高得点を取るが、模試ではうまくやれないタイプ。就活にしても、一次試験は通るのだが、たいてい二次の面接で落とされる。そうしてたどり着いたのがこの興信所というわけだ。
夕美のような窓口担当ではない、実際に足を動かして働く調査員たちの中には、「名探偵」への憧れからこの道へ邁進してきたという者も少なくない。そうした人たちに対し、引け目のようなものもあった。
仕事をネット上で探しながら、ふと興信所の求人に目を留めて応募しただけの自分に、他者から褒められるような筋はない。「興信所は、目立つ人が採用されにくい」という嘘か真か分からない情報から、「それなら自分にも合っているかも」と合点しただけなのだ。
「そういえば」
どんどん沈み込んでいく自分を押しとどめるために、夕美は無理矢理話題を変えた。
「新家さんの『試験』って、どんなものなんでしょう?」
その「試験」は明日に迫っていた。あの感情が欠けたような男と、今度は一対一で対峙するかと思うと、穏やかではいられない。
「分からん。アイツの考えていることを理解できたためしがない」
「角田さんも受けられたんですか? その試験」
角田は微笑み、うんともいやとも言わなかった。
「まあ、学科試験とは違うんだ。気楽に行ってくるといい」
そう言われても、夕美は落ち着かなかった。何を査定されるのか、何を言われるのか。行き場のない不安が、しこりのように胸から離れない。
「そうですね。明日のことは、明日の自分に任せます。それじゃ、外に出てきますね」
薄手のコートを掴み、身支度を整えた。自分の言葉を反芻する。明日の自分に任せればいい。そう言い聞かせる。
しかし、新家との二度目の邂逅は、想定よりも少しだけ早く、思ってもみない形で訪れた。
町内会の空気は弛緩していた。そして同時に苛立ちを孕んでいた。その日は役員選出の選挙が予定されていたから、無理もない。
夕美が顔を出した町内会は、近隣地域の中でも特に多くの世帯を擁するところらしい。そのため、地区の体育館にパイプ椅子をずらりと並べて開催されている。
自ら希望してこの場に参加している人間はほとんどいないに違いない。誰もが、知らないうちに次期役員に選出されてしまうのを避けるためという、至極消極的な理由でここにいる。
自分が余分な仕事を負うのは誰だって避けたい。かと言って、町内会が機能しなくなると文句を言い始める。生ゴミを狙う鴉除けの黄色い網を誰が用意するんだ、哀れにひしゃげた公園横の街灯を誰が修繕するんだ――結局のところ、会長を一年務めたら一億円もらえる、というふうになっていないシステムがおかしいのかもしれない。
夕美がここにいるのは、当然のことながら調査のためだった。決して、彼女がこの地域に居を構えているわけではない。本来なら、こうした場に赴くのは調査員であり、相談員の夕美は門外と言える。しかし、調査員たちに別の依頼が立て込んでいるという事情と、若い夕美が現場経験を積むという研修も兼ねて、こうして遣わされたのだった。
内容は、町内会長のパワハラについて証拠を集めてほしいというものだ。依頼主は、町内の有志数名。今回は様子見で、まずは町内の雰囲気や、会長の人となりを少しでも見ておけば十分だ(だからこそ、夕美にこの件が回ってきたのだが)。町内会の参加人数が膨大だからか、特に受付も設けられず、難なく潜入することができた。
――どこまで本当なのかしらね。
正直なところ、夕美は懐疑的だった。そのわけは、会場の前方で巻き起こっている陰湿な光景にある。町内会が始まる前だと言うのに、会長の周囲を複数人が取り囲んで、町内会の運営についてぐちぐち文句を垂れ流している。会長と目される老人は、おどおどとした表情を浮かべながら、しかし何かを説明しようと試みていた。どう見ても集団いじめの様相である。そして、会長はむしろ被害者のような構図だ。
パワハラについて調査を依頼した人々の筆頭は、物部という男性らしい。プロフィールシートには、口を真一文字に結んで顎を突き出した、柄の悪い老人の写真が載っていた。その物部は、会長の正面でひときわ威圧的に迫っているように見える。
物部については、相談に当たった角田も警戒していた。
――「あの物部ってやつは、曲者だな。自分より格下だと思えば、罪悪感なく攻撃できるタイプの人間だ。もしかすると、この件、だいぶ嘘が混ぜられているかもしれん」
時間になり、ひとまず会長は解放された。物部たちは意地の悪い笑みを浮かべながら、前方の座席に陣取る。夕美も慌てて中ほどの席へ腰かけた。そこであれば、会長と物部たちの様子を目視できる。
ふと、自分の斜め前に、見覚えのある紺色のスーツが鎮座していることに気付いた。
――あれ? 新家さん?
横顔をちらりと盗み見ただけだが、やはり新家で間違いないようだ。何かの調査だろうか。それとも単純に、この辺りに住んでいて、この町内会に所属しているだけなのだろうか。
会長がマイクを手に、弱々しく説明をする。
「次期町内会役員について、希望者はおみえになりませんでした。申し訳ございませんが、今後の町内会運営のため、くじ引きによって決めさせていただきたく存じます。この選出方法は、町内会の規約に則ったものであり――」
近年は役員のなり手不足が深刻化し、この地区のように抽選形式を取るところや、他者推薦を基に内諾を得ようとするところが増えているらしい。しかし、厳正なはずの抽選結果に対して「できないものはできない」と突っぱねる者や、「やり直せ」と求める者も少なくなく、現役員は対応に苦慮している現状だと言う。内々で承諾を得ていた場合にも、後になって「やっぱりやめる」と先方が言い出した例もあるそうだ。
外では、おあつらえ向きに雨が降り始めている。暖房のない体育館の寒さと、湿気の不快さで、参加者の苛立ちは漸増しているようだ。
会長らは粛々とくじ引きの手続きを進めている。世帯主の名前が書かれた紙をくじにして、ボックスの中に入れる。中身を十分にかき回し、厳かに一枚ずつ引いていく。
「くじ引きの結果、次期町内会役員は――」
会長は、数名の名前を読み上げた。会場内のほとんどがほっとした表情を浮かべる中に、うなだれている人間の姿も垣間見える。前方にいた、物部一団のうちの一人も頭を抱えていた。
「なあ、会長さあん」
前方で、物部が立ち上がる。
「やっぱり俺ぁ、納得できねえんだわ。町内会だろ? 大事な組織なんだろ? そんなら、くじ引きで決めるなんてちゃんちゃらおかしいんじゃねえの?」
ドスの利いた声が響く。夕美は小さくため息をついた。角田の言うとおり曲者だ。きっと、仲間内で該当者が出なければ、何も言わなかったに違いない。
哀れな会長は、真正面からそれに応えようとしてしまう。
「それでも、希望者がいない以上は――」
「それを何とかするのが会長だろうがよ。希望者が出ないっていうのは、あんたたちが力不足だからだ」
身勝手な言い分だ。それに、大きな間違いを犯している。希望者が出ないのは、物部たちがそうやって町内会役員をいじめているからだ。
そっと新家の方を盗み見る。彼がどんな反応を示すのかに興味があったのだ。しかし、その横顔には相変わらず取ってつけたような微笑が張り付いていて、開会前から何も変わっていなかった。
「皆さんも、そうは思いませんかねえ?」
出し抜けに、物部が参加者側を振り返る。口元が歪にねじくれていた。少し遅れて、にんまり笑っているのだと夕美は気付いた。
「誰だって忙しいのに、どうして町内会なんてものを運営しなきゃならない? どうして年齢に制限がある? 年寄りはみんな暇だとでも思ってんのか?」
先ほどから、話の軸がぶれ過ぎている。くじ引きに疑問があるのか、運営陣に不満があるのか、規約に異議があるのか。きっとどれも方便なのだろう。つまりは、「自分と仲間は町内会などやりたくない」と言いたいだけなのだ。
「たとえば、てめえだよ、てめえ」
物部は唾を飛ばしながら、一点を指さした。最初、夕美は自分が指されたのかと思って肩をすくめたが、どうやら違うらしい。物部が人差し指を向けているのは新家だった。
「いつもそんなスーツで出歩きやがって、どこの議員だ。金持ちはいいよな。俺たち庶民の生活なんてどうでもいいと思ってんだろ」
その人、議員じゃありませんよ、という台詞が喉まで出かかる。しかし、夕美にはそれ以上の勇気がなかった。
新家は微笑しながら、無言で物部を見つめ返している。
「なあ、スーツの兄ちゃん。てめえみたいな若造が町内会を担うべきなんだよ。俺たちだって忙しいんだから、年寄りを当てにするんじゃねえ。それに、てめえ自身の勉強にもなるだろうが。え?」
そこで会長がマイクを通して止めに入った。
「働いてみえる方も多いですし、若いうちに役員になってしまうと、なし崩し的に何年も継続を強いられる場合だってあります。それに、個々人で事情のある方には配慮を――」
「今俺が話してるんだよっ」
怒鳴り声が反響し、会場内が静まり返った。
「なあ兄ちゃん。てめえが『はい、やります』って言えば、全ては丸く収まるんだよ。町内会役員、やるだろう?」
新家は微笑を崩さない。そのまま少しだけ、首を傾げてみせた。
「僕は、やりません」
物部の苛立ちは限界を超えたらしい。浮き出した血管から、今にもブチッという音が聞こえてきそうだ。
「てめえみたいなのがいるからダメなんだよっ。この社会のクズがっ。年長者の言うことには従えっ」
やってられるか、とその辺に唾を吐き――哀れなことに、その唾は近くにいた女性のスカートにかかった――、物部は体育館から出ていった。数秒ののちに、銀色のセダンがエンジン音を轟かせながら走り去っていく。
夕美はげんなりした気分で背もたれに身を預けた。話の通じない一人の人間に、町内全体が振り回されている。やり切れないものを感じていた。
新家は、微笑んだまま前に向き直った。先日の喫茶店で見せた一種の危うさを、少なくともこの場で露わにする気はなさそうだ。
その後は、会長らが場をとりなして、次期役員の承認が行われた。物部とのやり取りで、さすがに会長へ同情が集まったのか、くじ引きで選ばれた人々のほとんどは「一年だけなら……」と首を縦に振った。ただ、物部一派である一名は頑なに承諾しようとしない。引くに引けないのだろう、ここで頷いてしまったら後から「言いなりになったクズめ」と物部になじられるに違いない。結局、不足した一名分の穴を、現会長が顧問としてサポートするということで話がまとまった。
雨の音が響いている。町民たちは、気だるそうな様子で、列を成して体育館から出ていく。
新家は席を立とうとしなかった。確証はないが、夕美が後ろにいたことにも気付いていないのではあるまいか。
いずれにしても、夕美は新家に声を掛けずに会場を後にする必要がある。あくまで調査のためにこの場へ赴いているのだ。物部に因縁を付けられた人間と話してしまっては、きっと悪目立ちしてしまうだろう。
荷物をまとめ、立ち上がる。雨は強さを増している。
そのとき、夕美の耳は新家の呟きをかろうじて拾った。
「――してやる」
前を向いたまま、彼はそう言った。
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