第39話 藤咲愛純は二度風邪をひく

「痛ってぇ……」


 打ちどころが悪かったのか、お姉ちゃんに殴り飛ばされた男は立ちあがろうとしてふらつき片手を壁に付く。私ともう一人の男はその状況が飲み込めず呆然としていた。


「行くよ真恋!」


「え?あ、お姉ちゃん?」


 そんな中、お姉ちゃんが私の手を引いてその場を後にする。しばらく走ってから振り返るも、男達は共に動けないのか追ってくる気配はなかった。


 ♡ ♡ ♡

 

「はぁ……はぁ……ここまで逃げればいいか」


 お姉ちゃんがそう言って立ち止まる。そこはお姉ちゃんの住んでいるマンションの駐車場だった。併設されているこの駐車場にはマンションの部屋の鍵がなければ入れないので逃げ場所としては最適だ。


「真恋!大丈夫!?怪我とかしてない!?」


「うん……してない、けど」


「ああ、良かった〜」


 私の無事を確認したお姉ちゃんはその場にへたり込んでしまった。私は駆け寄ってお姉ちゃんの肩を掴む。


「お姉ちゃん、大丈夫!?」


「うん、力が抜けちゃったみたい」


 私が心配してそう聞くと、お姉ちゃんはにへらと笑ってそう答える。それに安心してまた私も力が抜けて座り込んでしまう。


「もう、無茶しないでよ。お姉ちゃん、私に抑え込まれるくらい力無いんだから」


「あはは、ごめんね、頼りないお姉ちゃんで」


「そんなことはないけど……」


 そう言いながらお姉ちゃんの肩から手を離す。先ほど慌てて近づいた時は気づかなかったが、着ているTシャツは汗でびっしょりと濡れていた。

 

「お姉ちゃん!?なんでそんな汗びっしょりなの!?」


「ああ、これは急いで走ってきて、それでこうなっちゃって」


「もう!風邪ひいちゃうよ!」


「大丈夫だって、風邪なんて1回しかかかったことないし」


「限度があるでしょ!これ、お姉ちゃんのダウンだから」


「真恋、話したいことがあるの」


 そう言って私は着ていたダウンを渡す。ダウン一枚脱いだだけでも少し肌寒く感じる。こんな濡れたTシャツでいたら凍えてしまう。しかし、お姉ちゃんはダウンなんか目に入っていないかのように話し始める。


「わかったから、聞いてあげるから今は先にこれ着て」


「私、今まで真恋に酷いことしてた。自分勝手で、真恋のことなんか全然考えてなかった。ううん、勝手に決めつけてた。こうした方が真恋のためになるって」


「でも、お姉ちゃんの考えは正しいよ。姉妹でレズなんて、世間で何言われるか分かんないもん」


 お姉ちゃんの言葉に私は俯いてそう返す。そもそも姉妹で、女同士で恋愛感情を持つと言うのが稀なのだ。偏見の目はだいぶ緩和されてきたとはいえ、全ての人に理解を得られているわけじゃない。将来に大きな影響が出ないともいえない。


「でもね、親友に言われて分かったんだ。私は本当はどうすればよかったのか。私自身、どう思っていたのか。本当に大事なのは私たちが納得できるかなんだって」


「……お姉ちゃん?」


 先程から微妙に噛み合っていない会話に、いや、私の言葉が聞こえていないかのような態度に違和感を覚える。私はお姉ちゃんの方へ目をむけるも、どうもお姉ちゃんの目は焦点があっていないように見える。顔も先ほどよりも紅潮しているし、息も若干荒くなっているような気が……


「真恋、私……」


「……お姉ちゃん?」


 ばたっ


「お姉ちゃん!」


 お姉ちゃんの言葉が止まり不思議に思っていると、お姉ちゃんはまるで人形の糸が切れたかのようにその場に倒れ込んでしまう。私はすぐさま近寄り支える。


「すっごい熱!」


 おでこに触ってみると火傷しそうなほどに熱く、表情や息遣いからかなり苦しであろう事が伝わってくる。


「ひとまず家に……」


 一刻も早く落ち着ける場所に寝かせなければと思った私は、お姉ちゃんを背中おぶり、マンションの部屋へと運ぶことにした。


 ♡ ♡ ♡


 随分とおかしな夢を見ていた気がする。頭と体があったかくてだるくて、でもふわふわしていて、思っていたことがスラスラと口に出せた。なのに、真恋の言葉は聞こえなくて、耳に何十にもフィルタをしたかのようなぼやけた音だけが聞こえていた。結局、最後の結論を言う前にその夢は途切れてしまった。


 私が目を開けると、すぐ横に見慣れた姿があった。でも、その姿は私が最後に見たものではなくもっと幼い、大体六年ほど前、小学三年生くらいの時の姿だった。


 真恋は何やら思い詰めたような表情をしながら私の右手を両手で握って見つめている。私がそれに気づいて右手に僅かに力を入れると、それに気づいたのか真恋が私の顔の方へすぐさま振り向く。


「真恋、どうしたの?そんな顔して」


 私の意思とは関係なく、口から言葉が溢れた。だが、それに対して圧迫感や閉塞感は感じない。むしろ、それが自然かのような感覚がある。

 私の言葉を聞き、真恋は目尻に涙を浮かべ始めた。


「あ、お……」


「お?」


「おねしゃん!」


 私が声をかけると、真恋は私のことを呼びながら抱きついてきた。


「もう、なんで泣いてるの?」


「だって。おねしゃん、私の、ヒック、私のせいで風邪なって。ヒッ、おねしゃん苦しそうで、しんじゃ、死んじゃうかと思って、うう……」


 なぜ泣いてるのかと聞くと、真恋は舌足らずな口調で泣きながらそうやって説明してくれる。それを聞き、私は昔おんなじような事があったなと思い出す。

 あれは六年前の夏、なかなか帰ってこない真恋が心配になって探しに行き、帰りに雨に降られて帰ってきた時のことだ。真恋は私が抱き抱えることであまり濡れずに済んだが、私はずぶ濡れになってしまい、その結果風になってしまったのだ。確かあの時も真恋はずっと私のそばにいてくれた気がする。懐かしい思い出だ。

 となると、これは夢なのだろう。それにしても、『おねしゃん』と言う呼び方は懐かしい。高学年になるにつれだんだんと『お姉ちゃん』に治っていき、いつしか聞くことはなくなってしまった。


「なんで私が風邪をひいたのが真恋のせいなの?」


「だって、私が、私がいじめられてるから。それで帰りが遅くなっちゃって……」


 この頃の真恋はとある男子に学校でいじめられていた。当時の真恋はそのことでかなり傷ついていた。後に事情を知った両親が学校に乗り込み解決したが、それまでは私がなるべく真恋を守れるように行動していた。


「真恋がいじめられるのは真恋のせいじゃないよ。それに、私は真恋を守りたくて守ってるんだから」


「守りたくって?」


「そうだよ」


 不思議そうな顔をする真恋に、私は当時答えたのと同じ言葉を返す。


「真恋に悲しい思いなんてさせたくないもん。真恋を守れるんなら風邪くらいなんてことはない」


「でも……」


「だからね、そんな悲しそうな顔してないで、笑顔を見せて」


 私は、不安げな表情の消えない真恋の頬に親指を当て、口角を持ち上げるように動かす。私の行動に不思議そうな顔をしている真恋に私は微笑みかける。


「うん、いい笑顔。真恋の笑顔を見てると、幸せになれるんだ。私、笑顔な真恋が一番好きだよ」


「?私が笑顔だと、おねしゃん嬉しい?笑顔が好き?」


「うん、すごく嬉しい。真恋の笑顔が一番好き」


「あのっ、あのっ、私も、おねしゃんが笑ってるのが好き!」


「ふふっ、ありがとう!」


 嬉しいことを言ってくれた真恋を力一杯抱きしめる。あの時の私はその言葉に舞い上がっていて真恋の表情をよく見てなかったが、意識せずとも体が動いてくれる今の私は、抱きしめる寸前一瞬視界に映った真恋の表情が、何やら熱っぽいものを孕んでいるように見えることに気がついた。


(まさか、この時から?)


 そんな疑問を残し、夢はそこで終わってしまった。


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