魔法のりんごをささげるときに

内野広宣

魔法のりんごをささげるときに

ある山奥の村に、この世に二人といない美しい村娘がいました。名前はナディアといいました。

そして同じ村にナディアにふさわしい青年がいました。名前はジャンといいました。

二人が恋に落ちるのは、村人全てが分かっていました。そして二人を祝福していました。

二人が結ばれたら、どんな美しい子が生まれるのだろうと、村人たちは思っていました。


その山奥の村から遠く離れた海岸近くの塔に魔女が住んでいました。

全てを見通せる魔法の水晶玉で、ナディアとジャンを見ています。

『やっと、この時が来た。もう何十年待っただろうか』

魔女は満面の笑みを浮かべて一人ごとを言いました。

『幼い頃から見つけて育つのを待っておったのだ。ナディアよ。お前が流すただ一度の真実の涙が私の願いをかなえることができるのだ』

魔女は、魔法の水晶玉に映ったナディアをにらみつけ

『絶対奪い取ってみせるぞ ヒヒヒ』

とこの世で一番恐ろしい笑みを浮かべました。


大人になった二人は、恋仲になり、いつも一緒にすごしていました。

ある時。

ナディアとジャンは村近くの森へジャムの材料になる、りんごを摘みに来ました。

ナディアは、おてんばで幼い頃から木登りが得意でした。

『あそこにりんごが、たくさんなっている。ジャンは下でりんごを受け止めて』

ナディアは木に登っていきました。りんごを一つ落とした時に、草原を真っすぐこちらの方へ走ってくる狼が見えました。

『ジャン狼が! 早く木に登って』

ジャンが振り返るとすでにすぐそばまで、狼が迫っていました。ジャンは落ちていた木の棒を拾うと、振り回して威嚇(いかく)しました。

しかし、狼は恐れることなく一直線にジャンに向かってきて、太ももにかみつきました。

なぜか狼はただそれだけで帰っていきました。魔女の仕込んだ呪いの毒が牙に塗ってあったのです。

ナディアは、狼が去ると急いで木を降りました。

ジャンに声をかけても、ジャンは気を失っているのか反応がありません。呪いの毒が体にまわっていたのです。ナディアは急いで村に助けを呼びに行きました。


村で手当てを受けたジャンはずっと眠ったままでした。呪いの毒が体から抜けず日に日にやつれていきました。

あの美しい青年はもうここにはいませんでした。ただ、死にそうな青年がそこにいるのでした。

ナディアは村医者のもとを訪ねましたが、村医者はもう助からないだろうと言うだけです。

ナディアは泣きました。愛する人に何一つしてあげられることがない。そこへ突然、魔女が現れました。

『娘よ、このりんごのかけらを恋人に口移しで食べさせてごらん。たちまち体はよくなるだろう』

魔女は笑いかけて言いました。

『その代わり条件がある。このリンゴは呪いのりんごで、恋人の中の毒を消けしはする。だが、お前を醜く変えてしまうだろう。』

ナディアは、少しの間、何を言われているのかわからず沈黙して考えていましたが、

『それでもかまいません。ジャンの命を救えるのなら。』

と、震えながらも、断言しました。


ジャンのもとへ帰ると、ナディアは不安になりました。

本当に魔女を信じていいのかと。

りんごのかけらをジャンに食べさせる前にナディアは思い切ったことをしました。

自ら、りんごのかけらを少し口に含んだのです。口に入れてしばらくしても何の反応もありません。

りんごが安全であることを確かめた、ナディアは、キスをして口移しでりんごのかけらをジャンに食べさせました。

その日からジャンは日に日に体が良くなっているように見えました。しかしまだ目を覚ましません。


初めてジャンが目を覚ました時ナディアは井戸へ行っていて、そばには、近所のおばあさん、がいました。

ジャンが起き上がるとそばにいた、おばあさんは喜びというより困惑の表情で、ナディアに起こった悲劇をすべて話しました。ナディアは魔女の呪いで、醜い姿に変わってしまったということを。


その時ナディアが入ってきて、水の桶(おけ)を落としてしまいました。

ナディアは、自らの変わってしまった姿を見て、ジャンがどう思うか、恐れていたのです。

『ナディア、すべて聞いたよ。僕のためにごめん。さあ、こっちにおいで』

と手を広げてナディアを呼びました。

二人は強く抱き合いました。

『ナディア愛しているよ。どんな姿になろうとも』

ジャンとナディアは涙を流し、熱いキスをしました。

ジャンとナディアはこの日のことを決して忘れないと誓いました。


しかし、そんな日々はすぐ終わりました。りんごのかけらの効果が切れて、またジャンは日に日にやつれていきました。


ナディアは魔女が来るのを待つしかありませんでした。

次は、醜くなるだけではないだろう。どのような呪いがかかった、りんごなのだろうと恐ろしく思いながら。

ジャンが明日にも死ぬだろうという日に魔女は現れました。

ナディアは飛び上がって喜びました。魔女のもとへ走っていきました。

『早くりんごをちょうだい。私に、どのような呪いがかかっても、かまわないから』

魔女はこの世で一番恐ろしい笑みを浮かべて言いました。

『このりんごを恋人に食べさせてごらんたちまち良くなるだろう。しかし、食べたらお前のことをジャンも村人たちも忘れてしまうだろう』

『それでもかまいません』

ナディアに向かって魔女は叫んで言いました。

『忘れるんじゃないよ。お前の最後の涙を頂戴(ちょうだい)』

ナディアはその言葉の恐ろしさに震えながらも、走りました。


しかしナディアは恐ろしくなりました。私のことをすべて忘れてしまったジャンは私をどう見るのだろう。

ナディアはりんごを村人に渡し、頼みました。

『このりんごをジャンに』

そう言い残し、ナディアは静かに村を出ていきました。もう二度と、村に帰らない。ジャンにはもう会えない。その覚悟で。


真夜中。

魔女は村のたった一つしかない井戸の前に来ました。魔女は呪いのりんごを取り出すと、手でりんごを砕き、井戸へ放り込みました。この水を飲んだ村人たちはナディアのことをすべて忘れてしまうでしょう。


りんごを与えられたジャンは日に日に良くなりました。

ジャンはナディアのすべてを忘れてしまいました。あの誓いの日のキスのことも。

村人たちもナディアがいたことは、もうすべて忘れてしまいました。


何年たったでしょうか。ナディアは、体の調子を崩(くず)し、私は、もしかしたら、長くは生きられないかもしれないと、考えるようになっていました。もし死ぬのなら、どうしても、ジャンが元気になった姿を一度でいい、遠くからみかけるだけでもいいと、ナディアは再び村にお訪れました。

村人たちは醜い娘を怪訝(けげん)な目で見ました。

ナディアは聞きました。

『ジャンという方はどこにいますか、健康ですか』

村人はこたえました。

『ジャンは元気だよ。最近結婚してね』

ナディアは暗闇に落ちるような思いになりました。その時です。

村の外から馬が走ってきました。馬上にはジャンが。

一瞬のことでした。ナディアの目にジャンは美しく輝いて見え、一目だけでも会いたいという願いはかないました。ジャンは、ナディアに気づかず馬に乗って走っていきました。


もう死期が近づいているのを、わかっていたナディアは、力なく歩いて村を去りました。最後に一目ジャンに会いたかったのです。


夜になりナディアは丘の上にある、りんごの木の下で休むことにしました。

星空を見上げながらナディアは幸せだったジャンを愛した日々を思い出しました。

死期が近づいた痛む体のことも忘れ、ナディアは幸せな気持ちになりました。

もう、思い出でしかないけれど、心は澄み渡り静かな喜びで満たされました。

その時ナディアは手帳に詩を書き記しました。

旅人でも、いいからせめて、自分の思いを誰かに知ってほしかったのです。


すると突然、魔女が現れました。

『お前に最後に会った時の約束覚えているかい』

『ええ、涙などいくらでもどうぞ』

ナディアはもうすぐ死ぬことを悟り最後にジャンを思い出しました。

一粒の涙がこぼれました。

魔女は小さな瓶で涙を受けようとしました。

その時、突風が吹き、涙はリンゴの木の根っこに落ちました。

突然、りんごの木が強くまぶしく光りました。

その聖なる光で魔女は目をやられ手探りで、ヨロヨロ歩いた魔女は、岩につまづき崖の下へ落ちていきました。

ナディアの最後の思いが、真実の涙の力でかないました。


どれくらい時がたったでしょうか。気を失っていたナディアは目を覚ましました。命の最後にリンゴを一つ食べようと、手を伸ばしりんごをかじりました。

すると,お腹の中から感じたことのない暖かい波動が全身を駆け巡りました。

醜く変わっていた姿は、みるみるうちに、美しく戻りました。

りんごの木は魔法のりんごの木になったのでした。

すべての病をいやす実をつける魔法のりんごの木に。


ナディアが光を感じて、東の空を見上げると朝日が雲を照らしています。そこへ旅人が通りかかりました。

『あれ、この手帳お嬢さんのですか?』

『いいえ違います。もう私の手帳ではありません』

ナディアはいたずらっぽく笑いました。

旅人は、手帳の持ち主の手掛かりを探すべく、手帳を手繰(たぐ)りました。すると、一片の詩が書かれた部分を見つけました。


ナディアの手帳には、こう記されていました。

題名 恋

全てを尽くしてまことの思いをささげてもなにも実らないかもしれない。

それでもそこには、何かが残った。

どんな宝石よりも真珠よりも一生の間あり続ける。

心に残る。

美しく輝き続けるものが。

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