第10話 弟たちと

 秋、とある日曜日。

「ケーイチ兄ちゃん、またいちぃ!?」

「すげえよ! 一定のペースで遅く走るって滅茶苦茶めちゃくちゃ難しいんだから!」

 みんなで双六すごろくをすると、蛍一はいつもビリである。

「ケーイチ兄ちゃん、がんばれぇー」

「あと十マスだけだよ」

 盤面に残っているのは蛍一のコマだけ。順位はもう決まっているのに、今回の参加メンバーである健五、四磨、弥六、二都は、蛍一がゴールするまで応援する。

「がんばれーっ!」

「いけー!」

「ケーイチ兄ちゃあん」

「頑張れ!」

 蛍一が唯一、好き、と言えるものは、これだった。

 弟たちと遊ぶこと。

 蛍一には、弟たちと過ごす時間以外で、楽しさ、幸福、などと呼べる感情を覚えた記憶が無かった。

「ゴーーーーーーーーーーーーーーーールゥーーーーーーーーーーー!」

「ごぉるぅー」

「おめでとう」

「優勝はまたケーイチ兄ちゃんだ! 俺、みんなでケーイチ兄ちゃん応援する時間、好きだ!」

 可愛い弟たちにもみくちゃにされるこの時間が、永遠に続けばいいのにと、蛍一はいつも願っている。

「あ、そろそろお買い物に行かなくちゃ」

 健五、弥六、四磨がもう一回もう一回と盛り上がっている中、二都はよいしょと腰を上げる。

「んじゃあ僕も行くー!」

 元気にもう一回コールをしていた健五だが、目当てと体の向きを一八〇度変えると、立ち上がりかけた二都の腕にぶら下がり、かえって買い物へ行くのを阻止する。

「ぼくもぉ」

「俺も!」

 二都は、三人の弟にぶら下がられて再び座ることになったので、ついでに全員で双六を片付ける。

「ケーイチ兄ちゃんは? 行かないの?」

 玄関に向かう騒がしい集団の最後尾で、四磨が振り返り、全人類が「行く!」と答えてしまうほどの悲しげな表情を浮かべる。

 それでも蛍一は、「行かない」と答える。

「今日は、ゆっくりしようと思ってたから」

 ――他には、どんくさい自分がいると面倒をかけるし、あまり大人数で行くと店の通路を塞いでしまうし――などという理由があったが、蛍一の中でそれは、無意識の中に閉じ込められていた。

「そっか!」

 それなのに四磨の笑顔には、四磨の全てが表れている。

「じゃ、ケーイチ兄ちゃんとサヤ兄ちゃんとナナに、なんかお土産みやげ買ってくるから! いってきます!」

「いってらっしゃい」

 そう言う頃には、蛍一の、無意識下に抱かれていた悲しみは消えていた。

 さてと――。

 蛍一は、誰もいなくなったリビングを見回す。

 ゆっくりするとは言ったが、何をしよう――。

 とん、とん。

 階段を下りてくる、静かで一定の足音。蛍一は考えることもなく、それが三夜の足音だと分かる。三夜が何か、荷物を抱えていることも。

「やっと静かになった」

 三夜はのんびりと言いながら、服を数着かかえてリビングに入ってくる。

「今度のライブ、ちょっと上品なのもやるからさ」

 三夜は服をソファに置くと、物入れからアイロンとアイロン台を持ってくる。ソファに積み重なった服の中には蛍一のワイシャツもあったが、不器用で家事全般が苦手な蛍一には、「ありがとう」と言うことしかできなかった。

「ついで、ついで」

 気楽そうに言う三夜の手元を、蛍一が少しでも技術を学ぼうと見ていると、三夜は少し笑って、「ここを押さえて、この向きに、こう」と、丁寧に教える。

 何をしても蛍一の不器用が治らないのは三夜も蛍一も知っているが、二人の時間は、穏やかに流れた。

「速すぎず、遅すぎず」

「うん」

「ボタンは熱で溶けやすいから、気を付けて」

「うん」

「折り目は、整えながら――」

 じゅ、じゅるっ。

 その音に、蛍一だけが飛び上る。

 音は、キッチンからだ。

 蛍一は、恐る恐る三夜の顔を覗き込むが、三夜は微笑んだまま、アイロンを動かし続けている。

 ならばと、蛍一は四つ這いで偵察に向かう。

 その間にも、音は続く。

 じゅる、じゅっ。

 蛍一は息を呑み、しかし進む。

 じゅっ。

「ナナ!?」

 キッチンの壁に寄り掛かるように体操座りし、カップ蕎麦そばすすっているのは、七那である。

「い、いつの間に……」

 じゅ。

 七那は下手くそな蕎麦啜りで、蛍一に返事をする。

 どうやら、三夜の後ろにくっついて、一緒に下りてきていたらしい。

「なに味?」

 早めに驚きが消え去った蛍一は、七那の隣にしゃがんで、カップの側面を覗き込む。

鴨南蛮かもなんばんだ。美味おいしいよねえ」

 じゅ。

 七那はまた、下手くそな蕎麦啜りで返事をする。

「もう残り少なかったよね。兄ちゃんたちに、頼んでおこうか」

 じゅっ。

「ぽにちゃんのご飯は?」

 ぽにちゃん――七那が自室で飼っている、桃色と黒灰色こくかいしょくの羽根をしたアキクサインコである。

 じゅ、じゅっ。

「ご飯はまだあるんだ」

 じゅっ。

 蛍一は、キッチンのカウンターから電話の子機こきを取ると、七那の隣に体操座りして、弟にカップ蕎麦(鴨南蛮)のお使いを頼む電話をかける。あの中で一番しっかりしている――四磨に。

 騒がしい健五とカオティックな弥六と孫の子守こもりをするおじいさんのような二都の喋り声の中から、どうにか「ナナの鴨南蛮蕎麦ね!」という四磨の声を聞き取り、お願いしますの返事をして、電話を切る。

 じゅ……。

 蛍一がじっと見ていると、七那は蕎麦を啜るのをやめて、目だけで蛍一を見る。

 十二歳差の長男と末っ子は、そのまま見つめ合う。

 インコちゃん模様もようの箸が動いて、蕎麦を不器用に掴み、蛍一の口に運ぶ。

「ん。おいひ」

 蛍一が笑うと、七那はまた、黙々と好物を食べ始める。

 三夜以外の兄たちとはほとんど喋らない七那だって、蛍一の大切な弟であった。

 七那と三夜と、心ゆくまでゆっくりして、蛍一は自室に戻る。

 常に携帯電話をマナーモードにしている蛍一は、日曜日にもかかわらず、仕事の連絡があったかもなどと無意識に思って、机の上に置いていた携帯電話を手に取る。

 途中で蛍一は、あの社風の会社から日曜日に仕事の連絡があるはずが無いことにおもいたるが、メッセージアプリの通知サインが点灯していることに気が付き、少し急いでそれを開く。

 黒を基調としたダークテーマの画面、一番上にあるのは――。

『高城ひとみが写真を送信しました。ほか一件』

 高城たかぎひとみ――今年入ってきた新入社員の女性で、蛍一に、三夜と同じことを言った人物である。

 休みの日に何か悩ませるようなことをさせてしまったかと、蛍一は慌てて彼女とのトークルームを開く。

 まず目に入った写真に、蛍一はほっと息を吐く。それは、仕事の資料の写真ではなく、野外で撮影されたカエルの写真だったからである。

 その上にあるメッセージには、『散歩の途中で見つけたカエルちゃんの寝顔が、美崎さんの笑い顔にそっくりだったので、つい』とあった。

 真正面から撮影されたカエルちゃんの寝顔は、確かに、ダークテーマに設定している画面に映る今の自分の顔に、少し似ているかもと思う蛍一であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る