第3話 ご挨拶

 ぴーんぽーん。

 無難ぶなんりんの電子音が鳴る。

 二都は煮卵のタレを作っていた手を止め、急いでインターホンに駆け寄る。

 粗い映像に映っているのは、同年代か、少し年上と見える女性だ。セールスか? いや、私服だし、何かの勧誘か――?

 怪しみながら、「はい」と返事をすると、前髪の陰に隠れた顔がびくっと動いて、そして、何かに背中を押されたように話し出す。

「向かいに引っ越してきました、榎本えのもとと申します……」

 五万人の聴衆の前で喋っているレベルの緊張をびた声に、二都は数日前の記憶を思い出す。そういえば四磨が、誰かがしてくるようだと言っていた。

「その、ご挨拶に、粗品そしなですが、お持ちしましたので……」

「あっ、はいっ、すぐ行きますっ」

 彼女が大型車両のエンジンのように震えているのがインターホン越しにも分かって、二都は慌てて返事をし、走って玄関へ向かう。

「あ、どうも……」

 玄関からころげるようにして出てきた二都に、カメラに映っていた女性が頭を下げる。

 女性は、色褪いろあせたような長い茶髪を後ろで一つに結んでおり、その顔には、社会の荒波に揉まれたのか、二十代だろうにしわができていた。服装は一目で、私服は二パターンしかないことが分かるほど地味なものだった。

「わっ、わざわざすみませんっ」

 二都は転びかけていた体勢を何とか立て直し、門を開ける。

「いえ、あの、これを……」

 女性は腕にげていた紙袋から菓子折かしおりを一つ取り出し、下側を二都に向けて差し出す。

「わ、こんな高級なもの……」

 それは、二都でも知っている高級菓子ブランドの洋菓子だった。

「ありがとうございます」

 六個入りなので足りるが、七人兄弟であることは言わないでおこう。

「いえ、では、どうぞよろしくお願いします……」

 女性は深々と頭を下げて、立ち去ろうとする。

「あっ、ちょっと待ってください」

 二都は女性をめてしまってから、急いで考える。

「ええと、うーん、あっ、そうだ」

 きょとんとしている女性を置いて、二都は庭へと走る。

「待ってくださいね! これを、こう、よいしょっと! ……はい!」

 またたに女性の前まで駆け戻って来た二都は、彼女の眼前がんぜんに、とれたて泥塗どろまみれの大根だいこんを一本、突き付ける。

「あ、あぁ、わあ」

 女性は心底こまった顔をしながらも、どうにかして喜びの声を上げ、湿った土がぽろぽろとがれ落ち続けている大根の、モンシロチョウの幼虫とアブラムシだらけの葉を握って受け取る。

「あっ」

 二都はここでようやく、引っ越してきたばかりの人に、調理に手間のかかる生野菜なまやさいを渡したのは間違いだったのではないかということにおもいたる。

「すみません! ええと、あー、ええと……」

 二都は泥塗れの手で、頭を掻き、顔を押さえ、肩を抱いて、体中を泥だらけにする。

 女性はそんな二都を見て、ふ、と息を漏らして笑った。

 するとエンジンの如き震えは止まり、彼女の持つ雰囲気は、ぐっと若返って見えた。

「ありがとうございます。私、ひとで、自分でこんな立派な野菜を買おうなんて思えないので、嬉しいです」

 彼女が笑うと、柔らかく温かな風が吹くようだった。もしも近くにつぼみがあったら、その風に誘われて、可愛らしい花をひらいたことだろう。

「そ、そうですか……」

 二都は何だか、息が詰まるようで、しばらく言葉が出なかった。

「あっ、あ、それ、からいのが大丈夫だったら、生で、はい、そのまま、サラダで食べられますから」

 二都はまだ泥の付いている手を、おさるさんエプロンで拭きながら、彼女の爪先つまさきあたりを見つめて言う。

「もし苦手だったら、電子レンジで温めて、ね、加熱すると、はい、甘くなりますから、それで、ちょっと醤油しょうゆを垂らすと、美味しいですよ」

「そうなんですね。ありがとうございます」

 彼女はまた、花が咲くように笑った。

 それから、二都に丁寧に別れを告げて、去っていった。

 二都は、何だか恥ずかしいような、むずがゆいような心地がして、彼女の背中を見送っていた視線を慌ててらし、また転げるようにして玄関に逃げ込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る