第9話 ナイアガラの悲劇あるいは奇跡

 

「リピートアフターミー。Bitch ! (このビッチが! Eat shit!クソ喰らえ)


 薫先輩が親の仇を罵るような顔で吐き捨てた。

 ビッチイートシットの意味は分からない。分からないが、薫先輩が変態だということだけはよく分かる。


「薫先輩、僕バカですけど、それが汚い言葉だって分かりますよ流石に」


 下ネタが苦手な人はここでそっとブラウザバックして欲しい。なぜなら、この生徒会は下ネタがヤバいからだ。どんな下ネタでも構わない、受けて立とう、という剛の者以外はこの先は危険だ。


 今僕は生徒会室で薫先輩に英語を教わっていた。

 2年生になってこのかた、赤点しか取ったことのない僕に英語の先生が脅しをかけてきたのだ。「須田くん、キミ、ほんと、ヤバいよ?」と文節ごとにゆっくり言う先生の本気まじの目を僕はこの先、忘れることはないだろう。

 そこで僕は薫先輩に泣きついたのだ。薫先輩の成績は学年トップクラスで優秀だと聞いた。しかも美咲ちゃんみたいに1、2を飛ばして5みたいな訳の分からない教え方はしない。真剣に教えてくれる。教師役にうってつけと思えた。

 だが、それが間違いだったのだ。留年の危機ヤバいと言われて、焦って変態ヤバい人に教えを乞うべきではなかった。


「というか、会長たち遅いですね」時計を見ると既に全授業が終わって1時間は経っていた。

 薫先輩は、そうだな、と気のない返事をした。


 会長の遅刻の理由は既に聞いていた。

 なんでも今日の家庭科の授業で『慎ちゃんにプレゼントして好感度アップ!』と調理実習のメニューを勝手に変えてしまったらしい。各班がハンバーグのタネをこねる中、会長は特大の飴玉をこねて、調理実習をめちゃくちゃにしたらしい。

 その件で、会長は今説教されている。

 何やってんだ、あのちびっ子。


 桃山も美咲ちゃんもまだ来ていない。

 今は薫先輩と2人きりだった。


 薫先輩は頬杖をついてじっと僕を見つめていた。

 僅かに微笑んでいる。余裕を含んだ笑みに見えた。

 後ろでまとめ上げた艶やかな黒髪が色っぽい。とても高校生には見えない。『大人の色気』を纏っていた。


「私と2人は嫌か?」と薫先輩が言う。先輩の余裕は崩れない。『そうではないだろ?』と言われている気がした。そして、「嫌じゃないです」と口にすれば薫先輩の責めの姿勢はさらに加速するように思えた。

「え、っと、その」顔が熱い。もちろん薫先輩と2人きりは嫌ではない。だけど、少し緊張する。薫先輩の顔がまともに見られなかった。

 目線を泳がせていると、薫先輩が不意に口を開いた。











「慎一、もっと私のことを苛めてくれていいんだぞ?」








 僕の緊張は一瞬で吹き飛び、そして『ドン引き』の訪れを感じた。

 こんにちは、ドン引き。よく会うね。

 もしや、これが狙いか? 僕の緊張をほぐすためにこんなアホなことを言っているのか?

 だとしたら、先輩の狙いは成功した。だが、そわそわ、もじもじ、上目遣いでこちらを伺う薫先輩を見ると、どうやら本当にSMの話をしたいだけっぽい。変態である。



 黙らないと口を縫い付けますよ、と僕が言い、薫先輩が恍惚の表情で身悶えしている時だった。

 唐突にガラガラとドアが開き、顧問の水島先生が顔を出した。

 今日は来ると通知があったから、予定通りの来訪だ。


「おっ。今日は2人だけか。慎ちゃん、いい子してた?」

「あ。はい」


 水島先生は僕を異常に可愛がってくれるのだが、何故かいつも子供扱いなのだ。先生が僕のもとに来て、「勉強してるんかぁ? えらいなー」などと言いながら僕の頭を撫でる。多分赤点取ってない人はもっとえらいと思うが、水島先生にはそんなことは関係ない。ノートに『ビッチイートシット』と書かれていようが関係ない。多分僕を褒められるなら、中身は何でも良いのだろう。

 水島先生は世間話もそこそこに、薫先輩に顔を向け、「実は一つ頼みがあるんだけど」と言った。






 ♦︎





 僕と薫先輩は、用具倉庫へ向かって歩いていた。

 薫先輩について行きながら尋ねる。「用具倉庫ってどこにあるんでしたっけ?」

「少し校舎から離れたところにあるんだ。あまり生徒の寄り付かない場所だ」



 水島先生の頼みとは、用具倉庫から机と椅子を1つ持ってきて欲しい、というものだった。

 ただ待ちぼうけていただけの僕たちは二つ返事で了承して、生徒会室を出たは良いものの、僕は用具倉庫の場所を知らなかった。金魚のフンのように薫先輩について行く。


 薫先輩の言ったとおり、どんどんと校舎から離れて行く。今更ながら気付かされるが、この高校は意外にも敷地が広い。毎年春には迷子になる一年生が見られるほどだ。

 しばらく薫先輩と雑談しながら歩いた。

 校舎が小さくなるほどになった頃、ようやく目的の建物が見えた。小さいコンクリート造りの倉庫、用具倉庫だ。

 何故、こんなところに建っているのだろうか。謎である。謎なのは立地だけではない。その造りも異質だった。ブーメラン型——L字型とも言える——に90度折れ曲がっており、幅はそこまででもないのに、高さは異常にあった。道の端に唐突に聳え立つ壁のようでもあった。


「なんですか、この不気味な建造物は」と一歩薫先輩に寄った。べ、別に怖かったわけではない。なんとなく、である。なんとなく。

 薫先輩はニマニマと笑う。「怖いのか?」

「怖くないです」と言ったのに、何故か頭を撫でられた。それを払いのけて、倉庫の入口に先に行く。扉を開こうと腕を伸ばしかけて気がついた。


「なんか鎖と南京錠ジャラジャラなんですけど」

「鍵かけてないと、お偉いさんの視察があった時に指摘事項になるんだそうだ。だが、普段はこのとおり——」


 薫先輩が難なく鎖を外した。


「——南京錠は開いている」

「意味ないですね」


 先輩は肩をすくめてから、扉を開いた。

 中に入る。

 埃っぽくて薄暗い。やたら高い位置にある窓から差す光に照らされ、埃が生物のように蠢いて見えた。

 ケホケホと咳をしていると、薫先輩がこちらに振り向き、「使え」とハンカチを貸してくれた。桜の花びらが描かれた和風なハンカチ。口に当てるとフローラルな香りがした。

 僕と薫先輩は倉庫内を、入り口に近い位置から順に見ていく。

 草刈り機や小型発電機、スコップなど、普段使わないものが散乱している。使わない物を次から次へと詰め込んだ、ということが一目で分かる散らかりようだ。

 折れ曲がり地点まで見て、机は見当たらなかった。


「ないですね」と僕が言うと「アレを見ろ」と返ってきた。

 薫先輩は折れ曲がり地点から、最奥のどん詰まり方向に顔を向けていた。先輩に倣い奥を見る。

 倉庫の一番奥に大量に積まれた机が見えた。傍には椅子もある。


「うっわ。一番奥ですよ、薫先輩。こりゃ出すのに一苦労ですね」


 通路は物で大混雑している。机一つだけ取り出して、はい終わり、とはいきそうになかった。


「まぁ。仕方ない。やらないと先生がまたぐちぐち言うからな。慎一は倉庫の外で待っててくれ。私が出すから——」


 僕も薫先輩も意識は完全に机に向いていた。それがいけなかったのだろう。

 それは薫先輩が話している最中のことだった。

 唐突に音が響く。











 ガガガガガガガガ! ガチャン! カチっ。











 薫先輩は背中を見せていたが、動きが止まっていた。固まっている、とも言える。加えて無言である。

 僕も事態の把握に務めるので精一杯だった。

 混乱する頭で必死に考える。

















 おい。

















 これ。まさか。






















 定番の。




















 倉庫閉じ込めイベント、キタァァァアアア!








 僕は歓喜した。

 この世界に来てから、ずっと思っていたのだ。

 いつかは体育倉庫に美少女と閉じ込められてイチャコラしたい、と。

 ああ、僕は今、最高にエロゲ主人公している。

 神に感謝。


 薫先輩がこちらに振り返った。

 さすがに少し動揺しているようだった。

 薫先輩が何か言う前に僕は言った。


「薫先輩っ、薫先輩っ! 僕たち閉じ込められちゃいましたねっ」

「あ、ああ。ところで慎一は何故そんなに嬉しそうなんだ?」


 薫先輩は本気で『困った。どうしよう』という顔をしていた。

 薫先輩はまずポケットに手を入れてひっくり返した。出てきたのはポケットティッシュとガムだけだ。


「くっ、スマホは生徒会室か……!」と悔しそうな顔をする。


 次に倉庫内を捜索し始めた。

 頭よりさらに高い位置にある窓は人が通れる大きさではない。

 僕も先輩に倣って捜索する。

 出入口のドアを調べた。


「ドアはどうだ?」と窓調べている薫先輩が尋ねた。

「ダメですね。通気用のガラリは外に通じてはいますが、指を入れるのが精一杯で、人が通るのは無理です」


 やがて僕らは諦めて、床に座った。

 さて、条件は整った。始めるか。僕らのラブコメをな!


 僕は薫先輩の隣——肩と肩が触れ合うような距離——に座った。

 そして言う。



「薫先輩……。僕怖いです」言いながら、頭を薫先輩の肩に預けた。ワイシャツ越しでも薫先輩の体温が頬に感じられた。温かい。

「だ、だ、だ、大丈夫だ。慎一。たた、助けがくるから、じきに」薫先輩は余計な力が入って、硬直していた。

 だが、いくら待っても薫先輩からのアクションはない。ただ鼻息が荒くなっただけだ。

 ちっ、このヘタレめ!

 薫先輩を心の中でなじってから、僕は次の作戦に乗り出した。

 薫先輩の肩に頭を乗せた僕の視線は、薫先輩の綺麗な首筋にあった。


 よし、ここだ。


 ターゲットを決めたら、超至近距離から、ふぅ〜っと息を吹きかけた。

「やっ、んぅう」と薫先輩が意外に可愛らしい呻きを漏らした。

 そのまま肺活量の続く限り吐息を吹き続けたが、薫先輩は首まで真っ赤にしてぷるぷる震えるのみである。それ以上の動きはない。

 ちっ、この唐変木がとうへんぼく

 またも薫先輩を心でなじった。

 次! 次だ!


 僕は薫先輩の耳元で囁くように言った。「僕、寒くなってきちゃいました……」間髪入れず「先輩、温めて」と薫先輩の目を見つめる。



 僕の期待は最高潮に達していた。

 さぁ! 早く抱きしめろ! 抱きしめてそのままキスして、それから、えーと、えーっと、とにかくエロいことしろ!

 薫先輩は意外にも今度はあまりうろたえていなかった。



「仕方がないな」と薫先輩が僕に向き直る。言葉とは裏腹に先輩は優しく微笑んでいて、まるで子供に抱っこをせがまれた母親のような顔をしている。

 僕のテンションは鰻登りに上がっていった。

 ドクンドクンと脈が早まり、呼吸も早まる。緊張が高まっていく。

 薫先輩の手がゆっくりと近づいてくる。僕はごくり、と唾を飲み込み、目を瞑った。

 唇が無意識に突き出る。それに気づいて引っ込めようとするが、まだ少し突き出ている気がする。何せファーストキスだ。童貞の僕にはキスの受け入れ態勢など分かりようもない。

 しかし、僕の期待した唇の接触はいつまで待ってもやって来なかった。代わりに腕に温かい感触を感じた。

 目をそっと開くと、薫先輩は僕の腕を両手で挟むように掴んでいた。どの恋愛映画や漫画でも見たことのない触れ合い形態。なんだその技は。

 僕が口を開こうとした時だった。

 穏やかな表情をしていた薫先輩が、突如野獣の如き、咆哮を上げた。




「うぉぉぉぉおおおおおおおおお!」




 雄叫びを上げながら、薫先輩は僕をこすった。

 腕、肩、背中とすごい勢いで擦った。擦りまくった。モンハンで言ったら双剣の鬼人化くらいの連撃につぐ連撃。

 そこにエロが介在する余地はない。

 あるのはお爺ちゃんが行う乾布摩擦の如き、擦り。

 やりたいことは、まぁ分かる。

 摩擦熱で温めよう、ということだろう。




 だが、薫先輩。




 違うのだ。




 そうではないのだ!

 僕が求めていたのはお爺ちゃんの健康療法などではない。なんで普段エロばかりのくせに、こんな時に限ってエロをしないのか。



「はぁはぁはぁはぁ。こんなもんでどうだ。慎一」

「あ。はい。もう十分です。ありがとうございます」


 イチャラブ大作戦は失敗に終わった。


 ——だが、僕らの本当の悲劇あるいは喜劇イチャラブが起きたのは、ここからだった。




つづく


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後編も今日中に投稿します。

前編にも応援よろしくです。

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