第5話 2年D組
「千葉さん」
今まさに妄想していた想い人から唐突に声をかけられて、口から心臓が飛び出た。
——いや、出てない。セーフだ。
あたしは手探りで心臓が出ていないことを確かめた。
ただ肩が跳ね上がった反動で、お尻が椅子から落ちかけただけだ。
慎一くんはあたしの動揺などつゆ知らず、人懐っこい笑みであたしに近づいて来た。
「次の国語のプリント、一枚多く取っちゃったから、あげる。まだ持ってきてないだろ?」
慎一くんは、教卓から取って来たプリントをあたしの机に置いた。
頑張れ、あたし。お礼を言うだけだ。冷静に。スマートに。
「あ、あ、あ、ありがと!」
盛大にどもった。
あたしのバカ! 変な子だと思われるじゃん!
慎一くんは全く気にした様子もなく、もう授業が始まるというのに、あーん、と大口を開けて、飴玉を一つ口に含んだ。慎一くんの口内を飴が転がる音が聞こえてくる。慎一くんの飴になりたい。
慎一くんをこっそりと真隣で観察しながら、あたしは優越感に浸っていた。
慎一くんの寝癖の直り切っていない黒髪。気怠げで重そうなまぶた。腕まくりしたワイシャツから伸びる細い腕。これらを授業中、至近距離で見ることが出来るのはあたしだけだ。あたしだけの光景だ。
慎一くんの隣の席。それは大金を払ってでも欲しい伝説の席。実際にあたしは取引を持ち掛けられたこともある。
2ヶ月前の席替えの日、慎一くんの隣の席を手に入れたスーパーラッキーガールは、あたしだった。
しかし、あたしは愚かにも最近まで、慎一くんをその他大勢の男子と同じ括りで見ていたのだ。
なぜ、こんなにも近くに、こんなにも魅力的な男子がいたのに、今まで気が付かなかったのか。
答えは分かっている。別の男子に好意を寄せていたからだ。
その時、慎一くんの席に別の男子がやって来た。
「いよーぅ、慎ちゃん!」
「だァーかァーら、いちいち肩組んでくるなっつの! 鬱陶しいやつだなァ」
「いーじゃぁん。ねぇまた教科書かちて〜」
「お前に貸す教科書はねぇ!」
「えーまだちんこのラクガキしたの怒ってんの〜?」
拓也くんだ。
あたしは拓也くんに恋をしていたのだ。
正確には『恋をしていると思い込んでいた』のだ。
あたしは今まで、男子は皆冷たいものだと思っていた。それが普通で、それが常識だった。
皆一様に冷たいから、あとは顔の良し悪しで好いた惚れたと恋愛ごっこをしていたのだ。
——だけど、あたしは目を覚ました。あの慎一くんの優しさで出来た飴玉をもらってから。
慎一くんに、しつこく『教科書貸して』と懇願する拓也くんに目を向ける。確かに甘いマスクをしている。だが、もはや、あたしの心は拓也くんに向いていなかった。鼓動が早まることも、顔が熱くなることも、拓也くんの言葉に一喜一憂することもなかった。
今のあたしの中心は、無論、慎一くんだ。
慎一くんはとても変わっている。
何を考えているのか、何をしたいのか、誰にも分からない。気まぐれで、トリッキーで、予測不能だ。それでいて、誰かを無闇に傷つけるようなことは絶対にしない。驚くべきことに、『優しい』のだ! 男子なのに!
『優しい』男子——なんてものが現実世界に実在するなんて、あたし知らなかった!
女を良いように使うために——例えば都合の良い性欲処理器としてとか、ATMとしてとかで——女子に優しくする男子は稀にいる。
しかし、慎一くんの場合、そうではない。表裏のない、素の部分で誰に対しても優しい。
優しいとは言っても、決して甘やかしてくれるわけではない。そうではなく、慎一くんは誰に対しても本気で向き合ってくれるのだ。真剣にボケるし、真剣にツッコんでくれるし、全力でふざけてくれる。あたしは慎一くんを見て、本当の『優しさ』というものを教えられた気がした。
拓也くんが教科書を手に2ーDを去って行った。
間も無く、先生がやってきて、国語の授業が始まった。
いつものことながら、授業は全く頭に入って来ない。
あたしはひたすら隣の慎一くんを観察するのに、忙しかった。
手に持ったペンと机上のノートは、慎一くんに関する情報をメモするための物であり、板書を写すための物ではない。
一つでも多く、慎一くんのことが知りたい。その一心で慎一くんの行動観察に励んだ。
慎一くんはのんびり屋さんなので、授業が始まって5分してからようやく筆箱を机上に出す。
無造作に置かれたのは、黒い箱のような直方体の筆箱。小学生低学年くらいの子が使うようなやつである。
可愛い!
なんであの筆箱なんだろ?!
感性が子供なのかな?
物持ちがとってもいいのかな?
とにかく良い具合にダサくて可愛い!
ようやく板書を写す気になったのか、慎一くんはおもむろに筆箱のフタをカパっと開けた。
中に入っていたのは、ペンと消しゴム——
——ではない!
それはぎっしり詰まった小包装の飴玉だった。
飴飴飴飴飴!
圧倒的アメ!
鉛筆を刺すところにスティック状の飴が刺さっている。
慎一くんはそこから飴を一つ取り出すと、授業中なのに堂々と袋を開けて口に入れた。可愛い。
あんなに飴入れて、ペンとか出しにくくないのかな?
疑問に思っていると、慎一くんはおもむろにポケットに手を突っ込み、なんとシャープペンを取り出した。
筆箱意味ない!
謎! 謎可愛い!
あの筆箱は飴専用なの?! 飴専用機なの?!
もはや筆箱ではなく、飴箱である。
ヤバイ、可愛い! 可愛すぎる!
ノートが風圧に捲れる音で、自分の鼻息が荒くなっていることに気がつく。ノートに目を落とすとヨダレが垂れてシミになっていた。
あたしが慎一くんの新情報に興奮していると、不意に慎一くんがこちらを向いた。
ぴったりと目が合う。
終わった、と思った。
背中を嫌な汗が伝い落ちる。
慎一くんをガン見していた100の言い訳を瞬時に考えたが、この鼻息とヨダレを説明できる言い訳は1通りも存在しなかった。
キモいと思われたら、あたしはもう生きていけない。
ダメだ。死のう。
しかし、慎一くんは何を勘違いしたのか、「ああ」と合点がいったようにゆっくりと頷いてから、自分の筆箱の飴を一つ取り出し、私の筆箱に入れた。
そしてあたしの耳に顔を寄せて小声で、
「今月の新作フレーバー」
と囁き、得意げな顔をした。
か。
か。
可愛いィィィイイ❤︎
可愛い過ぎる! 飴マニア可愛い!
何あの得意げな顔! 額縁に入れて飾りたいドヤ顔だった! 尊すぎるゥ!
そして、何故飴取引は筆箱上で行われるのか!
謎のこだわり! 謎可愛い!
慎一くんが愛おし過ぎて人生が辛い!
一人悶えていると、ふと背中に冷たい視線を感じた。
恐る恐る後ろを振り返る。
『死』が形を成して、こちらを見つめていた。
——いや、違う……あれは『死』じゃない! 桃山さんだ!
桃山さんが
怖っ。ぇ、怖ァっ!
想像して欲しい。いつも優しくてニコニコしているクラス委員長が、自分を殺意の込もった目で睨んでいるのである。
いったい何が桃山さんを殺意の波動に目覚めさせたのだろう。
あたしが恐怖でガタガタ震えている間に、いつの間にか授業は進んでいた。
「はい。じゃあここの問題は、須田くん。答えてくれる?」と先生が慎一くんに目を向けた。
慎一くんははっきり言って頭の良い方ではない。つまりアホなのだ。もちろんそこが可愛いところでもあるのだが、可愛さで問題は解けない。
当然、指定された問題もアホの慎一くんには解けない。
あたしは『可哀想……』と思いつつも、慎一くんがあたふた慌てている姿に、興奮し、少し濡れた。
それは、慎一くんがいよいよギブアップするか、と思われた時だった。
突如として、桃山さんが勢いよく立ち上がった。
「先生! こんな問題ごとき、慎ちゃんが答える程のものでもありません。私で十分です。私が答えます」
あんたは魔王の側近か!
いくら慎一くんを守るためでも、そんな言い分さすがに——
「そう? じゃあ桃山さんお願いできるかしら?」
通るんかいっ!
前から思っていたけど、この学校の先生はどこかおかしいと思う。
ちょうどその時、授業終了のチャイムが鳴った。
「あら。もうそんな時間? じゃあ日直! 今日のプリントを集めて、職員室まで持ってきて」
先生が日直に指示するも、誰も返事をしない。
あれ? 今日の日直って確か慎一くんじゃなかったっけ?
慎一くんは、自分が日直だと気がついていない様子だった。
すると、また桃山が立ち上がる。
「先生! 日直の慎ちゃんは、昨日前屈みで歩き過ぎて腰を痛めてます! 代わりに私が運びます」
「ぉぉおおい! いらん情報吹聴すんな!」慎一くんも立ち上がった。
「ふふふ。可愛い」
「上も下も元気いっぱいなんだね」
「はぁはぁ」
クラスが騒がしくなった。股を押さえて息を荒げる危ないやつまで出る始末だ。
というか、昨日生徒会で何があったんだ。あたしも気になる。
結局、プリントは慎一くんと桃山さんが持っていった。
くそぅ、あたしが慎一くんと行きたかったのに。
授業が終わった後の休み時間、あたしは自分の席で慎一くん情報の整理をしていた。
慎一くんがトイレに行ったのを横目で確認し、ペンを動かす。10時50分、慎一くん尿意を催す、っと。
そんな平和な休み時間。あたしは突如として身の毛のよだつ『死』を感じ取った。
後ろにいる……!
振り返ることはできなかった。振り返れば命はない。決して抗うことの出来ない天災のような恐怖がそこにあった。
この『死』そのもののような存在をあたしは知っていた。
——桃山さん。
桃山さんがあたしの耳元で囁いた。
「慎ちゃんに手ぇ出したら、殺す」
現れた時と同じように、去る時も突然だった。
バッと振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
あれは、もはや人ではない。バケモノだ。
慎一くんを想うあまり、完全にイッちゃった人間の成れの果て。
天使のように可愛い慎一くんと、それを異常な献身で守る桃山さん。
やっぱり、この生徒会はヤバい。
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